Sigh...

 

円い鏡の前に佇むひとり

向こう側と、こちら側と

その片方だけに雪が舞い降りる

 

愛の言葉を込めた旋律を溶かして

音の結晶がキスをする

 

とても静かな Sigh 吐息に眠る

時の流れに Sigh  ため息に消える

 

IT SPEAKS A LANGUAGE THAT I DEDICATE TO YOU

Index
Scene 02 >>>---------- 自己意識の横顔
Scene 03 >>>---------- 雨に散るカレンダー
Scene 04 >>>---------- 遠い幻をみつめて
Scene 05 >>>---------- 甘い果実の実際
Scene 06 >>>---------- 溶け出す白い部屋に
Scene 07 >>>---------- Overture
Scene 08 >>>---------- 夏物語を聴くチャペル
Scene 09 >>>---------- セプテンバー・バレンタイン
Scene 10 >>>---------- 傾斜五度の階層的静寂
Scene 11 >>>---------- トリップした記憶の破片
Scene 12 >>>---------- クリスマスキャロルへの終楽章
 
SCENE 01  グレイのバランス
 
   
 


 夥しい数の波長が全身を包んでいた。瞼の裏側に微かな光を感じながらも、それは奇妙な空間である。自分の身体が強張っているような緊張があるのは、その内側を彷徨っているせいなのかも知れない。

 空間全体は霧の中であるようにも思えた。目を凝らして周囲を見渡すと、半ば放心状態のもうひとりの自分に出逢う。いや、もしかしたら鏡のように映る何かがそこにあるのだろうか。

 何れにしても、そんな怠惰な無気力感の心象風景を、いたたまれないような気持ちで覗き見た。そして、その寒々しさは自分自身を果てしなく追い込んでしまいそうにもなる。また、それが単なる時間の無駄であるという失態へ化していくようにも感じながら。

 ------光は月?

 そんな憶測が浮かぶと、月の光に照らしだされた砂上を歩いている。さっきまで霞の中にいたはずなのに、辺りの視界は少しづつ晴れていく気がして、思わず天を見上げた。そこには、おぼろげな月が小さく浮かんでいて、その光はようやく地上に届いている。

 ふと、何かが背後に忍び寄ってくる気配がして、ゆっくりと後ろを振り返った。それと同時に耳鳴りがして、ちょっとした眩暈を覚える。自分を何処へ導こうというのだろうか、そこで見たものは白昼夢のように揺れる原野の拡がりであった。

 きっと身も心も滅ぼしてしまうのだ、という囁きが聞こえて来るような、湿った空気が音もなく頬を掠め、それはそのまま自分の焦燥となっていく。無力さを恥じるように気持ちが崩れ、涙が零れ落ちそうな自分を残して。

 ------何故?

 そう思った次の瞬間、眼球に鋭い痛みが走った。

 身体は凍りついてしまうほどに萎縮し、底知れぬ恐怖に襲われる。

 時間が膜で被われてしまったような仄暗さ。瞼を閉じていても現われるスクリーン。

 ゆっくりと目を開ける。

 驚いた事に地面は雪の結晶に変化していた。いや、もしかしたらそれは落とした涙が結晶となったものではないのか。

 顔を上げると向こう側にぼんやりとした人影が浮かんでいる。それは自分自身ではないことはよく解かった。こちら側に背中を向けて、肩を揺らし笑っている様子である。

 その表情を視たいという気持ちが強くなると、心が嗚咽するように苦しくなる。再び身体だけが沼の奥底にゆっくりと沈まされていくような感覚の中、切なさが誰かの手で握られたように、歪な動きで引いている。

 そんな重みで堕ちてゆく無音の中、細く尖った鉛筆で引っ掻いたような濃いグレイの線を見た。

 それはそのままの残像となっていた。

 頭を何かで殴られたように、確かにぼんやりとしていたかも知れないが、その皹のような線は無数の脳神経の割れ目のひとつにも思える。

 これは後々に予兆めいた胸騒ぎが押し寄せると、自分の中のどこかしらを刺す線となっていく。

 既に開かれている目は、足許にあったオリーブ・ドラブの大きな鞄の縫い糸を映していた。はっきりと焦点が合っていくと、少しだけ落ち着きを取り戻す自分が居た。

 丸くなっていた身体が無意識に起き上がり、必然的に大きな息を吸うと、それはまるで海で溺れて夢中で酸素を求めている感じに似ていると思った。

 悪夢から這い出して、全身が小刻みに震えている自分の手を強く握り締めて祓いのける。

 ------ずっと忘れようとして忘れられなかったこと

 そこが駅であることに気づくまで、大して時間は掛からなかった。人影は少なく、プラットフォームの向こう側には椅子に腰掛けている初老の男性を確認した。幻影でも錯覚でもなく、その向こうには「京都」の文字が見える。朝のまだ早い時間の新幹線のりば。

 ------いつの間に眠ってしまったのだろうか

 朦朧としている脳の意識を感じながら、それまでの記憶を辿っている。

 次から次へと入れ替わるシーンが僕の心臓の鼓動に連動し、再びスピードを増していくのを意識した。

 徐にダーク・ネイビーのトレンチコートのポケットへ手をやる。そこには一枚の封筒があった。それが如何いう物なのか、中身の紙の感触と共に思い返す。

 ------今更・・・

 そう自分に問いながら、僕は大きく息を吐いた。そして駅の窓の隙間からこぼれる幾本かの白い光に触れようと試みた。そうすることによって気を紛らわせることが出来るような、安堵感を求めたのだ。

 この一月という寒さの中、太陽の放つ無限のエネルギーを感じていると、僕の頬は自然とそれに馴染んでくる。その暖かさは何年経とうとも同じ気持ちを連れてくるだろう。そして、人の心は如何だろう?時が過ぎれば過ぎるほど色褪せていくのであろうか、まるで太陽のエネルギーによって風化する写真のように。

 ------過ぎ去った時間を戻すことなど・・・

 セピアを思い浮かべながら、現実の風景に視線を移すと改札口へ通じる階段が見えた。左横の上りのエスカレーターから人が列なっているのも確認できる。ふいに真横の時計を凝視すると、七時半近くだということも。

 これから駅全体が混みあう時間であることを頭の片隅で思いながら、斜め向こうの空を仰いだ。

 あまり青くはない冬の空を遮り、軽い瞬きをした時、ホームの天井部のスピーカーからチャイムの音がする。そして、けたたましい音量のアナウンスが場内に向けて発せられ、東京行きの新幹線が進入することを告げた。

 ------これから東京へ戻るのだ

 それからすぐに、新幹線がこちらへ向かって来るのが見えた。僕は決心してゆっくりと立ち上がる。そして、鞄を肩へと持ち上げ、乗車位置へ歩き出そうとしたのだが、まるで鎖にでも繋がれた囚人のように、自由が利かない身体の重たさを感じた。

 力尽きるように、車体はゆっくりと停車をして、一呼吸置くと全てのドアが同時に開いた。

 僕は後ろから押されるように自由席の乗り場へとゆっくり移動する。

 窓から見える車中は、早朝にも係わらず混雑しており、なおもスーツ姿のビジネスマンばかりが目に付く。彼らを何処かで見たことのあるような、それでいて誰に似ているわけでもないような妙な記憶が歪んでは消えた。

 倦怠感が見え隠れする年齢にまで時間を重ね、それに流され、項垂れながらも、きっと懸命に普通を生きている姿なのだろう。仕事、家庭、何れにせよ、ささやかな人生の合間に、ほんの小さな幸せを実感出来るということであるならば、それは決して悪いことではないのだ、と勝手なことを思いながら、自分をその場面に当てはめてみたりした。

 僕が生きてきた38年間に、もしもあの時---という仮説を立ててみたことは何度もある。しかし、現実として想像もつかないそれらの運命が死骸同然であると思うと、寂しさだけが放浪するばかりである。

 ------当たり前の絶対時間

 これは後悔の念に駆られる小さな自分なのであろうか。

 一時の停車時間が過ぎ、先程とは違う旋律のチャイムが鳴った。やがて発車を告げるアナウンスが終わると、新幹線のドアが一斉に閉じられる。

 伸びているレールの上を新幹線は東へ向けてゆっくりと滑り始めた。

 軽くカーブを描いて走り去るテールランプを、その場で見送った僕は、駅の出口に向けて歩き始めた。

 払い戻しをせずにそのまま烏丸口の改札を抜けて、駅と平行する道路に沿った歩道が見える場所で立ち止まった。規則正しく並んでいる街路樹がとても平凡にも思えた。建物の出入口から流れてくる人間が多くなるにつれて、自分の気持ちが一層、不安定なものに変化していくのを自覚しながらまた深く息を吸い込む。

 何度も生き続けることの意味を問い、時間ばかりを追いかける、ある意味では後悔ばかりが先行し、更なる一歩の恐怖感に苛まれていることを理解しながらも、そこに佇むばかりである自分に苦笑しながら俯いていた。

 ------慌てることはない

 そう考えると少しだけ楽になった。それで片付くはずもないが、今はそう思うことで自分を無理やり納得させるしかなかった。

 ------そう、ずっと喉が渇いていたのだ

 ゆっくりと辺りを見渡すと外壁の洋梨色をしたホテルが目についた。地方都市の駅の傍には、必ずといっていいほどホテルと呼ばれるものが密集している。

 左側に広がるターミナルを横目に、僕は再び歩き始め、回りこむようにして建物の前に着いた。ロビーから全体を眺めると、中二階へと細い回廊がある。その途中に洋風のレストランがあるのを確認した。朝早くから営業している店のようだ。

 ゆっくりと店内へ足を踏み入れると、僕と目が合った案内係が笑顔で応対してくれた。コーヒーだけでいいからと言う僕を、彼は席へ導いてくれようとした。それを丁寧に断り、サイフォンの並んだテーブルへとまっすぐ歩いた。

 熱で曇ったガラスの内部に水滴が見えた。僕は静かにレギュラーコーヒーを注ぎ込み、それを持って窓際の席に着いた。

 車の行きかう窓の外を遠くに見下ろしながら、熱いくらいのカップに手のひらを当てる。

 こういう場所で飲むブレンドコーヒーなんてチープな豆をミックスして挽いてあるものに違いないと、それを口元に運び、少しだけ飲んでみた。

 悪くはない、喉の渇きのせいかと思わなくもなかったが、焙煎あとの鮮度が良いのであろう、丸みも深みもバランスの取れた味がした。単純にちょっと得をしたような気分になり、カップをソーサーに戻しながら長い息を吐く。

 しばらくぼんやりした後、これまで僕の心の中で散乱していたことを整理しなおしてみようかと考えた。しかし考えはまとまらず、全く別のことが蘇生し始めていた。

 ------そう言えば、彼女といつから会っていないのだろうか

 気まずい喧嘩をした憶えもないし、別の女性と何かあったわけでもない。僕は自分の恋人と交わした言葉、そして痕像をゆっくりと思い返した。

 “ SEE YOU AGAIN ! ”

 彼女の言ったその言葉の本当の意味が存在したのではないか?

