4.
母は女である。しかし、全ての女は母であろうか。
亡き母を想う時、幸樹は母という像を都合よく創り上げてきたに過ぎないのだろうが、それを他人に追い求めようとしていたのは間違いであったような気がしていた。
そんなふうに愛が欲しいと感じることは、母が欲しいのだと理屈付けている様子にも似てみっともない・・・と。
それに対して異性が求めてくる愛が母であろうはずはない。相手を独占しようとする欲望、それが母性と言うものに属するならば、それ故に、はっきりとした意識は必要ないのだと感じていた。
そういった「女」と言う不思議な生き物を考察したいという思念が幸樹の若い頃には存在していたかも知れない。
そう、母から産まれて来るのは男だけではない。芳野幸樹は男に生まれてきたのに、女のような意識を感得してみたいと思っていたのである。
それまでの異性との交際は、自分自身を細かく確認しながら黙念していたのだろうが、それを成長と呼ぶには甚だしいとも思う。
それでも母のような女を秘かに模索して、更に不全感を強めていたのだと感じると、単なる情欲であったのではないかと思えてくる。
あれから、・・・。
もしも絵美子が生きていたとしたら、横浜に身を置いたのではないかと幸樹は考えた。そこで父に隠れるように暮らしていたかも知れない。
愛するということに憧れながら、絵美子と自分は恋人同士になれたであろうか。
もしも絵美子に決まった相手が存在していたとしたら、自分はその男に嫉妬を覚えるだろうか。
それはやがて大きな妬みになり、今より狂った時間を過ごしてしまうだろうか。
そして、何もかもが嫌になり幸樹自身も自ら命を絶ったりするだろうか。
愛を所有しようとする嫉妬、それは魔物のようである。
いつ覚えたのか、嫉妬という漢字には女扁から組まれていることに気付いた。浮気するのはいつも男の方だと、女はその度に男を妬み続けた遠い昔からの形かも知れない。そして、自身が愛する者に対して自らも嫉妬を感じることで、女の意識へと流されていく錯覚をする。
しかし、母はひとりなのだ。自分を産んでくれた母は間違いなくひとりだったのだ、と自らに言い聞かせ、想像を掻き消すような結末を繰り返す幼い幸樹が遠い時の中にいた。
一九七九年の春、幸樹は神田にある私立大学の文学部に入学をすることが出来た。滑り止めとして三つの大学を受験したが、運良くどれも合格し、その中でも名立たるキャンパスを選んだ。
大学というところでは、かなりの自由な時間が持てた。一年を通して半分近くは休みであったし、それまでの学生生活のように厳しい出欠があるわけでもなかった。自らの意志と責任で専門分野を学び、意欲さえあればアピールをも出来る場である。
単位を取得していけば数年後の就職は有利にもなり、そこに目標というものを立てた人間であれば、その先の人生も違う作用が働くはずである。反対に漠然と過ごすということも選択できた。社会に出てからでは無理がある、大学に籍を置いている時間を使って自分探しが出来ることは悪いことではない。それは将来を高い授業料で買うようなことになってしまうのかも知れないが、生きていく下準備だという考え方をすれば、生活も一変してしまうような賭けがある気がしないでもない。
そして、異性との交友に関して言えば、それまでの規律正しい生活とは比べものにならないほどオープンとなっていくのに戸惑いも覚える。確かに幸樹自身のテーマであることのように女にのめり込んでいった時期でもあった。
幸樹は桜の舞い散る構内に腰を下ろし浪人生活という一年を考えていた。それまでは大学に入るという目標だけに絞って勉学に勤しんで来たわけだが、実は追われるように過ごしていたことが自分を救っていたかも知れないという考えに辿り着いた。
そして、その先を如何に生きてゆくか・・・。
正直を言えば、何も判らなかった。そして、その後も時間を詰めて生きていかなければ自虐的な方向へ堕ちてゆくような恐怖心さえ付き纏っていることも認めていた。それは死ぬまで燃え尽きることはないような予感もあった。
------あの日、自分は怖い夢を見ただけだ
そう考えていなければ、自分の感情だけが一人歩きをして、最後には誰かに背中を押されるような妄想に囲まれてしまう恐悸が忍んでいた。そして心無い冷酷な人間のように平静を装った顔をして生きていたのだと言える。
どれだけの時間が過ぎてしまっても、思考の狭間に嵌ってしまうことを覚悟はしていたが、それが何かは知りたくはない、かと言って求めたくもない。そうやって嘯きながら悔いだけが残る日々を歪んだ状態のまま「発条」を巻き続けていた。
入学してから暫くは新入生のサークル勧誘を煩わしく感じていた。
「アルバイトをしているから時間がないんです」
幸樹はそんな返答をして断り続けていた。浪人中によく聴いていたラジオの深夜放送の中で、そう言えば殆どの部の連中は諦める、という話があったのを覚えていて、同じことを実践してみると面白いように「仕方ない」という一言が返ってくる策を身につけていた。
