― 発 条 ―

友納 勲

 遠くで柱時計の鳴る音が聞こえている。

 すっきりと浮かび上がることはない。

 私はまどろみの中を横になり、記憶と夢想の間を彷徨っている。

 もうずっとこんな状態のまま、桁外れの時間が過ぎていった気もする。

 ボーン、ボーン、ボーン・・・・一定のテンポで響き渡る音。

 ふと、何時であるのか確かめたくなり、意識の境でぼんやりと数えてみた。

 九、十、十一、十二、十三、十四・・・?

 それは十二回で鳴り止むことなく・・・。

 私はそれを疑問に思いながら神経を集中させ、もしかすると途中で数え間違ったのかも知れないと考えなおす。

 そして、ゆっくりと瞼を開く。

 何もない・・・。

 確かに眼は開いているはずなのに、少しの光も見つけることが出来ない。

 それでも尚、音は続いている。

 無限の闇の拡がりに閉ざされながら、空しく、それでも何かを必死で探さなくてはならない焦りのようなものが付き纏う。

 その黒は単なる暗闇であるのか、それとも虚無なのか・・・。

 やがて、力が尽きてしまったようにゆっくりと音は止まる。

 最後には、くぐもったような長い残響が落ちてゆく。

 私は顔をあげ闇の中で辺りを見回してもみたが、全てを埋め尽くした視界に燈はない。

 さっきまで聞こえていたのは時計の鳴る音ではなかったのか?

 頭の奥で、そんな思いに駆られる。

 そういえば、私の家には柱時計などなかったはずだ。

 今、自分は確かに横たわり、眼を見開いているのだが、いったい何処に放り投げられたのだろうか、そんな疑問を否応なしに押し付けられた。

 暗闇に不安を覚えた全身がふいに反応して総毛立つ。

 突然に起こった発作のように、激しい動悸がして、奥歯を噛みしめるような痛みがこみあげてくる。

 もう二度と抜け出す事が不可能であるような闇の穴。

 恐怖に焦れば焦るほど苦しみの縺れた糸が絡まるように息さえも苦しくなる。

 震えだす乾いた口唇、喉元まで飛び出すのではないかと思われる心臓。

 慌てふためきながら記憶を辿り、その理由を探し覗きみるのだが、影もなければ輪郭もない。

 光を失う、というのはそういうことなのだ、と半ば諦める自分が闇の中で見えた気がした。

 再び目を閉じると、どこからともなくヒューヒューと抜けるような風の音が届いてくる。

 闇夜の中で遠く吹雪いているような、しかし、誰かの呻き声にも似ていて、そう思うと不気味さが倍になって心を疼かせた。

 身体中に寒気が走り出し、急激に体温が低下していったような、それを感じる事さえ面倒になるほどの速さで意識が奪われてゆくのが判る。

 不可解な眩暈に似た睡魔が渦を巻き、身体中の血液が凍ってしまうのではないかと神経を蘇らせてみようとするが、状況を呑みこめないまま、やがて呼吸そのものがより細くなっていくのを感じる。

 そんな死に至るような感覚の中で、ふと鼻を擽る臭いに気が付いた。

 それは何処から流れて来るか見当もつかないが、油と錆の入り混じったような刺激臭として入り込んでくる。

 それによって記憶のかけらが繋ぎ合わさるような気もするのだが、記憶を並べ替えようとすると悪感はますます増幅し、煤のような気怠さだけが脳の襞に貼りついてしまう。

 きっと夢を見ているのだ、そう思うしかない。

 闇はじりじりと私の肢体を捩らせ始めた。

 その痛みは麻痺しているのか、少しだけ感じられたり、遠のいたりを繰り返す。

 そして、涙さえ凍りついてしまうほどの冷たさの中に置き去りにされた切なさも現われてくる。

 頬を伝う液体、それはもしかすると無意識のうちに流れ出している汗なのかも知れない。

 私は自分の体から湧き出る分泌物から虫が湧いて、そこを這っているような触感を覚える。

 時間が経つに連れ、皮膚を破り、内臓を貪られるような感覚を黙って受け入れる。

 ひとり、寂しくて辛い、如何してそんな気持ちになるのか思い出せない。

 やはり私は泣いているのだ。

 溢れた涙は瞬く間に凍りつきポロポロと地面へと落ちていく。

 そして、そこに起こった音群が憶えのあるコードを奏で、少しだけ懐かしさに合わさるような感情を浮かばせる。

 あなたが愛したあの叙情的な旋律。

 それを思い出した瞬間、凍った闇の中で捩られていた何かが弾け跳びパチンという音を発した。

 それは終わりであり、始まりでもあるような・・・。

 私はもしかすると、微かに笑ったかも知れない。

 そして、やっとここへと辿り着いた、そんな安息が沁み込んで拡がっていくのをゆっくりと感じた。

 第一章     夢見昼顔 

 盛夏、明け方から妙な暑さが纏わりいて、意識が朦朧としているような気分だった。幸樹は淀んだ空気の中で、まず自分の生死を疑った。生きているとしたら、死んでいるとしたら、その答えを出すことだけに集中すると、今の自分は幻を見ている訳ではないと判断出来た。