 「何もないわ。普通の挨拶よ」

 「何だか、言い回しの中に妙なアクセントが入っている気がする」

 僕は半ば苦笑しながらそう答えた。

 「まったくあなたらしい表現ね。そうかしら?」

 「少しだけそんな気がしただけで・・・」

 彼女は一度だけ微笑んでからこう言った。

 「あなたは忘れてしまったのかしら?私が舞台女優であることを。ただね、今度の脚本はちょっとした哀物語だから、その辺が日常に出ているのかも知れないわ。頂いた台本を読んでは、本番の何日も前からその女になっていくのは、私の癖みたいなものなのよ」

 僕はすぐには返事をしなかった。そしてしばらく黙ってから、頷いてみた。

 「明日は東京だったね」

 「ええ・・・。監督のスケジュールに合わせて、何故か全員が揃って台本読み、後は相変わらずの日程で・・・。」

 「僕はそれほどでもない」

 そう言って彼女の肩の向こうの、気の早いクリスマスの電飾の瞬きを見ていた。

 何か特別なことがない限り、次に会う日を決めたりはしなかった。お互いにスケジュールというものが存在するであろうが、そんなものは時間を捜せばいくらでも出てくるはずだ。敢えて約束しないのは、近づき過ぎてはならないという警戒心であったかも知れない。

 そうだった、あの日はもう秋ではなく、冬と呼んでもいいくらいの時期であった。何故か、この時のことを思い出すと、記憶そのものの色が失われていく。

 そして彼女のイメージが、グレイからより薄いグレイの影へと変化する。やがて光と影だけの輪郭を残し、そこから先へは歩きようのない“無”が拡がっていくのだと感じていた。

 それでも僕はそのまま懐かしさを愉しむように彼女の姿を捕らえていた。彼女はきっと僕から離れていく事を決めていたのだ。

 僕の方はそれを最初から予測していたのか、もしくは何らかの心の準備を保守的に行なっていたのか、平静を装いながら常に緊張を抱えていた事実を確信するようにひとり納得をした。

 コーヒーを飲み終えた僕は、支払いを済ませてレストランを出る。ホテルのエントランスホールを左手に大きく回り、先ほどのターミナルをカーブを描いて、今度は東側を歩いた。そして、その構内のちょうど中心にあるレンタカーの店に目を止めた。

 プレハブのその簡単な造りの建物の中で、赤い制服を着た店員が、ひとりの客に応対しているのを確認してから、タクシー・プールを横切るようにその建物に向かってまっすぐに歩いた。

 泥で汚れたサッシの引き戸をゆっくり開けて中に入る。暖房でよどんだ空気が、多少の気分を害したが、それと同時に店員は僕に笑みをこぼした。

 「いらっしゃいませ」

 大きな声でそう云った男性店員は、僕を端の席に座るように促した。

 「ステイション・ワゴンか、なければセダンでも良いのですが」

 その言葉に大きく頷いた彼は、車種の説明などをひととおり行い、僕が曖昧に車を選ぶと、関連する書類に必要事項を記入するように求めた。

 「免許証のコピーを取りますのでご提示願います」

 僕は着ていたコートのポケットにある財布から自分の免許証を取り出し、そっと手渡した。

 しばらくそれを眺めていた彼は、顔をあげて僕に言った。

 「お客様、恐れ入りますが免許証の有効期限が一週間前に切れております」

 「え?・・・・」

 狐につままれたように驚いた僕は、頭を抱えた。そして自分で納得したように俯き、息を溢した。

 ------誕生日

 僕は毎年、必ずと言っていいほどこの日を恋人と一緒に過ごす。自分の誕生日だからと自覚して迎えたことなどなかったが、特別な日だという彼女の言葉で、お互いに仕事がオフになるように前もって調整しておくのだった。

 封筒に入った招待状は元旦に年賀状と一緒に届く。差出人は馴染みのレストランになっているのだが、それは彼女が送っているということを以前からこっそり知ってはいた。

 店のマスターはいつも、ワインを誕生日と結び付けて上手に選んで、僕を喜ばせてくれたが、多分、それも彼女のしていたことに違いないと思う。そこにはシンプルな花模様のバースデイ・カードが付いており、彼女がメッセージを書き入れ、僕はそれを後生大事に保管していたのである。

 そう、今年のそれは確かにない。

 自動車免許の更新を忘れてしまった理由にはなるはずもないが、あれから音信不通である彼女の消息について、何故自分は連絡を取ろうとしないのか、そんなことを今更ながらに考えていた。

 思っていてもなかなか行動に移せないlこの性格。まさしく今の自分ではないか、それに気付くと妙に可笑しくなり、失笑するのを必死で堪えなければならなかった。

 全ての申し込みをキャンセルして店の外へ出る。

 ホームで見た暖かい光とは違って、太陽は雲に隠れ、冬の風が頬に冷たかった。しかし、雪が降り出すという気配がするわけでもなかった。

 ------今日は何もかもが転がってしまうようだ

 いずれにしても、次の仕事の予定があるので、東京へ戻らなければならない。それを心の中で何となく拒んでいることを自覚はしている。

 もう一泊する余裕がないわけではない。その考えも浮かんだのだが、明日を迎えて今日と同じような気持ちにならないとは限らない。

 とにかく京都と言う土地から離れてしまえば、気持ちに何らかの変化があるのではないか、そんなふうに考えてみた。

 
SCENE 02  自己意識の横顔
 
   
 

 レンタカーの店を離れて、段差のある煉瓦敷きの階段を越えた。

 僕は構内のバスの停留所まで遠回りをしてゆっくりと歩いた。

 重量にすればさほど重くはないその鞄に不思議な違和感を覚え、足許を見つめる。

 夢の中の雪の結晶を思い出しながら、身体は自然と丸くなっていた。心に見えない傷が存在していることは解っていたつもりだが、それは、これから始まるであろう現実からも逃避したいと願う現象かも知れない。 しかし、京都を離れて何処へ行くのか決めたわけでもなかった。

 また、ため息が洩れた。

 ふと、目の前に飛び込んだバスの時刻表を見て、それが比叡山方面へ向かう乗り場であることを確認した。埃で所々が薄汚れていた数字と腕時計の文字盤を交互に眺めると、到着までに二十分以上の待ち時間があった。

 迷っていても仕方がないという思いと、疲労で困憊していることから、僕は荷物を傍らに置いて駅とは反対側の景色を眺めていた。

 街の雑踏だけを感じると、ここが京の町であることを忘れてしまう。 駅前の地方都市の風景など、どこも同じだと思っているのは浪漫の無い性格なのだろうか。

 勿論、京都を知らないわけではない。 歴史のある街の社寺は、全てを廻るのに3年以上はかかると聞いている。

 時を重ねたこの静寂の中にいても、時間が止まっている訳ではなく、季節の繰り返される動きの内部には、確かに音があり、色があり、空気があるのだ。

 人々はそこで何を祈るのか、手を合わせている。

 いずれにせよ、自分の場合は心の葛藤に合掌して何かが得られるわけでもない。苦しい時の神や仏が自分に齎すものなど何もないのだと思っている。

 京の冬、何百年もの星霜が染み入るような冷たさは、僕の気持ちを鈍重に刺すようでもあった。

 しばらくぼんやりしていた膠着の中、1台の赤色をしたクーペがバス停へ進入して来る。そして、僕の目の前で停車をしたかと思うと、ほどなくガラス窓が下りた。

 そしてそこに乗っていたのは女性であった。

 簡素な白のシャツにツイードのジャケットを着た、美しい人。 ストレートヘアを髪の後ろで束ねた姿がその服装にとても似合っている。

 「東京へ行かれるのですか?」

 「僕ですか?」

 「そうです」

 「ええ、その予定ですが」

 「お時間はございますか?」

 僕は、この女性が何故に自分へ声をかけているのか理解が出来ないでいた。

 「時間はあります」

 「お送りいたします」

 「東京へ・・・ですか?」

 「よろしければ・・・」

 世間一般的な知名度はほとんどないが、今現在、僕はフュージョン・バンド「FRAGMENT」のキーボード・プレイヤー、そして「宇野 吾郎」名義でシンガーソングライターとしてもアルバムを数枚出している。 そんな僕を知っているマニアックな人間が世の中にひとりくらいいてもおかしな話ではないことを頭の片隅で思った。

 「いえ、そんなことをしていただく理由がありません」

 微笑を続ける女性に僕はそう答えた。

 「宇野さん、宇野 吾郎さんですよね?」

 「はい」

 「二年以上前になりますが、J女子大の学園祭でライブの実行委員としてお世話させていただいた森里 蛍子と申します」

 ------モリサト ケイコ・・・J・ジョシダイ?