その日も二日目のオリエンテーションに出席するまでに時間があり、構内の坂の向こう側を散策しようと春の暖かい風に吹かれながらまっすぐに歩いていた。
始まる色と薫り、その中に様々な憂いと苛立ちをも含みながら、燃焼しきれない自分にいつもと変わらぬ欠落感を持ちながら・・・。
「ジャズという音楽に興味はありませんか?」
あの時、また捕まってしまったと感じて、幸樹はゆっくりと振り返ったのだが、ほんの一瞬、その声を掛けてくれた女に言い知れぬ懐かしさを覚えた。それが何なのかその時にはあまり気にはならなかったが、自分の知っている誰かに似ている、そんなことを瞬間的に思ったかも知れない。
女の着ていた黒のトレーナーの胸には、コルトレーンが難しい顔でサックスを吹いているものがプリントされていた。そして、それとは逆に女の持つ笑顔に少し戸惑っていた自分がいたのも覚えている。
重なった視線は優しさにも変化して、目を逸らすことが出来なくなった。いつものように勧誘を断るあの科白を吐こうとしたのだが、出て来た言葉は違っていた。
「ビル・エバンス、好きですけど・・・」
「へえ、美し過ぎてあたしにはピンと来ないけれど・・・。勿論、認めていないというのではないわ。ミシェル・ルグランと出逢ってからの彼は自分を確立して行ったしね」
傍らに用意されたパイプ椅子に座るように促された幸樹は、目の前に並んだジャズのアルバムを見るともなく眺めた。
正直を言えば幸樹にとって初めて目にするレコードばかり、そのことに少々恥ずかしさを覚えながらも、見栄を張って少しだけ微笑して見せた。
「彼がマイルス・グループに参加しなかったらどうなっていたかしら?」
<Kind Blue>と書かれたそのアルバムに触れながら、言葉を待つような目を向けられたが、はあ、という間の抜けた幸樹の返答に見縊られた気持ちになったようで、代わりにため息が聞こえた気がした。
幸樹はその反応を目の当たりにして、気の強そうな女だという印象を受けた。昔からそうだったのだろうが、何かの言動に対してすぐに返答をされることを嫌がっていたのかも知れない。それはリズムと言うか、タイミングと言うか、威圧される空気が父のそれに似ていたからだと分析すると、そういった人間には頑なに壁を作る癖があることを自覚した。
女はその後も、理論でも並べるように、また、哲学でも混ぜるように喋り続けていたが、幸樹が何も返さないでいると、疲れた顔をした。
「まあ、その気があったら五号棟の隣にある建物の二階一番奥の部屋。そこにビレッジ・バンガードって看板あるから尋ねて来てね。待ってる。はい、これ」
安っぽいブルーのコピー紙に刷られたサークル案内を押し付けるように渡され、その女は椅子から立ち上がり再びの勧誘へと他の部員のいる元へ去っていった。
幸樹は手に持っていたチラシのコラムを読みながら、自分がジャズをほとんど知らないということだけで気持ちが沈んでしまったが、こういった大学のサークルを通して、ジャズという音楽を幅広く知ることが出来れば愉しいのではないかとも感じた。ただ、ジャズに詳しい連中の中へ入っていくということは自分の中では勇気のいることであったが・・・。
ふと、日向っぽい風の匂いがした。ハタハタと音をさせてチラシが揺れた。ミユの横顔が幸樹の脳裏を掠めた。
文章の最後にボールペンで書かれた「吉村香代子」という字が目に付いたのはその時である。それは何処にでもある名前としか思わなかった。しかし、幸樹の中には釈然としない気持ちが先を歩いていた。それは音楽を愉しむのに薀蓄が必要だと云われたような苛立ちである。
他人と論ずることがあまり得意ではない幸樹に、演奏をする人間の感受性や生き様を彼是と言えるわけがないし、言いたくもなかった。自分にフィットする音楽が聴ければ、理由など要るものか、そう感じたほどである。
午後、昼食を挟んだ三時間ほどのオリエンテーリングが終わり、あとは何をしようと自由になった。アルバイトをしているからサークルには入れない、という言葉通り、本当にアルバイトをしなければ生活は困難になるだろうと考えてはいたが、いざ始めようと思うと何をしていいのかということにも悩まされた。しかし、自分なりに授業の時間割を組み立てていくと、あまりの空き時間に呆然として、そんな余裕のある時間を有効に使わなければならないと改めて考えさせられた。
大学に合格してから、桜上水を出て本郷三丁目駅に程近いところで暮らし始めていた。そこは六畳で一軒屋という朽ちかけた小屋のようなところであったが、大家の住む敷地の一部に建てられており、昔の離れと呼ぶものではなかろうか。そんな建物の隣には取って付けたような便所とプラスティックの盥を思わせるような流しがあって、二万五千円の金を月毎に支払うことになっていた。
そこにあった庭そのものは、大家の所有するものだったが、契約する時に庭付きのような思い込みがあって、後にそれはないと気付いてからそこに住むことを後悔していた。そして、一刻も早くここから逃げ出したい気持ちが日ごとに強くなっていき、早々にアルバイト先を決めて引越し費用を作らなければという焦りも生まれていたのだった。