 しかし、何かの拍子で細胞が壊れ、過去に外傷を負ったことによって部分的な記憶を消失してしまったのなら、今の状況を正確に捉えることは不可能になるのではないか。幸樹は次なる質問を投げた。自分は正常である、という思い込みを信じながら生きてゆけば、あの日に見たのは現実だったのだと疑う余地はなくなる。

 ------自分は何処を彷徨っているのだろうか?

 そして、首を横に振った。何度も陥った症状である。それが単なる夢と言えるものであれば、自分はどれだけの安堵感を覚えるだろう。それは紛れもなく悪夢なのである。闇に囲まれたその時、言葉には出来ないほどの痛覚を孤独に噛締めるしかない。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながらそのまま項垂れた幸樹は茫然とした。

 疲れた・・・。もう相当に疲れていた。巻き上げられた心は捩じれるばかりで、いつになれば、この呪縛から解き放たれるのか、考えるだけでも疲労に襲われている自分が情けなかった。

 幸樹の勤めている印刷工場は、今日から三日間の盆休みに入った。納期を迫られていた仕事にも目処が立ち、少し遅めの帰宅にはなったが、部屋で待つ誰かがいるわけでもない。ひとりで過ごせば雑念は忍び寄ってくるのだから、残業も悪くはないと思いながら部屋の壁に凭れ酒を呑む。後は何もせずに過ごし、同じ夢を見ないようにと静かに願いながら床に就くというのが日常となっているようにも感じられた。

 不摂生な生活も含めて、気持ちのなさに関しては、今に始まった事ではない。朝八時に出勤し、エアコンさえ効かなくなるほどのスペースの中、大型の印刷機械と汗だくで格闘するという毎日。幸樹は資格も特殊技能も経験も持ち合わせてはいないために、印刷途中のトラブルの対処の仕方さえ心得てはいない。面倒なことは奥の作業場にいる社長を呼べば良いことだ、と考えている。沿線からも程遠い従業員数が五名にも満たない小さな会社、この仕事を始めて四ヶ月が過ぎた。

 芳野幸樹、四十六歳。

 適応した職も少なく、たまたま駅で配られていたフリーペーパーを見開くと、年齢も経験も不問という求人募集を目にした。仕事など何でも良かった。ただし、スーツを着用した営業のような多くの人間と係わる仕事は出来そうになかった。

 その日、幸樹は私服のまま面接へ赴き、あまり自分をアピールすることは出来なかったが即採用された。そして、研修中と称したアルバイト、あまり高くはない時間給で支払われる給料は大した金額にはならなかったが、きちんと働いていれば、生活には困らない程度の手取りとなった。

 真面目で辛抱強い、それが社長夫婦の印象らしい。メンテナンスに訪れたメーカーの技師がそんなことを幸樹に教えてくれた。そのうち正社員として採用されるかも知れないが、この小さな有限会社に利益があるのかないのか、いつ倒産しても可笑しくはない。

 心の何処か、鼻で笑うような自分がいた。何れにせよ、幸樹にとっては一日が過ぎてしまえば、そんなことは如何でも良かった。

 ずっと点けっ放しだったテレビのモニターでは芸能人のスキャンダルを追うようなインタビューが映し出されていた。今はその声も虫の翅音のように耳から入り、幸樹の頭の中に届く頃には内容を把握することは出来なかった。

 夢に足を引っ張られたことは、ひどい気怠るさを澱ませて、集中力を低下させる。その生温い部屋の空気の中に漂うのは二酸化炭素だけではないか、と感じられた。

 如何して抜け出せないのか解からない。時間は心を癒してはくれない。日常生活を張りつめて送っているわけでもない。何もしない時間に入ると、時々そんなひどい疲労を連れて戻って来る。それは住む環境にも関係しているのではないかと考えると、それも否定出来ないような気はした。

 築四十年以上は経過していると思われる木造アパートの一階、それが今の幸樹の住処である。ここに住み始めて数年の月日が経ったが、毎月、家賃とは別に徴収される管理費が存在しながら、整備される箇所はほとんどない。バス・トイレ付きと謳われているものの、タイルが敷き詰められたあらゆる部分で腐食が進み、水周りは最悪、部屋全体の間取りは古臭く、隣の敷地いっぱいに建てられたマンションによって、昼間でも室内灯がなければ本を読むことさえ不可能なほどに陽当たりが悪いところである。そんな空間に万年床を造りだしているとなれば、凡そ黴臭さが充満して、健康な暮らしだと言えるはずもない。