 視線を外して僕は当時のことを思い返した。 二年前と言えば、企画モノとして何かのタイアップ曲をリリースした記憶が蘇えってきた。

 そのキャンペーンも含めて、スポンサーサイドと地方のラジオ局にも足を運んでいた頃である。確かにそんな合間にいくつかの大学でもギターを抱えて唄うという機会はあったのだが、マネージメントを引き受けてもらった女性のことなど・・・・。

 「ホタルコさん?思い出した!ケイコと呼べずにホタルコ!」

 僕は彼女のその大きな瞳を見つめた。

 「憶えていてくださってとても嬉しいです。ご無沙汰しています」

 蛍子は満面の笑顔で僕にそう言った。

 「驚きました。思い出せば学生時分の面影は勿論あるけれど、見違えたなぁ、もう卒業されたんですか?」

 「ええ、去年の春に」

 「僕の仕事では女優さんとの面識もありますから、でもこちらが憶えていないことも多くって、それにあまりにもお綺麗な女性だったし・・・」

 「努力はしています」

 「そして、お元気そうで何より」

 蛍子の笑顔は優しくて、心地よかった。脆いガラスのようになった僕の心を柔らかい繊維で包んでくれているような気にもなった。

 「私はこの車で箱根まで行きます。よろしければどうぞ」

 蛍子は助手席を指差して、再び微笑した。

 車のドアに手をかけた僕は、眼を閉じてゆっくりと深呼吸をしてから、静かにそれを引いた。座席を前へ倒し、後部座席のシートに荷物を載せ、座席を元の位置へ戻す。座席に滑り込んだ僕は蛍子の横顔を見ることになった。その時、ある女性の記憶を重ねてしまったが、それを消すように目を閉じた。

 「では、お言葉に甘えて・・・本当にいいんですか?」

 「光栄です」

 そして狭い空間ではあるが、僕にとってのその位置は快適なスーパーシートとなった。そのまま、車は駅を真横に出て、幹線道路の多少の渋滞の中を進み始める。

 現実と非現実とが交錯しているような出逢いはいくつもあるのだと思うが、今日、ここで蛍子と再会したということを、僕が半ば疑ってしまうのは可笑しな事だろうか。そう感じたのは、あまりにも落ち着いた蛍子の雰囲気である。

 しかし、その考えは僕の一方通行であるのかも知れない。それは身体の中に魔物が棲みつく今の自分の象徴であると考えたい。そして、そんな僕のこちら側を蛍子に見せないで済むようにしたかった。

 「先ほど、車をレンタル出来ずにお困りでいらしたでしょう?」

 「あ、いや・・・はい、そういえば、あそこに・・・。」

 あの時、綺麗な女性だという印象はあった。店内のどこかで甘い匂いが微かに香った記憶もある。ただ、本当に疲れていたのだろう、女性特有の絡みつくような空気は僕に届いて来ることはなかった。

 今、僕を掠めている香りは特異なものではない。むしろ初めて嗅ぐ香りにしては懐かしさを感じている。もしかしたら遠い昔に好きだった香りではないだろうか。

 「ご自分のお誕生日をお忘れになるなんて、でも宇野さんはお忙しいお仕事をされているのですから、仕方のないことなのかも知れませんね」

 「前ほど忙しいというわけでは、ない・・・けれど・・・」

 「ですが・・・、ずいぶんとお疲れのご様子です。そう、少しお休みになってください」

 「ありがとう、でも大丈夫です。それに蛍子さんとこうして話しているととても楽しいし、いつもの仕事っていえば、たくさんの人が絡んでいるけど、仕事そのものは意外と孤独なモンでね。ある意味、人恋しって感じなところはあるんです」

 昨夜から少しも休めないでいる自分を思った。人間は生きていると人生の選択をしなければならない場面に多々出会う。僕の場合、その折々で選んできた道がその先にどう広がっていったのか、また何が狭めていったのか。

 それは、これからもう少し歳を重ねなくては結論は出ないであろう。ここまでが決して幸せだったとも言えないし、不幸だったとも思わない。ただひとつ、ある空白の部分だけが僕の中の生きるハードルになっていることは確かなことだ。

 車は鴨川を越え、山科の方からそのまま道なりに走って、名神高速道路の京都東インターへ上がっていく。

 「宇野さんの曲に<True>という曲がありましたでしょう?」

 「ああ、あれは二枚目かな?」

 「あの曲、私の中でいつも鳴っているんですよ。とても素敵な曲ですよね」

 「何か思い出でも?」

 僕はそう尋ねながら、<True>という曲を思い返していた。

 

彩りのない冬の空気が

どうしてそこへ引き戻すのか

昨日を忘れたわけではなく

明日が見えるはずもない

遠くにあるイメージを

瞳の奥で透かしてみる

もしもそこが雪なら

あなたの唄う声が似合うのに

 

 自分の中では何の脈絡もない楽曲だった。作曲というものは、さほど時間をかけずに出来るのだが、歌詞が出て来ない時には埒が開かず、確か、アルバムを満たすのに数が不足していたのだと思う、昔の作品を引っ張り出して少しだけ手を加えた曲だった。

 そう、この曲を書いた時、僕はまだ離婚をしていなかった。

 以前に妻であった朱美という女性との間には、今、14歳になるであろう娘がいる。

 朱美はN大の芸術学部で、美術を専攻していた。同じ学部で写真を専攻していた僕は、朱美のアトリエのある建物へ近づいては、彼女を被写体にするのが自分の日課となっていた。

 僕は朱美がキャンバスに向かう横顔が好きだった。 窓から西陽の差し込む夕方の頃合いを狙い、300ミリの望遠レンズを使って盗撮を繰り返していた。

 光を受ける部分と影になる部分、浮き彫りの階調が時間によって移動するその一刻をたまらなく愛していたと思う。

 「いつも私を撮っているでしょう?」

 一番後ろの席で写真光学の講義を受けていた僕のとなりに朱美は滑り込んだ。

 僕はその言葉が聞こえないふりをして無視を続けた。そしてそんな僕に対して、朱美は耳元でこう言ったのである。

 「今度は私のヌードを撮って」

 35ミリのカラーリバーサルフィルムはスライドとしてマウントしてあった。

 ライト・テーブルが付属したスティール製のスライド・ボックスに納められたそれは数千駒にも及ぶ。 そこに写っているのは全て朱美で、それは僕の宝物でもあった。

 拡大倍率が8から16倍までズーミング出来るアイポイントの長いルーペで、一日中それを見ていた時もある。マウントを持ち上げて太陽に透かして眺めるのも飽きることはなかった。

 やがて、僕の日常生活の拠点が朱美のマンションへ移って一年程が過ぎていった。お互いの関係を言えば、何の強制もなく、全てを受け入れるという信頼を暗黙の内に保ち続けていたように思う。朱美は相変わらず絵画に没頭し、二科展のための作品づくりに余念がなかった。

 僕はと言えば、入学した頃のようにきちんと講義に出席するようなことが少なくなっていた。進級は続けていたものの、履修する単位の多さにその年の留年は免れそうにもなかったほどだ。

 写真と云うもの、これはお金がかかる。フィルムは勿論のこと、現像などに使う薬品、印画紙などを取ってみても、生活費とは別に材料費用の負担は大きかった。ついでに他の学部とは違って授業料は数倍にも及ぶので、仕送りなどというものがない僕は、常にアルバイトというものをしなければならなかった。

 ふとしたことで、夜から朝方にかけての会員制のクラブでバンドの一員としてピアノの演奏をする話が舞い込んだ。その後、契約を交わしていたわけではなかったが、音楽事務所にも出入りするようになると、時間があってないような僕の立場から、面白いように仕事が回ってきた。

 当時はクロスオーバーというソウル・ジャズやロックを融合したような音楽が流行していたせいもあり、バンドとして観せるスタイルは増え続けていたせいかも知れない。

 ギャラと呼ばれたそんなお金は、それまで僕が短期でやっていた単純な雑用のアルバイトよりも数十倍を上回る稼ぎであった。だから大学など辞めてしまっても生活出来る貯えが充分出来たと言っても過言ではない。そのまま中退をしても良いのだということを考えていたほどだった。

 使用する楽器も徐々に増えてきたので、それを運搬する車が必要になった。その後、友人の父親から安く手に入れられる話があり、その名義変更に必要な書類を区役所に申請しにいった。その時にふと思い立ったこと。

 ついでにと言っては何だが、窓口で婚姻届の用紙を貰ってきたのである。

 ------朱美とはずっと一緒に居たい

 その想いからか、それともプロポーズの手段だったのか、今となっては記憶にないが、自分の記入するべきところに署名捺印をして朱美に渡した。

 「ありがとう、素敵」

 朱美はそう言って僕を抱きしめたのだった。

 「次のライブは東京ですか?」

 突然の蛍子の声に焦点の定まらなかった眼を元に戻した。

 「確か六本木で春に一本、入っていた」

 「春に・・・じゃあ今はお休みなんでしょうか?」

 「まあ、いろいろとあるけれど」

 そう、いろいろとあった・・・

 結局、その後に大学を卒業するには至らなかったが、音楽の方での仕事は日ごとに重なり、なかなか地元に戻ることが少なくなった。

 ある新人のライブツアーを打ち上げて久しぶりに朱美の居る部屋へ帰った時、まさにその時から僕は時間と記憶と疑問の中で格闘している。

 勿論、灯りを点けるまで気がつかなかったが、自分の所有物以外の全ての生活品がそこからきれいに無くなっていた。

 そして、僕の物で唯一、大事にしていたスライド・ボックスの朱美の姿も消えていた。

 「あなたが愛したのはレンズから覗いていた私です」

 A3版ほどのライト・テーブルの表面に貼られたメモにそう書かれていた。

 そんな“私”は朱美なのだから写真そのものが朱美の所有物であるという解釈をされても可笑しいことではないが、それよりも説明もなく家を出ていったことで愕然としたことは言うまでもない。