そんな忙しい時期、提出を促された書類なども含めて、片付けてしまわなければならないことは山ほどあった。幸樹はそれを充分に分かっていながら、吉村香代子のことを考えていた。
特に美人というわけでもない。ただ、あの積極性のある行動に憧れて、優柔不断な自分を正しい場所へと導いてくれそうな印象があることに気持ちが揺らいでいた。
また母を捜しているのか、幸樹はそんな苦笑もしたが、なるだけ違う捉え方をしようと努めてみた。
購買部でレポートに使う原稿用紙を物色して、それからいくつもある同好会やクラブのある建物へ足を向けた。比較的新しい本館の建物とは対照的に、廃屋を思わせるような、全体が薄汚れた建物がそこにあった。入り口のすぐ側が便所であったが、そこから発するアンモニアの臭いとでも言うべきか、一種独特な異臭が充満していて、天井からはワット数を抑えた薄暗い裸電球がひとつだけぶら下がっていた。そして昼間でもそれがなければ暗窟のようだと思わせた。
割と長めの廊下の所々にはアルマイト加工されたバケツが等間隔に置かれてあり、そこには水が張られていた。フィルターの先で崩れた煙草の吸殻が黄色くなった液体の上に無数に浮かんでいるのを見て、ひとつだけ咳払いをした。
途中に踊り場を設けた階段を上がりきり、二階の廊下を意味不明な部会の名前を眺めながら幸樹はゆっくりと歩いた。そして、一番奥まったところにビレッジ・バンガードというジャズの愛好会を見つけた。
開かれたままのドアには [ roots ] という文字があり、何かのジャケットを思わせるような二値の落書きがあるのが目に付いた。
衝立の向こう側からは微かに聴こえてくるビートがあり、それを耳にした瞬間に突然の笑い声が起こると幸樹の足が止まった。部室の中をそっと覗き見ると、大きなテーブルの真ん中にジュースや菓子袋が置いてあるのが目に付いた。何となく近寄り難い気がして踵を返そうとしたが、「入部ですか?」そう背後から男に声を掛けられて幸樹はたじろいだ。
「あ、いえ・・・あの、見学って・・・感じで・・・」
何のことはない、その後の巧みなセールスに捕まったように、いつのまにか言い負かされる気分であった。もしかしたら自分は、玄関先でいくつもの悪徳セールスから物を買ってしまうタイプの人間かも知れない、と敗北感のようなものを噛みしめながら、入部届けにサインをしてしまったのである。
そして、次の日の夜には早くも新入部員の歓迎会が決まり、それは不思議なことだと思ったのだが入部なんて節目がないのだから歓迎会と称した酒好きの集まりに過ぎないのだということにもそこで初めて気がついた。ジャズ愛好会の活動たるものは仲良しグループの延長線上なのだと理解すると長いため息が姿を現わし、路地裏に吐き捨ててしまいたい気分にもなった。
十人ほど集まったその会は神保町の居酒屋で行なわれた。香代子もまたそこに出席していたがテーブルの大きさから言えば、程遠い場所に座っていた。
まず構えてしまうという幸樹の性格からすれば、見知らぬ人間と打ち解けあうのに時間が必要であるはずなのだが、意外にもそれほどの緊張はなく、落ち着いていられる自分を不思議に思った。
一年生は三人。幸樹の他には銀縁の眼鏡を掛けた神経質そうな内田という男、そして、どう見てもジャズなんて縁がないだろうと感じさせた宮本里美という女がいた。
内田は酒に弱いらしく、乾杯の時のほんの一口で顔を紅潮させては殆んど喋らなくなってしまい、それとは反対にお祭り気分の里美に部員の男たちの視線は集まっていた。
幸樹は上級生の男たちの爛れるような脂の匂いを感じてしまって、それは里美の着ていた白いフリル付きのブラウスを脱がし、春の薄いロングスカートをたくし上げるような眼にも思えた。
自己紹介をするように促された幸樹も大きな深呼吸をして立ち上がると周りからの視線を受けて、ある程度の緊張を覚えた。
「学籍番号79C-153、一年、文学部の芳野幸樹です。僕は生まれも育ちも神戸で、趣味は・・・えと、趣味はこれから探そうと思っています。ジャズは初心者ですが、皆さんにいろいろと教えていただきたく入部いたしました。よろしくおねがいします」
「どんなジャズメンが好きなの?」
即座に座り込もうとした私に香代子が口火を切った。
「えー、あの・・・よくわかりません」
「エバンス好きだって言ってなかった?」
「え、まあ好きですけど・・・」
「どういうとこが好きなのか言ってみなさいよ」
口煩い女の言い方であった。それはどこかの小姑の刺々しい露悪趣味な態度にも思えた。しかし、何かを言えば更に輪を掛けて皮肉めいた事を云われそうな気がして、幸樹は口を噤んだ。
「まあ、いいじゃないか。せっかくの歓迎会、楽しくやろう」
そう言って制してくれたのはボスと呼ばれていた三年生の部長であった。香代子のように本気でジャズと言う音楽の歴史を紐解こうとしている人間もいることに、サークルの意味を問うてみるような気にもなったが、その日は黙っていることの方が妥当だと考えて口を閉じ俯いた。