 途方に暮れながらそれから何日も過ぎた。音楽事務所へは、実家の父親の身体の調子が優れないという嘘をついていた。

 朱美がどこに寝泊りしているのか、何かの事故に巻き込まれていないか、常にそういう思いにかられる不安な毎日ではあったのだが、自ら捜索することを躊躇する自分がいて、兎にも角にも、待つことの選択をしていた。

 戻って来るのを、いや連絡があるだけでも・・・。それは予め決められていた運命のように。

 何ヶ月もの間、僕は自分のしていた生活にあまり記憶がない。電話が鳴るたびに、そしてそれが朱美ではないと判ると大きな息を吐く毎日が続いていた。

 悪い事が訪れるのには何かの理由があるはず。それをずっと考えていたのだが、頭には何も思い浮かばなかった。それでも、僕に不足していたものがあったのだという曖昧な答えのまま、一日の終りに辿り着くしかなかった。

 ある日の朝、僕はそのまま床に眠っていたらしい。夢を見ていたのだと思うが、その中の朱美は少女であった。しかし、それはまぎれもなく朱美であった。

 理由は解からないが、許しを乞う自分がいた。

 「許しません」

 朱美は僕に対して毅然とした態度でそう言い続けるのである。

 ------また電話が鳴った

 何故だかは解からない、目覚めた最初の電話のベルの音で、それが朱美からであるという予感がした。だから、受話器をすぐに取る事が出来ないでいる自分が少しだけ情けないように感じたりもした。

 そして電話は予感通り、朱美からであった。

 僕は硬直していた。理由を知りたいはずなのに、それを知ってしまうとすべてが消えてなくなるような不安な気持ちだけが先に立っている。朱美は威厳に溢れるように、また事務的に言葉を発し続けた。

 捜さないで欲しいということ、離婚届の処理のこと、僕が音楽を続けるという約束をすること。、そして最後に、身篭っていることを告げられた。しかもその子供は、来月に娘として生まれてくる事まで。

 こちら側から喋る機会を寸分も与えてはもらえなかった。それは予め通話時間が決められていたような、僕が声を発した時には電話は切られていた。勿論、朱美が妊娠していることはその時に初めて知ったし、それが最後の言葉であるのだということを信じたくはなかった。

 朱美と言う僕の妻であったひとりの女は、ある日突然、風のように僕の前から消えてしまった。

 ------あの日から、幸せは崩壊したままだ

 気が付くと蛍子の運転するクーペは米原ジャンクションを過ぎていた。少しスピードを上げたようにも思え、横目でメーターを覗いてみる。同時に蛍子の横顔を盗み見ている自分がいる。

 横に居るのはまぎれもなく女である。

 白い肌に、赤めの紅をひいた口唇。 ただそれだけの化粧の中で、蛍子の横顔のラインは完璧であり、 ステアリング・ハンドルからまっすぐに伸びた腕は服の上からでも雰囲気があった。それは思わず見惚れてしまうほどに美しい。

 蛍子を朱美の横顔に重ねるつもりはない。しかし、僕はいつからこんなふうに女性を観察する癖が付いてしまったのだろう。

 そんなことを疑問に感じると、小学生の時に盲腸で入院した時の事を思い浮かべていた。そこは小さな病院であったせいか、病室は二床の相部屋であったのだが、もう片方のベッドには年上の姉と呼んでもいいような女性が休んでいた。

 その人はいつも窓を開けて空を見ていたという印象があり、僕はそんな横顔をよく目にしていたように思う。そして時々、僕に顔を向けると優しく微笑んでくれるのが心地良かった。

 僕はずっとその心地良さを追い求めているのだろうか。

 今ではもう、その女性の名前も忘れてしまったが、あの横顔の輪郭だけは鮮明に憶えている。

 もしかしたら恋をせずして、一目惚れをしていたのかも知れない。

 その人は夜になるといつもため息を零していた。昼間に見えていた空が夜になると消えてなくなってしまうのを哀しんでいるようにも思えていた僕は、薄暗い灯りの中、隣のベッドの傍へ近づいていた。

 「お姉ちゃん、痛いの?」

 僕は突然ベッドの中に引きずり込まれた。盲腸の傷口が多少痛かったが、我慢は出来た。その人はまるで縫い包みでも抱くように僕の上半身を自分の体に押し当て、言葉もなく目を閉じていた。もしかしたらその人の傷は、僕の盲腸の傷よりももっと深いものだったかも知れない。

 そのまま僕が性的な扱いをされたということはない。その人はただ、一緒に眠る誰かを欲していただけのようだった。

 退院は僕が先だった。その人がどんな病気であったのか知る由もないが、数日後にお見舞いに行った時には病室にその人の姿はなかった。

 ある意味、裏切られたような気にもなり、少年が人間の傷跡をみた瞬間でもある。

 「箱根へは何かの用で?」

 車が岐阜から名古屋に入る頃、少しだけ曇ったサイド・ウインドウのガラスに触れながら蛍子に質問をした。

 「実は私、ある老舗旅館の実娘で、勿論未婚ですが、便宜上、若女将という肩書きを預かっております・・・・驚きました?」

 「え、そう・・・か。いや、それはホントに驚きだ。だけど蛍子さんなら和服姿もきっとよく似合うでしょうね」

 少しだけその話に新鮮さを覚えた僕は冷静さを取り戻し始めた。

 「実際には母は年齢的にもまだ若いですし、大女将だって今も現役なのですから、この先のことはどうなるか分りませんけれど」

 「じゃあ君は修行中ってことかな?」

 「ええ、京都の叔父が経営している大原の旅館で世話になりながら、勉強中といったところです」

 「そうか、人にはいろんな人生があるのだな、なんて思わせるね」

 蛍子の返答に慌てて口許を弛めたつもりだったが、おかしな言葉になってしまい苦笑する。

 「そうそう、最近、世間では話題なんですが、宇野さんは、“徳間 華子”さんってお方はご存知ないですか? 料理分野の・・・」

 「あぁ、彼女と面識はないのだけど、実は彼女の夫である徳間って男はよく知っているよ」

 「え?そうだったんですか!ご主人が写真家だということは存じ上げていたのですが、そんな結びつきがあろうとは」

 「あいつともずいぶんと会っていないが、僕も同じ大学で写真をやっていた同期みたいなもの」

 「それはまた! 音楽ではなく、写真なんですね・・・あ、それで、明日の予定ではテレビ番組の収録があると聞いているのですが、その旅番組の中で、旅館の看板役とでも申しましょうか、それこそ若女将のような立場で私が呼ばれることになった、というのが私が箱根へ向かっている理由になります」

 僕は思わずその場で拍手をしてしまった。

 「君なら華子さんと対等に勝負できる、いや食ってしまうかも知れないな。そうか、僕はその放送を楽しみにしていよう」

 再び、可笑しな会話をしてしまったような気になった。

 それでも車内にふたりの笑い声が響いて、何もかも忘れたように嬉しくなっている自分がいた。それは流れる光の中で感じたほんの少しの僕の幸せの時間であるのかも知れない。

 「徳間夫妻は二日前から宿泊していらっしゃるようですよ。ですから明日のテレビの収録が終わって、宇野さんのお話もさせていただきますね」

 「え?徳間も一緒なのか、・・・日本へ戻っていたのは知らなかったな。あいつの仕事はほとんどが海外だから、いつ帰国しているのかこちらにもさっぱりなんだ。そうか・・・」

 「お時間がおありで、もしよろしければ、家の宿に宇野さんのお部屋もご用意いたしましょうか?必ずひとつ空けておかなければならないお部屋がありますから、そちらでぜひ」

 蛍子の発案にそれも悪くないと僕は思った。 ノスタルジアを誘う箱根の地。 心の安らぎを得るにはいい場所かも知れない。 親友の徳間との再会も捨てがたいし、妻である華子さんにも初めての挨拶が出来る。 僕の中には最後まで気持ちの良い落ち着きが訪れていた。

 「なんだか世話になりっぱなしだ」

 「お気になさらないでください」

 平日の東名高速道路を順調に北へ向かって走行しながら、僕らは他愛もない会話を大いに楽しんだ。途中、 浜松あたりで大粒の雨に降られたが、焼津からの日本坂トンネルを抜けて静岡に入ると夕陽が頼りなく車内に届いた。

 御殿場のインターチェンジを下りてからは国道138号線を右へ、乙女峠を真正面に見て左側のルートで箱根裏街道へ入った。そのすぐのところに蛍子の実家の旅館はあるらしい。

 箱根でもこの周辺はいい宿が多いのは有名な話だが、そこから更に古道を走り、一番外れになるのであろう隠れ宿。

 急カーブが続く山道を速度を落として走っていると、斜面には雪が固まっているところがあった。

 僕は眠気さえ忘れ、日常から離れたような今の現実に酔いしれているのだと感じる。すでに午後5時半をまわり、周辺は夕闇の中、すれ違う車は滅多にない。

 「なんだか怖いな」

 「慣れた道ですから、任せてください」

 蛍子の横顔をヘッドライトからこちら側へ微かに洩れる光だけで盗み見ると、今日は恋人と一緒にいるような、まるで旅にでも出掛けて来たような錯覚をしてしまう。

 恋なんて、そんな些細なきっかけが何かを感じさせ始まるものだろうか。

 勿論、蛍子は魅力的な女性である。

 しかし、林檎を齧るような欲を制しているのは紛れもなく朱美なのだと感じている。僕はこれまでに多くの愛に犠牲を払ってきたのだが、記憶は思いのほか僕を苦しめている。

 ほのかな灯りに照らされたようにひっそりと佇むその建物が近くなってくると吐く息が白いのに気が付いた。

 時代の色を織り込んだような、見事な風格を醸し出している、その数奇屋造りの建物の前に到着してから、僕は正直に驚嘆した。

 離れ家がその母屋を中心にバランスよく配置され、それは自然の木々の中にひっそりと囲まれており、最近になって改築工事を行なったらしいが、その時に専用の露天風呂を部屋のそれぞれに設けたのだ、と蛍子から説明を受けた。

 柱のひとつひとつにも風雅な歴史を物語るような光沢がある。一輪挿しの水仙の花の傍らから出てきた蛍子の母親と思しき女将は、丁寧な挨拶を僕にしてくれた。

 蛍子と同じくらいのいや、それ以上の美人と呼んでもいい、そして、娘とは違う流石に落ち着き払った様子は、隠れ宿の女の雰囲気を醸し出すのに充分な存在感であった。

 僕に特別なことを尋ねることもなく、静かに微笑んでいた。

 きっと蛍子が途中のSAから確認を取って話を進めてくれていたのであろう、僕がこちらで世話になる事を事前に理解していたように全ての準備が整えられているようだ。

 母屋から長い廊下を何度か折れ曲がり、渡りきった一番奥の「香」という部屋に通された。

 静謐な和室の趣にカメラを持ち歩いていない自分を責めた。 障子の向こうに行燈らしき明かりが、いっそう趣のある空間にしている。

 部屋の中には掘りごたつが用意されていたが、既に暖められているようだ。その奥の障子のところまで歩いて、ゆっくりと窓をあけてみると、冷たい風が頬を撫で心地良い。

 ここはどうやら二階に位置する場所のようだ。そこから階下に目をやると、旅館の正面に向けて斜めに渡る石畳の道が見えた。

 それぞれの 離れに向かう小道には、灯篭が薄ぼんやりと周辺を照らしている。

 そして、その一番手前の黄色い光の下で、接吻をする男女を映していた。

 「失礼いたします」

 部屋の外端から蛍子の声がした。 僕は立ち上がり畳敷きのスペースを横切って彼女を迎え入れた。

 「お疲れ様でございました」

 三つ指をつく和服姿の蛍子は見事に若女将になっていた。

 ------美しい・・・

 凛とした空間の中で、蛍子の完璧さに翻弄された。先程まで車内で一緒だった蛍子とは別人のようだ。

 「君がずっと運転していたんだ、お疲れ様は僕のいう台詞です。本当にありがとう」

 「京都からはいつもこうやって車を用意して戻りますから慣れています。それに今日は宇野さんとご一緒させていただきまして楽しい時間を過ごす事が出来ました。こちらこそお礼を申し上げます」

 「突然で何だけど、徳間は夫婦で来ていると言っていたよね?」

 「ええ、二日前から・・・。宿帳には、ご夫婦のお名前を確認してまいりましたが」

 「ふたりだけで?」

 「撮影のスタッフの方々は、当日に入られると聞いております。ですからおふたりは小旅行を兼ねたお仕事・・・・宇野さん、どうかされましたか?」

 僕は再び窓辺へ近づき、さきほどの光景を見た場所を凝視した。 蛍子も僕の傍へ寄り、同じ方向を見た。抱擁はまだ続いていた。

 「あれは確かに、僕も何かで見たことのある徳間 華子だが、相手が違う。徳間という男はスキンヘッドでおまけに髭面なんだ」

 「まあ・・・」

 僕にしてみれば親友の徳間を思うと確かにやりきれない気持ちになった。 勘違いだといけないので、このことを告げ口するようなことはしたくない、と思ったのが正直なところだ。

 「宇野さん?とりあえずお座りになってください」

 障子を静かに閉じた蛍子は、僕の肩を掴んで畳の上に坐らせた。

 「私は何も喋りません。何も見ておりません」

 それはまるで子供を宥めるような感情の口ぶりであった。部屋に置かれた花や壷や、目の前の蛍子さえも影法師のようになって浮かんでいる。

 僕は途方もない懐かしさを覚えた。蛍子の和服の艶やかな着こなしに見惚れてしまったのも真実ではあるが、それとは別に僕の胸が熱くなるのを自覚した。

 「横顔を見せてくれないか?」

 思わずそんな言葉を口にしてしまう自分に、思わず失言だったと後悔をしていた。

 ほんの少しだけ沈黙があった。

 そして、蛍子のコロンが近く香ると、まっすぐに僕の目を見て微笑する女がいる。

 「もし今夜、私を口説いて下さるのでしたら、お見せしてもいいですよ」

 しっとりとした和の空気の中に流れる芳醇な香りは、そのまま静かに、溶けて、いった。

 
SCENE 03  雨に散るカレンダー
 
   
 

 夕べからずっと雨が降り続いている。夢を見ていたのだろうか?ブランケットに包まれた身体の温かさとは別に、指は凍え、そこに息を吐き、冷たい雨の感覚を肌で重ねあわせていた。

 ゆっくりと眼を覚ました時、今朝の空気を読んで、冬から春にかけての季節を遥か遠方の情景に繋ぎ合わせた。耳を澄ますと聞こえて来る雨の音。

 都内の集合住宅の七階が僕の部屋。 音楽事務所の方で家賃を払ってもらっているのだが、ここの充分な間取りは忙しい自分の中の落ち着ける場所のひとつになっていた。

 ほとんどがワークルームとして利用する場所ではある。 玄関から入ってすぐ右側の部屋は、ちょっとしたスタジオみたいなもので、エディットセンターデスクを壁に寄せて、その右上にはコンピューターが2台並び、8バスのミキシングコンソールが占領していた。後側には44Uもの19インチのスラントラックが天井まで伸び、いくつものシンセサイザーモジュール、サンプラーモジュール、シグナルプロセッサーを埋め込んである。デジタルインターフェイスへと接続された複雑な配線は、表側から見る限りではすっきりとまとまっているので、雑然とした雰囲気は何処にもなかった。

 それとは反対側の壁にライティング・デスクがある。その上にはMIDIのコントローラーとして使っている61鍵のキーボードがあるのだが、これを弾くのは仕事の時だけで、もっぱら、リビングにあるグランドピアノが自分の創作の場所になっている。

 依頼を受けた仕事の音は、ほとんどと言っていいほどコンピューターで作ってしまう。しかし、心の中から吐き出したい声そのものに反応するのは、弦の振動がそのまま指に伝わるピアノがいい。自分が声を出して唄う楽曲はいつもこのピアノの音の抑揚で描かれる。

 最近になって、CMの仕事が頻繁に入ってくるようになっていたが、締め切りが迫らないと動かない性質で、今はもっぱらリビングのピアノの前にいることが多い。それからデモとして形にするためにワークルームに入るという流れが僕のスタイルだ。

 L字型をしたこのリビングの一番奥の窓に寄せて、ベッドを置いている。ナイト・テーブルに腕を半回転させるような形で伸ばし時計を取った。時刻は朝の七時四十分だった。

 「目、覚めた?」

 突然の声に驚いた。 隣に眠っていたのは美樹である。そのままゆっくりと視線を天井へと移してから僕は目を閉じた。

 「今日も雨のようだ」

 「そうね、雨の降る日はいつも一緒ね」

 「いつも?」

 「だって夕べも今朝も・・・でしょ?」

 美樹はそう言うと僕に背中を向けてダークグリーンのブラインドに触れた。 軽い金属の乾いたような音がした。

 僕はまっすぐに姿勢を直した後、ブランケットを被り、静かにため息をついた。

 そう、美樹がしていたように、志津子もそんなふうにブラインドを触っていたから。

 女優、麻生志津子 出逢った当時は確か二十七歳。

 演劇界巨匠の坂上ミチヲの看板女優として、舞台で活躍するようになってブレイクした。 元々は歌手志望だった志津子を坂上が見初めて、舞台のメインに抜擢したのが当たったのだ。志津子の才能ある表現力を僕も認めているが、僕の力で何か出来ることと言えば精々CDリリースくらいだ。

 志津子の仕草には独特な魔性があった。僕もそんな志津子に惑わされたひとりかも知れないが、思い返してみると最初に誘われたのは僕の方だった。

 都内のホテルのロビーでステージクルーのプロデューサーと待ち合わせをしていた時のことである。午後三時の、時間十分前に僕に向けてまっすぐに歩いてくる女性がいた。

 軽く会釈をして近づいて来たその女性に少なからず驚かされたあの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。

 「朱美・・・」

 言葉にならない呟きが心の中に響いた。

 そして、顔の輪郭がはっきりするだけの距離にまで近づいた時に、それが別人であることに気がついた。

 「失礼ですが、宇野 吾郎さんでいらっしゃいますか?」

 「はい」

 「明日のピュアでのライブ、楽しみにしています」

 単なるファンであったことに安堵感を覚えた自分がいた。

 「ありがとう」

 僕はその一言だけを言うと、その女性は右手を差し出してきた。

 「握手をしていただけますか?」

 「ゴロちゃん、お待たせ!ってさあ、シズちゃんとお知り合いだったの?さすがに隅に置けないなあ」

 待ち合わせていた古川が突然に背後から現れた。

 「いや、初対面なのですが」

 「それじゃ何?早速に口説いているってことかな?」

 昔からそうだったがこの古川と言う男の喋り方が好きになれなかった。 誰にでも気さくに話をしてくれて、実績はあるのだが、信じてはいなかった。

 「古川さん、ご無沙汰しております」

 彼女は古川に深いお辞儀をすると白い歯をこぼしてみせた。

 「どうもっ!今日は何?サカミチと逢引き?」

 古川の下世話な喋り方は気分を悪くさせる。

 「打ち合わせで来ておりました。実は私、FRAGMENT時代からの宇野さんの熱烈なファンなのです。今日こうしてお目にかかれて光栄です。あ、私はもう、これで失礼させていただきますね」