幸樹は目の前に置かれたビールに少しだけ口を付け、斜め向こう側に座る香代子を見た。睨むような眼でこちらを見ていたが、それはやがて、何かを企むような嫌味な笑顔に変わった。
未成年でありながらも、自分は酒には強い方だと思っていた。その時も部員の全員がほろ酔い気分になっているにも係わらず、幸樹自身、平然としていた。隣に座る里美の大きな笑い声に圧倒されながらも、少しだけ喋り、時には相槌を打ってみせた。
幸樹はふと背中を叩かれてゆっくりと振り返った。そこにいたのはほんのりと顔を赤らめた香代子であった。
「神戸東灘小学校、三年二組、芳野幸樹、現在十九歳」
最初は何なのだと思った。その経歴の訳もわからず、返事が出来ずにいた。
「何にも憶えていないって顔ね。でも、私はあなたを許さないわ」
許さないと言われて、一瞬、絵美子のことを考えたが、全く違うのだと判断すると、心に痞えていたものを捜し始めている自分がいた。
「吉村先輩、あの、すみません。何のことかわかりません」
幸樹がそう言うと、香代子は昼間と同じような長いため息をついた。
「私は、さっきあなたが神戸出身って言った時に気付いたのよ。私は小学生の時、あなたと同じクラスだった。憶えていない?」
「えっ?」
少し、考えてみたがはっきりとした記憶はなかった。しかし、確かに逢った時に感じた何かがそれでなかったのかとも思えた。
「すみません・・・」
「私はね、あなたにいつも虐められていたんだから。名前が同じヨから始まるから、いつだって隣だった」
はぁ、という気のない返事をしたとたん、幸樹の目は大きく開かれた。
「あ、思い出した、・・・ような、・・・名前ははっきり憶えてなかったけど、あ、そうだ、髪の長い、あのこんな風に髪を結っていて、あぁ、・・・あ・・・」
香代子の違う笑顔がそこに現われてから、何を言っているのよ、と云いたそうな顔で再び睨みつけられた。
「ひっどぉい・・・。いじめっ子って虐めていた子のことをちっとも憶えていないのね。私の心の傷は相当なものだったのよ」
「あの、・・・すみません」
「でも驚いた。神戸の芳野って聞いた途端にちょっと寒気がしたわ。また虐められるって妄想が瞬間的に浮かんだもの」
「そんなことはしません」
「なんか、芳野くんって本当にあの芳野幸樹なのかなぁ?全然違う人みたい。私が東京へ転校して行ったのも憶えていないんでしょうけれど、もしかして、そのあとに虐められっ子になったとか?」
「そんなのはないけど・・・」
小学校三年の時、自分が香代子と隣り合わせの席であったことは思い出したが、どんな悪戯をしていたのか、本当に憶えていない。筆箱を隠されただの、大事にしていた洋服を汚されたのだの、今にしてみればチョッカイというものに過ぎない気もしたが、香代子が初恋の男だということをその時に初めて知った時には改めて驚かされた。
幸樹が、初恋を自覚したのはもっと上級生になってからである。月並みかも知れないが、自分の慕った相手は、小学校五年の時のクラスメイトだった。
その時、何が起こっているのかという異変に理解できないでいたし、告白する勇気などあるはずもなかったが、どうしようもない苦しさと恍惚が溢れても、それは恥ずかしいことであるような気がしていた。後々に、それが「恋」と言うものであることが判った時、幸樹の淡い夢として記憶に残っていったようなものだった。
例えば、香代子と同じ時期に異性を好きになる感覚が芽生えていたら、自分は如何なっていただろうか、と幸樹はつまらない想像をした。自分は気の強そうなこの女を好きになっただろうか?いや、当時はもっと大人しい性格であったようにも思える。だとしたら、幸樹の行なった虐めによって香代子は形成されたのであろうか・・・。
遠くを見ながらそんなことを思っていると突然、幸樹の目の前にビールのジョッキが置かれた。
「呑め!ここではあたしが先輩だぞ。全部呑め!」
「はい・・・」
「これは虐め返しよ」
「お手柔らかに・・・」
幸樹はジョッキを手にすると一気に飲み乾した。それは香代子の自分へ対するささやかな復讐であったのだと素直に受け止めて、その命令に従った。
幸樹は腹の底で「可愛い女かも知れない」そう感じてしまった。そう思うと素直に、すみませんでした、という言葉も口から出ていた。
「やっぱり芳野って違う人みたい。調子でないのよね。ねぇ、何か言い返してくれない?」
「いえ、・・・」
「もしかして、あたしマゾヒストの気があるのかも知れない」
香代子のテンションが高くなっているのは明らかであった。それはストレスから来るものであると勝手な推測をしながら、幸樹は言葉少なに時々笑みを溢した。
お祭りのような若者のエネルギーは、その若さゆえ生まれてくる。その時には周りの客が怪訝そうな目で我々を見ていたようであったが、その気持ちは幸樹自身も歳を取ってから理解出来ること。何をそんなに騒ぐことがあったのか、歳を重ねて思えば可笑しなことである。
香代子は近くにいた部員の女友達を呼びとめ、「ねぇねぇ、彼はあたしの初恋の人なのよ」などと、それはまるで恋人でも自慢するように話を盛り上げながらはしゃぎ回った。幸樹はそんなことに呆れながらも少しだけ緩くなった心を覗かせながら昔話にも喜悦するようになっていた。