 「えー、もう行っちゃうの?このあと付き合ってほしいなんてね」

 「宇野さん?・・・・ありがとうございました」

 優しく微笑をかけたかと思うと、くるりと背中を向けた。

 「古川さん、今のはどちらの?」

 「あれ?ゴロちゃんホントに知らないの?今や、宝塚出身のあの“雅 涼子”を脇に回すくらいの勢いの売れっ子の麻生 志津子を!業界の端くれならそれくらい勉強しておいた方がいいよ」

 僕はもう一度、志津子が歩いていった方向に目をやったが、もうその姿は視界にはなかった。

 ひととおり古川との打ち合わせが終わると、僕は先に席を立った。そしてエレベーターホールのある東側へ向けて歩いていくと、乗降する階数によって分けられた入り口があった。33−45という八基ずつ並んでいるエレベーターの前で立ち止まる。

 チャイムが静かに鳴り、ゆっくりとドアが開いた。僕は三十六階を押した。

 三十六階まで昇っていくと、左右に分かれて磨かれたガラスの壁がそのフロアの各部屋を隠している。

 <3602>

 僕は磁気カードで反応するキーをドアに差し込み、ロックされていた鍵が開いた。

 ドア・ノブを回し、ゆっくりと押してみる。カーペットが全ての音を吸収しているかのような静けさが部屋の空気を包んでいた。遮光カーテンで閉じられた窓から零れる光は殆どない。壁紙の優しい手触り。フットランプから洩れる灯りで部屋の表情が隠微な色をしている。僕は後ろ手にドアを閉じた。軽い音でオート・ロックが機能した。

 「まっすぐに歩いてきて」

 その声で発せられた言葉は朱美の口調に聞こえた。 言われるままに足を踏み出し、何歩か前へ歩いていった。そして部屋の中央あたりに差しかかった時、突然に腕を掴まれる。僕はよろけた。そして、ベッドへと倒れこんだ。

 「どうして?」

 まだ眼が慣れていないのだろう、薄暗くて顔が見えない。

 「何のことだい?」

 「どうしてこの部屋に来たのかしら?」

 「君がカード・キーを僕にくれたから」

 僕は朱美がそこに居るのではないかという錯覚に陥った。

 「でも、来ていただけて本当に嬉しい。あなたは?」

 「・・・嬉しい」

 「私を見てくれないかしら?」

 「今は暗くて何も見えない」

 部屋に漂う香水の匂いが鼻に付いた。

 クリスチャン・ディオールのミスディオール・・・。 

 この香りを忘れない。

 「私をもっと求めてください」

 微かに動く気配がしたかと思うと、それまで閉じられていたカーテンが一気に開かれた。光が眩しくて反射的に手のひらで眼を押さえた。

 その日は雨。陽の差すような眩しさではないのだが、スピードライトを焚かれた様に、痕に残る光であった。

 ゆっくりと目を開けていくと、そこには微笑する志津子の横顔があった。

 似ている・・・。

 僕は何度も瞬きをしながら志津子の顔を見た。志津子はゆっくりと僕に近づき、瞼にキスをした。

 カラカラとブラインドに触れる軽い金属音がした。 僕が目を開けると美樹の背中があった。

 また夢を見ていたのだろうか? そんな曖昧な記憶を感じる。

 「ねぇ・・・」

 「如何した?」

 「皆は知らないのよね」

 「知らないよ・・・」

 夕べ、美樹の初めてのライブ・コンサートが都内のホールを使って行われた。東京での1度きりの公演。もともとアイドル四人組のひとりだった美樹を、レコード会社がソロで売り出すためにグループを解散させ、ソロ活動を目論んだ。

 短期だったので、僕はキーボディストとして契約をした。スケジュールが密集しているほど忙しいわけではないし、ステージのほとんどがMIDIでコンピューター制御されているため、プレイヤーとしての僕の役割はさほど大変なものでもなかった。

 公演の終了後、スタッフらも一緒に打ち上げに参加し、美樹自身、未成年にも関わらずローリング・ロックというビールを2,3本開けたはずだ。緊張も解れたのであろう、達成感が酔いを廻していて、笑顔で関係者の皆を相手にしていた。僕はストゥールから美樹の後ろをすりぬけるように立ち上がった。

 美樹は振り向きざまに僕の耳元で、「帰るの?」と尋ねた。

 「トイレだよ!トイレ!」

 面倒臭そうに首を振りながらそんな返事をすると、美樹も立ち上がった。

 「連れション!連れション!」

 僕のシャツに手をかけて後から追いかけてきた。化粧室の前を通り過ぎて、店の扉を開いて外に出た。メインストリートに激しく降る雨が夜の電飾で輝いていた。

 「ほら、やっぱり帰るんじゃないの?」

 「君は戻った方がいい」

 「イーヤ、オヤジの相手はもう沢山です」

 「オレもオヤジだけど?」

 「違うよ」

 「じゃあ何?」

 「吾郎」

 昨晩、彼女は僕の部屋に来た。

 僕は、先にタクシーに乗ったのだが、反対側の座席のドアを開け、美樹は何食わぬ顔をして同乗してきた。

 行き先を告げ、タクシーは発車したのだが、僕は目を閉じて美樹と口を利かないでいた。

 十五分も走らないうちに車は僕のマンションへと到着する。

 「気分が悪い」

 そう言って酒に酔ったふりをしていたことは判っていた。勿論、美樹に女を感じないわけではない。未成年にしては成熟した素敵な女性だ。

 「この子を元のところまで送っていって」

 ルームミラーで一瞥する運転手に、背後からお金を渡したあと、僕は雨の中をロビーまで走っていったのだが、美樹は一緒にタクシーを降りて、のこのこと僕の後ろを付いてくる。

 「帰ったほうがいい」

 僕は宥めるように美樹にそう促した。

 「おしっこ・・・」

 芸能界の商品として扱われるこういったグラビア系と呼ばれるモデル達は考え方や生き方が幼い。また、先の方向性が見えなくて、世の男達にただ視姦されたりすることに喜びを感じたりしている。

 そしてそれはいつか忘れられる。スタッフは勿論だが、そういう商品に傷をつけてはならないというのは鉄則なのだ。

 そして、美樹の気持ちを傷つけてしまったかも知れないが、訳もわからず寂しそうに涙を堪えている女性をみるのはやはり楽しいことではない自分がいる。

 部屋に着くなり、美樹ははしゃいでいた。男の部屋に入るなどということが初めてのような口ぶりである。

 そして疲れていたのか、本当に酔っていたのかそのままソファーに横になると寝息をたてていた。

 そのあどけない仕草は、自分の娘を見ているようで、僕自身、笑みが零れたりもしたほどだ。

 ブランケットをかけてそのまま美樹を寝かせ、僕は自分のベッドに座っていた。何か考え事をしていたつもりであったが、いつのまにか眠りに引き込まれたようだ。朝、目が覚めると美樹は僕の隣に寝ていた。

 「ねぇ、お泊りなんかすると、どっかの週刊誌あたりにスクープされたりするんでしょ?」

 「オレがこの世界でメシ食えなくなったら美樹のせいだな」

 「じゃあ、ヒモなんてどう?」

 「やなこったい!」

 「なんでー?昨夜のアレは何だったのよぉ?」

 「オレは手を出した覚えはない」

 突然、電話のベルが鳴った。耳の鼓膜を引き裂くような最初の音が、ナイフで脳を裂くような感覚に思えた。

 「出ないの?」

 そういう美樹に対して、

 「ファックスだろう。放っておけばいい」 それだけを答えた。

 数十秒後に留守番電話へと切り替わる。

 「宇野、オレだ、徳間だ。暫くぶりに連絡したんだが、お前も忙しそ・・・」

 「もしもし」

 「おう、居たのか、朝の方が捕まると思ってな」

 「ずっと向こうだったんだろ?いつ戻ったんだ?」

 「実は今年の始めに帰って来ていた。まあ、周りには内緒にしておいたがな。元気か?」

 「まあ・・・」

 「オレは鎌倉にいるんだ。セカンドハウスがある。今はそこで休んでいる」

 少し間があって、僕は口を開いた。

 「鎌倉・・・。へぇ、静かないいところにさすがだな。それでさぁ、美人の愛妻は元気か?」

 「ふむ、まあ、とにかくゆっくりしているよ」

 僕は箱根で見たあのことを思い返していた。

 「相変わらず髭面か?」

 「は?・・・これは俺のステータス・シンボルだからな、変えようがないだろう」

 「そうだったな・・・」

 徳間と話をしたのは本当に久しぶりだった。昔話を交えながら話題は音楽の話になっていた。

 美樹はつまらなさそうにピアノの椅子に腰掛け、小さな単音で何かのメロディーを不器用そうに弾いていた。

 電話機の目の前にあるシンプルなデザインの卓上カレンダーに目をやると一月のままであった。ひとつずつ捲って三月まで送り、四月のところまで目をやった。

 「あ、四月の十七日、六本木のレター・ペーパーでライブをやる。時間あるなら観に来いよ」

 「時間はある。写真を撮ってやろう。高くつくぜ」

 「おう、ベースはどうだ?そうだ、最後にギター一本でやる曲があるから、そこでお前がベースで入ってくれ」

 「わははは、もう何年も弾いていないから無理だ」

 「大丈夫、難しいことはなしだ。ウッドベースを用意させる。お前が弾くとなるとちょっとした話題になる。細かいことは事務所から連絡させるから打ち合わせてくれ」

 「おいおい、宇野、相変わらず強引な奴だな」

 徳間とふたりで笑いあう。今の自分にはそんな時間がとても大事に思えた。

 あれから十五年。

 雨は今でも降り続き、過去の時間は濡れた地面に貼り付いたままであるから。

 僕は心の中で静かにそう呟いた。

 
SCENE 04  遠い幻をみつめて
   
 