宴も酣、という雰囲気は続き、日付が変わった零時になっても、誰一人帰ろうとする者はいなかった。勿論、帰っても良いですか?などとは言える場所ではない。
部員の連中がどの辺に住んでいるのか知らなかったのだが、自分は歩いて帰っても大した距離ではないので、慌てていた訳ではなかった。店そのものは午前四時までの営業をしているようであったが、もうかなりの量のアルコールが入っているはずで、新入生の内田は早々に部屋の隅っこで横になってもいた。幸樹は時々、腕時計を見ながら隣に座る里美に耳打ちした。
「電車がなくなるんじゃないですか?」
「いいの、いいの。私はいいの・・・」
何がいいのか解からなかったが、そう言う本人の言葉に、「なら、いいけど・・・」と返答しておいた。里美は笑いながら、そうやって大勢で騒ぐのが楽しいらしく、すぐに幸樹を通り越して再びはしゃぎ始めた。
そんな時、決まって思うことがある。ここは東京------
何があっても許されることではないことを承知はしていたが、あの頃は全てが許容範囲であるような不明な理屈もあった気がしている。
そして日付は変わり、午前二時を過ぎてからカラオケに行くことになって、幸樹の中で逃亡する目論みが浮かんだ。割り勘とした金額を一番に支払い、用を足しにいく振りをして、そそくさと店を出た。少し小走りにその場から離れ、小さな路地に身を隠し、少なくなった煙草を一本抜いて少しの間だけ時間をやり過ごそうと火を点けた。
「みっけ・・・」
目の前に香代子がいた。驚きのあまり幸樹は言葉を失ったが、間違いなく自分の後を追いかけてきたのだと判った。
「ヨシノ、あたしは恐怖の酔っ払い女だぞぉ・・・」
「ほらほら先輩、カラオケ行かないと置いていかれますよ」
「お前を虐めるのだぁ・・・」
そう言うと、香代子は身体ごと幸樹の中に崩れた。それをしっかり受け止めて支えてから、しばらく如何すればいいのか迷っていた。
ふとマリコのことが頭に過ぎった。あの時、散々に愚痴を聞かされては、最後に酔いつぶれてしまっていたが別に悪い気はしなかった。朝方、ごちそうさまでした、という置手紙を残して幸樹はひとり帰っていったが、今は如何しているだろうかと気にもなった。
「先輩、タクシー拾いますからね、向こうまで頑張って歩いてくださいね」
幸樹は返事のない香代子を支えた。白山通りへ向かう途中で似たように酔いつぶれたサラリーマンにからかわれながらも、それを無視してタクシーを捕まえた。
「おうち何処ですか?ほら、先輩、しっかりしてください」
香代子は、はい、という返事はするのだが、その答えは返ってこなかった。幸樹は痺れを切らす運転手に謝りながら、一緒に乗り込み、本郷三丁目を告げた。
里美との“なんとなく”の付き合いが始まったのもそれからすぐのことであった。同じ学部だったせいもあり、授業の合間には気心知れた相手になっていた。友達を作るのも得意だとみえて、幸樹以外の学生にも気軽に会話をする姿を何度も目にした。
里美は垢抜けた感じのする確かに東京的なお洒落な雰囲気を醸し出していた。現役で入学してきたのだろうから、ひとつ年下ということになる。しかし、その明るい子供のような性格に幸樹は少しだけ引き気味にもなっていた。
里美は、授業の時も学内の食堂に行く時も幸樹に付いて回る毎日が続いた。理由は判らなかったが何だか監視されているような気分で面倒にも思えた。
「僕はアルバイトをやろうかと思っているのだけど」
「あ、そうだ、下宿暮らしだって言ってたね。大変だね、でも、それほど講義も入れてないんだから今のうちに稼いだっていいんじゃない?」
「宮本さんは何かやっているの」
「あのさぁ、前から言おうと思ってたんだけどさぁ、そのミヤモトサンって呼ばれるの嫌な感じなの」
「そう・・・か、何だか慣れなくて・・・」
「里美でいいよ」
「えと、里美さんは」
「“さん”もいらないってばぁ」
「里美は・・・えと、バイトやってるの?」
そう呼んで、少し恥ずかしい思いがしたが、里美は満足げに微笑んだ。
「別に何も。アルバイトなんてやるって言ったらお金くれるような親だもん」
「へぇ、それはそれは・・・」
「学生課に行けば何処か紹介してくれるかも知れないけれど、あ、そうだ。うちのママがね、青山で美容院やっているのよ。人手が足りないって言ってたから聞いてみてあげようか」
「ビヨウイン?」
「助手みたいなもんじゃないかな?掃除したりとかいう雑用だろうけど」
「うん、悪くないな、でも本当にいいの?」
「何がいけないのよぉ。あー、それよりもその伸び放題の髪の毛をママのお店でイカシた感じにして変身しようよ」
次の週の火曜日の午後に、幸樹は里美に連れられて青山にある「ナチュラル・オリーヴ」という美容室に行った。
それは都会の中にある洗練されたお店だった。神戸にいた頃に叔母が通っていたような個人経営の寂れた美容室を想像していたのだが、そこに着くなり面を喰らった自分であった。それ故に幸樹の緊張は随分と意識が遠のくほどになり、途中で逃げ出したい気分にもなった。
その日の店は定休日で、中に入ると里美の母が待ち構えていた。里美と並んで椅子に座るとふたりは姉妹にも見えた。秩序が衣装を纏ったような優美さ、清楚な白いシャツに黒いパンツという装いは、小柄でありながらバランスの良い美しい体躯の線を強調していた。
美容室と言う空間を忘れるような深い色合いの木柱と共に、床にはコルクが貼られていた。それは外から見ればブティックかティールームにも見えてしまうかも知れないが、その調和の取れたデザインは他には類を見ない高級感も漂わせていた。
何だか気恥ずかしい・・・。
そう感じるともう一方で小刻みな震えが押し寄せていた。
里美の母は幸樹を向かい側のソファに座らせると、落ち着いたデザインの名刺を差し出した。
-----宮本喜和子
すでに話は済んでいるようで、幸樹の採用は最初から決まっていた。しかし、悪いようにはしないから、という喜和子の一言は幸樹の緊張を増幅させた。
一通りの説明を受けて椅子から立ち上がると、壁一面の鏡に幸樹の容姿が映った。その男は、確かにみすぼらしく見えた。
「ユニフォームはとりあえず仮の物で、芳野くんならそのままでもピッタリだとは思うけど、後で合わせたものも作りましょう」
そう言う喜和子を待ち構えたように里美が口を開いた。
「ママ、幸樹の頭を何とかしないと・・・」
「そうね、芳野くん、私がカットしてもいい?」
妙な気分であった。はい、とは返事をしたものの、正直なところ不信感でいっぱいになっていた。俎板の鯉、そんな気分で困惑した表情をしていると、勝手が分かっている里美がそそくさと用意を始めている。誰もいない店内でひとり椅子に座らされた幸樹は静寂ばかりが気になって仕方がなかった。
「まず、シャンプーをしましょう」
幸樹は無言だった。そして、くるりと椅子を回転させられて手際よく背もたれを倒された。その直後、顔にタオルを掛けられると、シャワーのコックから勢いの良いお湯が出る音を耳にした。周囲が見えないことで、神経は研ぎ澄まされ、如何しているのが良いのか判断出来ない自分に再び恥ずかしさを覚えた。
喜和子の胸が私の肩に当たっていた。
「熱くはない?」
そんなことには気付かないような声を幸樹は掛けられたが、自分の顔が火照るのを感じると、違う意味で「熱い・・・」という言葉を想像した。その瞬間、額から流れ落ちる汗に気付いた。それは自分の意識がわずかに薄らいでいくような気分でもあった。
次に後頭部へ喜和子の腕が回された。タオルの上にはふたつの柔らかい感触があった。さらに力は加えられ、抱きしめられたような状態になると、気を失うのではないかという気さえした。それはとても長い時間だったように感じられ、最後にすすぎを終えて椅子の背もたれが起こされた。
「お疲れさまでした」
心臓を握り締められたような興奮が残っていた。里美は傍に居たのだろうかと、辺りの鏡から盗み見たがその様子はなかった。代わりに喜和子の真っ赤に塗られた口紅が目に入ると、幸樹の血は再び急速に動き出したような感じがした。
それからのことはあまり憶えていられなかった。カットされながらも様々な話をしていたようにも思えるが、全てが終わった時に、喜和子の、「はい」という言葉で、催眠から醒めさせられたような気分だった。
幸樹の目の前には女の顔をした自分が鏡に映っていた。再び我に返りながらも言葉を失ったようにしばらくは動けないでいた。
「あの、もっと短くしてもらってもいいでしょうか?」
「あら、そう? 似合うけれど、そうね、それもいいかも知れないわね」
女の子みたいだ、そう言われたくないと感じた幸樹の苦悶の言葉だった。
里美の家が裕福であることはよくわかった。世田谷の成城に自宅があるにも関わらず、ひとりで住むには充分すぎるほどの広さのあるマンションを借りて貰い、そこから大学へと通っていたのだと知った。そして、数日後には当たり前のように幸樹は部屋に誘われた。
「汚ない部屋だな。せっかく広くて素敵なとこなのに」
「だって面倒だもの、お掃除とか好きじゃないんだもん」
「それにしても・・・」
小さなテーブルには飲みかけの飲料水や食事を終えたままの食器などが放置され、同じように小さな台所も汚れていた。脱ぎっぱなしの服、出されたままのカセットテープ、それは足の踏み場もないほどに散らかっていた。
「彼氏を部屋に連れてくるのにこれは酷過ぎない?」
「幸樹ならいいかなと思ってさ・・・」
幸樹は自ら発した彼氏と言うその言葉に恥ずかしさを感じながらも、里美が何の反応も示さないことに安心感を覚え、何故に自分なら良いのだろうか、という疑問も残した。
「片付けてもいい?」
「え、やってくれるの? サトミ、嬉しーい!」
幸樹は手際よく掃除を始めた。里美はそんな動きをベッドの上から眺めていたが、一緒になって手伝うことはなかった。時々、幸樹が訊いたことに、あれはこれはと指示を出すだけでその場から動くことはなく、何の苦労もなしに育ってきたお嬢様には将来の生活など存在しないのではないかと言う気にさせた。