 「もっと削いだ方がいい」

 テンションばかりが指定されたコードを半分以下に削除していった。打ちのリズムも要らない。メロディーを浮かばせた方がこの曲の印象度は高まる。

 僕は<スプーン>という若いシンガーにそう告げた。

 彼はこれまでに数枚のアルバムをリリースしていて、ずっとデビュー当時から変わらないスタイルを通してきた。それはサウンドが前に出た作品ばかりで、ヴォーカリストとして伸びるエネルギーを開花出来ないでいるのではないかと、個人的には感じた。また、本人としてもアレンジに煮詰まっていたのであろう、今回、僕のところに3曲だけプロデュースの依頼があった。

 「リズムは自分の声で作る。曲の出だしのビートのポイントが何処にあってもいいのだけれど、それが小節ごとに同じポイントになければ歌にグルーブは生まれて来ないよ」

 彼はロンドンやニューヨークのクラブ・ジャズ系の雰囲気を醸し出す楽曲をいくつか持って来ていた。本来ならそれぞれの現地に赴き、空気ごと録って来れば話題にもなるし、完成した気にもなるのであろう。

 しかしここは東京赤坂。売り上げのないアーティストに付いてくれるスポンサーは少ない。アルバムを作るにしても予算は自然と減らされていく。制作費の大半はスタジオの使用料金で、海外でレコーディングすればほぼ半分で済むのだが、経費もかなりかかるということにもなる。

 そもそも流行というものは商品として扱われ、売り方によっては、それが良い音楽であるかの如く創られる勘違いがある。確かに楽曲のセンスには人それぞれの感じ方があるから、斬新さを求められる流行には、とんでもないハッタリも必要なのだ。

 本人は凝った装飾を考えてインパクトを呼ぼうとした様だが、その分、歌そのものが死んでいた。このままだと前回と同じものが出来てしまう。彼自身、そしてレコード会社の意向がそれを許すのなら僕が呼ばれる理由はないはずだ。

 特に僕は流行なんて如何でもいいと思ってこの世界で生きてきた人間。

 何故、何を求めて演出を依頼してきたのか?

 実際、彼に尋ねてみたところ、納得のいく返答は得ることが出来なかった。要するに、何をやればいいのか見当がつかないらしい。

 「僕は君に対して周りと同じことをやってもらうつもりは無いよ」

 「はい、自分もそれを望んでいるわけじゃないっす」

 「君がレコード会社の商品でありたくないのなら流行のリズムに囚われない、メロディーを重視した音楽を根本的に身体に馴染ませた方が先も見えて来ると思うんだけど・・・」

 「自分、芸術的才能ってきっとないんす。宇野さんって音楽の他に写真も出来たり、解説本もいろいろ書いているでしょ?楽器だって何でもござれで、敵う理由がないす」

 彼はそう言いながら、目の前のコンピューターのマウスを玩ぶように、上下に転がしていた。

 「僕と競っているわけじゃない、音楽を創るというのは表現なんだよ。絵画でも映画でも、勿論、音楽でも、人は何を求めてそれらを欲しがるんだと思う?」

 「楽しみとかじゃないすか?」

 「うん、楽しむということは何かを感じるから楽しめるんだ。何かを感じさせる歌を唄えればそれがいい」

 「歌はあんまり自信ないんすけどね」

 思った作品に仕上がらない自分の才能を半ば諦めるように彼は苦笑した。

 「人間は飽きっぽい。だからテーマをきちんと絞って、楽曲のどこかにアクセントを置いてやると自然と耳を傾けてくれるんだ。わかるかい?」

 彼は目を閉じて何度か頷くと天井を仰いだ。

 僕は彼の曲の歌詞を眺めた。

 「今日はこの辺までにしておこうか」

 「この曲は機械的リズムの心地良さを出したいんすよ」

 「君はシンガー。コンピューターを道具として使うのであれば問題はないよ。でも、そこから発音されるリズムの上にきちんと君が居なければ、只のBGMだと思う。人間の作り出す音楽はマシンの何処かに人間のリズムを配置してあげることで、呼吸って言うのが生まれる、僕はそう思うんだ」

 「自分、難しくてわからんっす」

 身体をくねらせながら頭を抱えていた彼の肩を叩き、幾つかの古いブラックミュージックのアーティストの名前を挙げて聴くように勧めた。

 「そのうちに何かのきっかけでちゃんと見えて来るから、焦らずに、うん、少し時間を置こう」

 「お願いします」

 そう言って彼は頭を下げた。

 「そうだ、明日? いや十七日の夜にロクレタで僕のライブをやるんだ、時間あれば観に来ないか?」

 「アキラさんに予定聞いてみまっす。たぶん予定はないと思うんで行かせてもらいます」

 「楽屋にも顔を出してくれよ。ね!」

 「宇野さんの音楽って何が呼ぶんすかね?自分、尊敬します」

 と言って彼は僕の背中に挨拶をくれた。

 レコーディング・スタジオの重い扉を身体で押して、靴音の反響する廊下に出る。複雑な回廊を迷わずに、ゲスト・フロアの前のエレベーターを通り越し、階段を使って地上へ出た。空調の効いた建物の中の空気とは違う匂いが屋外にあった。

 雨が降っていた。幅の広い歩道にある街灯も霞むほどに強く降っている。それは並木の新緑葉に撥ね返り、黒いアスファルトにも強く叩きつける、そんな雨だった。

 午前三時。タクシーを捕まえようと思っていたが、それも無理なようだ。僕は今着たばかりのアーミー・コートから煙草を取り出し、ライターで火を点けた。煙がまるで暗い空間に吸い込まれるように消えていった。

 季節はすでに春を迎えている。現実逃避というつもりはなかったのだが、事実、僕が足を運ばなければならない場所へ向かわずに3ヶ月が過ぎようとしていた。こんな真夜中の雨に、色褪せた遠い日の面影を滲ませて、そして流してしまいたい。

 大学で朱美と付き合い始めて、ふたりがまだ一緒に暮らし始める前に、朱美はずぶ濡れになって僕の部屋のドアを叩いたことがあった。

 「こんな時間にどうした?」

 「水も滴るいい女」

 「兎に角、中に入ってくれ」

 僕は朱美を部屋に招きいれた。

 朱美は黒色に近い紺のジャケットを着ていた。パンプスとストッキング、短めのタイトなスカート、そしてジャケットの下は襟の無いシンプルな白いシャツだった。

 どれも皆、雨に濡れて身体に貼り付き、乱反射する昼の色とは違う深い原色へと変化していた。

 僕は足早にバスルームに置いてある藤の籠に重ねられた大きなタオルをそれごと持って来て、朱美の顔を髪の毛から拭い、濡れた服を上からゆっくりと脱がしていった。

 朱美の白い肌が目の前に現れる。肩、胸、背中、尻、腿、膝、脹脛、踝、足の先まで丁寧に身体を拭いてあげた。その間、ふたりに会話はなかったが朱美の震える手は僕の肩を掴んで離さなかった。

 「バスタブにお湯を溜めるから、その間ベッドの中で横になっているといい。今コーヒーを淹れる」

 「何も聞かないの?」

 弱々しい声でそんなことを言う朱美を僕は抱きしめた。

 「君が落ちついてからでいいよ」

 雨に濡れてもなお、微かにいつもの香りがした。先程まで着ていた服、下着、履いていた靴、こんな雰囲気の朱美を僕は初めて見た気がする。時間的なことも疑問に思ったが、結局そのことには触れずに、全裸でそこに立つ朱美の震える身体を受け止めていた。

 朱美の手は僕の背中に回り、僕の目を見つめ、そして一度の瞬きをした後、唇を押し付けて来た。自ら妖しく舌先を蠢かせ、体を温めていくように。

 「わたしをもっと求めてください」

 あの時、朱美は確かにそう言って僕に絡んできた。

 そして志津子も出逢った時に同じ言葉を口にした。

 僕はレコーディング・スタジオの裏口のアプローチに座り込み、身を屈めてこの言葉のことを思い出していた。

 人間のする行為、心の動いている様、普通ならばそれが正比例して自分の信じる動きに転じていける訳だが、朱美にはいつも静的なミステリーの空間が存在していて、僕はそれを感じる度に開放されない標的のように思っていた。

 そのせいだろうか、今でもあの芳香に出逢うと、モラルを失うほどに崩れてしまう。

 あれから朱美は突然僕の前から消えた。

 そして僕の頭の中であるひとつの仮説が過った。

 もしかしたら、朱美は自分の姿を変えて、数年後に再び僕の前に志津子として現れたのではないか・・・。

 不可能なことではない、むしろ朱美ならそんな行動を実行に移すような魔性の匂いのする女だと考えられた。

 ただ、何のために?