里美は如何に暮らしていくかではなく、如何に人生を楽しむかということだけ考えていたように思えたが、自分もそれが出来るなら確かにズボラになっていたのではないかという気はした。しかし、何も言わずに黙って片付けを続けた。
「何か作ってやろうか?」
「料理も出来るの? すごーい!幸樹ってホントに頼もしい !!」
煽てられているとは考えなかったが、幸樹の中で褒められる喜びは確かにあった。仕方ねえなぁ、と言いながらも笑っている自分が滑稽にも思えた。
冷蔵庫の中は当然の如く何もない。ふたりは近くの店に買い物へ出ることにしたのだが、それは少しばかりの新婚生活を想像させた。幸樹にそういった願望がなかったわけではない。ただ、里美に対しては諦観の上に成り立ったママゴトのような遊び感覚の方が強かった。
「ねぇ、幸樹・・・いっそのことここで一緒に住まない?」
それは同棲ということなのだ、と幸樹は考えた。確かに今の住居を出てしまいたかったのだが、「まぁ、気が向いたらね」という返答をした。
きっと、家事や洗濯、そんなことで使われるのがオチだと思ったが、その後、幸樹は里美の部屋に入り浸りになってしまう。それは下宿を引き払う訳でもなく、一時的にそこに寝泊りしているつもりのことでそれは始まる流れだった。
幸樹は自分を淡白であったのかも知れないと感じていたが、何を言われても拒否することはしなかった。そして、里美が覚えた快楽のひとつにセックスがあった。正直を言えば、当時の幸樹は里美のことが好きでも嫌いでもなかった。いくら肌を重ねても幸樹の中で恋愛感情が目覚めることはなかった。
そんな気持ちで付き合いを続けていいものかという思いもあったが、その時もまた「東京」という二文字が幸樹の心をいい加減なものにした。そういった意味では里美も同様であったのかも知れない。
例えば、幸樹の思う「恋」は東京にはないのだと感じたほどであった。「付き合う」という局面で愉しむことだけが全てであるような・・・。そして、そんな幸樹の考える「恋」は、その後に里美と一緒に生活することの苦しみを生むことにもなった。
逆に香代子はいつも一歩引いていたような気もしたが、嫉妬があるのは明らかであった。
「別に芳野が誰と付き合おうと関係ないけどさ」
それは香代子が幸樹に対して幾度となく繰り返した科白だった。
一度だけ、濠村も呼んで香代子と三人でジャズの生演奏を聴かせるバーに行ったことがある。濠村は池袋の先にある私立大学に合格していたのだが、医学部ではあまり遊ぶ暇がないようなことをその時に話してくれた。本来は国立一期校を志望していたらしいが、その年から始まった共通一次試験の合格ラインに到達できずに、仕方なく私立に絞ったということだった。
濠村は香代子のことをとても気に入った様子で、その後にお互い連絡を取り合うことになった話はずいぶんと先で聞いたのだが、幸樹は濠村の顔を見たその時に当然ミユのことが頭に浮かんでいた。
ただ一度だけ顔を合わせ、ほんの少しの会話があったいうだけなのに、幸樹はずっとミユを想っていた。勿論、濠村との会話の中では話題にも上らず、ミユと言う存在がそのまま幸樹の中を過ぎていったとしても可笑しなことではないはずであった。
もしかしたら、椿の中には甘い香りのする毒が含まれていたのかも知れない。そんなつまらない想像も浮かばせ、いつのまにか忘れることの出来ない女になっていたのだということを後々に噛みしめたものである。
恋は時間が流れる分だけ、膨らみ続けていく。
俗に初恋と言うものは、清いイメージが大半を占めているもので、歳を取ってもそれを壊せないまま記憶に留めているのと同様に、初恋ではなかったが、ミユと言う女のイメージを膨らませていたのだと思う。逆に、もしかしたら自分のことなど憶えていないかも知れないという気もしていて、確かにそれは寂しいことと感じたが、運命は悪戯にもハートを刺激し続けていたと言える。
八月の最後の日曜日、東京は茹だるような残暑を観測しながらも、幸樹はナチュラル・オリーヴの店内で冷えすぎるほどのエアコンの中を動き回っていた。
授業の空いている水曜日と土曜日の午後と日曜日が幸樹の正規の勤務時間ではあったが、夏休みと言うことも重なり、ほとんどの時間をアルバイトに費やしていた時期である。
午後を回って遅い昼食から戻ってくると、経営者である喜和子に呼び止められ、幸樹は事務的な返事をした。
「コウちゃん、お客様があなたを尋ねていらっしゃたわよ。あの、一番奥の・・・」
幸樹は指差された方向を凝視した。チーフがストローク・カットを入れている最中であった。
そして、それがミユであることはすぐに判った。幸樹の心臓は撞木で突かれた梵鐘のように響いた。
「あ、声をお掛けするのは後にしなさい」
「はい」
そんな返事をしながらも幸樹の驚きは徐々に押し寄せてきた。その時、ミユが如何して自分を尋ねて来たのかという疑問もあったのだが、それよりも無くしたものが見つかったような嬉しさも一緒に込みあげていた。後で説明されたことだったが、幸樹がそこでアルバイトをしていることを濠村がミユに溢したような話をされた。幸樹はいつまで経っても落ち着かなかった。