 僕は首を振った。そんなサスペンス・ドラマでもあるまいし、何の利得もないことが自分の周辺で起こり得る訳が無い、そう思い直した。

 「吾郎ちゃん?」

 背後から小さな声であったが自分の名前を呼ばれ、驚いて体が堅くなった。

 顔を上げるとそこにスプーンのマネージャー、アキラが立っていた。

 「あ、お疲れ、今日も遅くなってしまったね。サッジはまだ居るの?」

 親しい間柄だとスプーンのことをサッジと呼んだ。お匙のサッジだ。

 「ソファーで眠ってしまったわ」

 「そうか・・・」

 「Aスタは午前中まで押さえてあるからそのままにしておくつもりなの」

 「いいのかい?」

 「子供よね。変にプライドばっかり高くって、格好ばっかり、あいつの担当を代わって貰おうかなんて思っているところ」

 「いいセンス持ってるよ」

 「ねぇ、私を吾郎ちゃんのところで雇ってくんない?」

 「そういう余裕はない」

 ふたりは軒下に並んで声を殺すようにして笑った。

 アキラはモスキーノのパンツにハイヒール・サンダル、男物のベージュのコットン・シャツの背中にシェットランド・セーターを背負って、それは完璧であるほどよく似あっていた。

 顔立ち、体つき、仕草、雰囲気、誰がみても女性だろう。知り合って長い付き合いになるが、アキラが実は男性だという事を知っている関係者は多くはない。シンガーである我々の方が裏方に見えるほどの美貌を持ったアキラ。

 「相変わらず、綺麗でドキドキしてしまう」

 「よく、街で声を掛けられるわ。モデルになりませんか?って」

 「何て答えるんだい?」

 「いろんな断り方はあるけれど、例えば携帯電話を取り出して、<今、何処々にいるから若いのをすぐによこして頂戴>っていう芝居をするの。男はほとんど、何も言わず逃げていくわ」

 「ヤバ!」

 「ねぇ、足がないんでしょ?送って行くわよ。それに昼からライブのリハもあるんでしょ?早く帰って寝た方がいいと思う」

 「ふーむ、マネージャー歴の長いアキラのいうことは流石に的当たりだな、でもいいの?」

 「も・ち・ろ・ん、吾郎ちゃんは特別!」

 アキラの差してくれる傘で車の停めてあるスペースまで歩いた。激しい雨に叩かれてほとんど意味はなかったが、無いよりはマシだった。僕とアキラは車内に落ち着いて、ふと顔を上げた時に、お互いの目と目が合った。

 僕は微笑しながら、

 「うかつにも唇を重ねそうになった」

 と言った。

 アキラは噴き出すように笑った後、車のエンジンを掛けた。アメリカ車独特の轟音とも呼べる重たい音がした。雨滴が光で乱反射するフロントガラスにワイパーのブレードを作動させ扇型に窓を拭うと、アキラは僕の方に顔を向けて、

 「やだなあ、寂しい気分だぜ」

 と低いトーンで、呟いた。

 「アキラはいつからそんなに綺麗になったんだ?」

 「うーん、二十歳で北海道から出てきて、とにかく自分を変えたかったのよ。特に内面から変えたくて、それなら私のことを誰も知らない場所で男から女になってしまおうって、半年ほどロスにいてその時からかな」

 「パーフェクトだ」

 「でもない。付いている男根は未だそのままだし、でもアキラはアキラ。性格までは変われない。記憶も何もリセット出来るならば本当はそれが一番良いのだけれど」

 記憶のリセット・・・・。

 アキラはオートマティックのセレクターをリヴァースに入れながらもなお笑っていた。並んでいる自動車の列から外れ、ステアリング・ホイールを右へ返してからセレクターを戻してアクセルを踏み、敷地内を徐行して道路へ出た。

 「失礼な言い方かもしれないけれど、顔は整形したのかい?」

 「勿論!ホルモン剤だけでは女性特有のラインは出てこないわ。本来、男性の方が顔立ちは綺麗だって言うでしょ?今は昔のアキラと同一人物なんて誰も判らないはずよ」

 「変身ってそんなものか・・・・」

 僕の頭の中に、いつもの線影が走った。それはやはりグレイという色をしていた。夜の眠りにそっと引き込まれそうな、透明でも白でも黒でもないグレイ。物憂げな優しい光は何処にもなく、そしていつだって静寂の中だ。

 スタジオから僕のマンションまで距離にしても四キロほどしかない。近くにはいくつかの大使館があり、緑も多い。街路灯の明かりがこの雨で木々のグリーンを深いものにしていた。そして、車はほどなくマンションの前へ到着して、アキラの横顔を見た。

 「ありがとう、寄ってコーヒーでも飲んでいくかい?」

 「そうやって、何人の女性を連れ込んだのかしら?」

 「連れ込むわけじゃないさ」

 「私は男には興味がないの」

 アキラと僕は微笑を交わし、そこで別れた。

 部屋に戻ってから、力尽きるようにベッドへ倒れこんだ。

 体の中にある最後の空気が抜けて、もしかしたらこのまま目覚めることがないのではないか?そんな気分でため息をつきながら、混乱する頭の中にひとつの幻が現れた。

 遥・・・・。

 君の顔を写真でさえ見たことはない。

 今は十四歳、顔のない娘の姿を夢の中で見る。

 デフォルメした脳裏の背後には、いつもグレイの線を見てしまう。それが何によるラインなのか、僕は以前からずっと考えていた。そして合間を縫うような捨てカットの数々。まるで映画の予告シーンが流れていくような錯覚だった。

 それは僕の神経を不安定に揺り動かし、そこから逃れたいと言う愚かな弱さがいつも付いてまわった。

 いろんな女性と付き合うことで霧散しようとしたが、結局のところ、行き着く先は同じ場所。白なのか黒なのか、その場所の空気は僕の必要とする酸素を奪っていくようにも思えた。


 Goro Uno Live

 本日の出演:宇野 吾郎 & The Band  スペシャルゲストあり

 十七時になると、小さなボードに白と赤のチョークでそう書かれたインフォメーションが店の入り口に下がる。赤色の電飾に<Letter Paper>という文字が浮かび上がった。

 今日は数ヶ月ぶりのセルフライブの日だ。普段から裏方の仕事が多い僕は、こんなイベントを不定期で行なっている。飲食店の並ぶテナント・ビルの地下にあるそのライブハウスでの出演は今回が初めてであった。

 この企画は、いつも内輪ばかりで楽しめるパーティーのようなライブではあるのだが、勿論、僕を知る昔からのファンの人達にも開放していた。

 ベースのバウンスするリズムが裏から入ってくる。第一音目が頭だと聴く者は思う。心地よいリフの中、え?と感じる部分で全員の演奏が始まる。そういうトリックめいたことが僕は好きだ。

 一曲目にしては渋い選曲をした。

 「今夜は面白い雰囲気だね」

 僕はバンマスのギタリストに耳打ちして、フロントのマイクに向かった。

 これまでCDで売られたオリジナル曲のアレンジを全く崩して、組まれた楽曲が新作のように聴こえる。何を持って「良い曲」なのか判らないが、ライブには生の気があることが心地よい。

 観客の身体のツボを音という気で押してみる。ツボにハマれば観客は気を吐く。その戻ってきた気によってステージ上の自分達もハイになり、もっといい演奏が生まれたりする。そしてその会場で覚醒が始まるのだ。

 普段、仕事をしながらも見てしまう幻で憔悴してしまうことはあっても、このライブという空間の中にいると自然な解放感があった。

 僕は人生をこう感じながら生きてきたのだと、テンポある曲、また緩めのバラードを織り交ぜて披露していく。解かっていても、いつのまにか宙に舞う気持ちになる。そのテンションが僕を慰め、救い、常に前向きに歩くきっかけをくれた。

 僕は深呼吸をして、ブーム・スタンドのホルダーからからマイクを外し、客席の方に目をやった。

 「ようこそ」

 新しい旋律が流れるような、そしてまだ見ぬ君に出逢えるような・・・・。

 

SCENE 05  甘い果実の実際
   
   アドリヴの効く曲とそうでない曲がある。特にラストをバラードで締め括る場合、細心の注意を払わなければならない。淡い月の光をイメージした照明が柔らかく灯るステージ上で僕はもう一度だけ息を吐いた。

 今日、部屋を出る前に何気に思い出した一枚の油絵があった。それは夢で見たのかもしれないが、僕の記憶には只、その絵だけが思い出された。

 全体を群青色で溶かした印象を持ちながら、月明かりの中で見ると鮮やかな緑に光る優しい海。眩いばかりのその絵の行方は知れないが、僕の心に焼きついて離れない、離さない。

 曲のイントロダクションを弾く徳間学のベースの音に神経を集中し、僕は目を閉じ、唄い始めた。

 

過ぎ行く時間の中で忘れかけていた月の眩

白い手のひらの中に夢の種子を握りしめて

見せたくはない心に纏われているその涙 

ほんの少しだけ零れ落ちても僕の海に浮かぶ

言葉ではうまく言えないけれど 只、あなたを感じながら

今、傍にいて欲しいと Surrounds You

 

 ライブのリハーサル中に書き上げた。

 ラスト曲はすでに決まっていたのだが、何の飾りもないシンプルなメロディーだけを辿り、おおまかなラインの指定だけをした。

 この曲に変更した理由を徳間やバンドメンバー、今回のコンサート・クルーのスタッフも誰ひとり訊いて来る者はいなかった。

 最後の曲に会場のざわめきはいつのまにか消え、徳間が作り出す三拍子のリズムに観客は最後まで息を呑んだ。

 「皆さん、今夜はどうもありがとう」

 僕は、この一曲のためにベースを弾いてくれた徳間をゲスト紹介して、拍手の鳴り止むのを待つことなくステージを降りた。

 舞台袖で迎えてくれたのは紀子だった。

 「お疲れ様でした。最後の曲、震えました」

 リバーブの効いていない紀子のその声が、とても新鮮に聞こえる不思議さを快く感じて、僕は額の汗を拭った。

 事務所の方で仕事のブッキングやステージ・マネージメントに携わってもらっている彼女は、音楽を愛する故に妥協を許さない厳しさをいつも持っている。