「私のこと、憶えているかしら?」
「藤本美優さんですよね」
「嬉しいな、憶えていてくれて、ね、何時に終わるの?」
「七時には帰れます」
「向かいのランバー・ジャックって喫茶店で待ってるから終わったら来てくれる?」
「わかりました」
その会話は隠れるように行われた。妙な気分であった。そういった中に「恋」とはときめくものだという改めも生まれた。しかし、自分はずっと自分の気持ちを伝えられないでいたのだ。勿論、自らその扉を開ける勇気も持てないままであったのだが・・・。
それから残り四時間ほどの勤務時間は、自分を見失うほど気の高揚を抱いていた。急ぐ必要もないのに全てのことに慌てている。早退させてもらうことも考えたが、首を振って時計を気にしながら幸樹は仕事を続けた。
営業時間の間際にやってきた客にため息を吐きながらも、何とか終業を迎えた幸樹は裏口から店を出て急いでランバー・ジャックへ向かった。
街は既にたくさんの電飾に彩られて、ログハウス調にデザインされたその店の前に到着すると、小さな窓辺にミユが頬杖を突いている姿が見えた。幸樹は呼ぶように窓を叩いて、微笑んで見せ、そのまま左端のドアから店に入り、まっすぐにミユの座るテーブルへ息を切らしながら近づいた。
「すみません、遅くなりました」
「いいのよ、仕事だもの。お疲れさまでした。それにしても幸樹くんはすごく様になってた。・・・本当に見違えたわ」
「照れます」
「何か食べる? 勿論、まだでしょう?」
「えぇ、でも別のところへ行きませんか?」
幸樹とミユはタクシーで青山から四ツ谷へ出た。車中でもふたりの会話はあまりなく、お互いに会話を乞うような雰囲気もしていたが、幸樹にしてみれば傍らにミユが居ることの充足感の方がとても大きかった。
東京と言う街の一年は風景が絶えず変化を続けていて、そこに生きる人間でも何かを見落としてしまいがちになる。その時、お互いが一年という月日をどんなふうに送って来たのか訊ね合うことは出来なかった。それは、ミユがわざわざ自分を尋ねてくる理由がどこにもないというところから始まっていたのだが、本当のところはその理由を知りたくて仕方のない自分を考えていた。
夜の八時を過ぎた頃に少しだけ坂を下ったところにあるイタリアンレストランに落ち着いた。店は比較的空いていて、少し大きめのテーブルに通された。モレッティで乾杯した後、小振りなパスタとピッツァを注文し、幸樹とミユは向かい合って微笑んだ。
「こういうお店って初めてです。なんか高そう・・・」
小声で言う幸樹にミユは首を振った。
「大丈夫よ、学生さんにご馳走してくれなんて言わないから。あ、合格おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます。いえ、今はこれでも結構なくらい稼いでますよ。そう、今夜は僕が奢ります」
ミユは少しだけ笑ったが、辺りを気にするように他所を向いた。
「椿、忙しいですか?」
幸樹はつい、訊いてはいけない言葉を滑らせたような気持ちがして、誤魔化すようにビールを口に運んだ。そして、視線を戻すと少しだけミユの様相が違うように思えた。落としてある照明の明かりのせいではない、幸樹は目を瞬いて少しだけ待ってみた。
「店はもう閉められたわ。私は去年、結婚したのよ・・・」
その言葉を聞いた時、幸樹は愕然とした。そして凍り付いてしまったように動けない自分に気付くまでに長い時間があった。
調理場の方で食器の重なる音が耳に入ってきた。幸樹は空耳ではなかったのかと疑いたくなったのだが、確かにミユの言葉を受け止めていた。
「あ、そうだったんですか。それは聞いていなかった。濠村さんは何にも・・・、えと・・・おめでとうござい・・・ますって、ミユさんもおめでとうですね」
幸樹はそんなことを言いながら動揺を隠すことが出来ずにいたのではないかと思った。作り笑いをしながら顔を合わせようとすると遠い目をして外の景色を眺めるミユがいた。幸樹は無視された、そんな気もした。
しばらくして、注文したワインがテーブルに届くと、その話の続きはない、という感じで、別の会話が始められた。
「イタリアのワインって、他のどの国の物よりも私は好きなの」
「僕はワインのことなんてさっぱり・・・」
「飲んでみて、一昨年のものみたいだけど・・・」
そんな会話の中で、時々、寂しそうな目をしたミユの態度が変だということは明らかであった。しかし、それが何なのか訊ねることも儘ならない空気も続いていた。
そして、幸樹にとってもそれは辛いことであった。喋りすぎることで言葉の刃物で傷けてしまうようにも思えたからだ。
傷・・・。
傷を背負った人間は特有の空気を持っている。幸樹はその時にそれを感じた。
そして、自分は既にこの女に溺れているのだということも確信した。
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