 太陽の熱で焼けたのか朱色になってしまった時代背景が見せる赤い瓦、外壁は何度か塗りなおされたと思われる痕跡があるが、雑に補修された部分は、染みが浮き出て罅割れてもいた。鉄骨製の階段はペンキが剥げ落ちて錆が進み、二階の住人が普通に上り下りしても建物全体がミシミシ揺れてしまう。 特に上階からの騒音はひどく、何もかもが筒抜けである。

 幸樹がここに住み始めて、人の入れ替わりは三度あった。気が付いた事は、そこで暮らす人間によって全く異なる音を出すということだった。それは生活を覗き見るような妙な気分でもある。六畳の和室とキッチンという幸樹の住む部屋と全く同じ作りの上階で今、その他人が何をしているのか目に見えるように分かってしまうのである。歩く音、風呂での鼻歌、トイレを使う音など、全ての生活音がそのまま下りて来る。

  一度だけ若い女がひとり、幸樹の住む部屋の上階に引っ越して来たことがあった。女が学生だったか社会人であったのか知る由もないが、今時にしては珍しく、タオルを持って挨拶をしにやってきたのである。その時の愛想とは裏腹に、建物伝いで耳に届く音、その後の生活ぶりが確かに顕われていると感じると、それはやはり外面と内面の違いに他ならないのか、という気もした。

 女が在宅している時は、ビートの効いた音楽が鳴り響いた。電話は内容まで判らないが、何に興奮するのか盛り上がりを高め大きな笑い声が深夜にも及んだ。ある晩は男を連れ込んだのか、粘りつくような喘ぎ声も聞こえてくることさえあった。

 それでも幸樹自身は、その女に対して何の興味も湧かなかったし、それはそれで気にしないでいることも出来たのだが、ここに住むのは幸樹だけではない。そんな素行は隣人からの苦情となり、大家にもいろいろと注意をされたようで、ふた月もしないうちに部屋を離れていった。

 いろんな出来事に、アパートと言うものは決してプライベートな場所ではない、と幸樹自身が再認識する機会にもなったが、あの女は何処へ住んだとしても、本人が理解しなければ同じ問題となって返ってくることだろうと想像できた。

 六世帯が入居可能なところに、今ははっきりとは分からないが、たぶん一階には幸樹だけが、二階に二世帯が離れた形で生活していると思う。他は空き家のまま空気と埃だけが澱んでいるのだと想像がつく。烈しい老朽化もそうだが、同じ家賃でも他を探せばもっと良いところはあるだろうと感じさせる貧相なアパートは、時代にも敬遠されているのかも知れない。

 元々は開拓されていない畑の真ん中に、随分と早くから建てられたものだろうと想像していた。そんな未開発だった町に、延長された地下鉄の路線の乗り入れが決まり、土地は一気に高騰、次々にマンションなどが建設された土地らしい。確かにこの周辺の建物を見渡すと、まだ旧くはないと感じられる物件が軒を連ねてもいる。

 「今度、このアパートを取り壊して新しくマンションを建てる事になったので立ち退いて欲しい」

 明日になって、そんなことを地主に言われても可笑しなことではない。ここは幸樹が生きてきた年月と同じくらいに退色している。

 しかし、何故だか分からないが、この部屋が妙に落ち着いていられる気もするのは不思議なことと言えた。反対にここを出て行くのが面倒だからではないか、と考えるのが本当のところなのではないかと感じてもいたが・・・。

 幸樹がここへ移り住んですぐのこと。転居があれば住民異動届の手続きをすみやかに行わなければならない、そんな国の法律なんて、という煩わしさはあったのだが、何か新しいことを始める時には、最初が肝心だと自分の背中を押すことも心掛けてきた。だからと言ってそれが何かに結びつくか如何かは別問題でもあったが、要はあとで面倒になるのが嫌なだけであると推測している。

 役所へ行くと、建物の屋上から<住み良い未来へ>と描かれたセンスのないデザインの垂れ幕がぶら下がっているのを目にした。しかし、それらを眺めていても、これからこの町で生きてゆく新たな期待も、何気ない不安も、胸を躍らせるような喜びさえも幸樹の中には湧いてこなかった。

 駅前には大型のスーパーマーケット、テラスを設けた洒落たレストラン、他には賑やかな電飾の居酒屋のチェーン店などが並んでいた。それでも、駅を少し外れてしまえば、今でも生かされた田畑が少なからず点在している町。役所はそんな中心部から見れば随分と離れた場所にあり、これは時代が継ぎ接ぎを重ねてきた足跡だと、何となく窺えたりもする。

 窓口で必要な登録を終えた幸樹は、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。大きな窓からの陽光は、ロビーの内部へ充分に差し込んでいて、そんな窓辺の片隅に掲示板として多くの貼紙があるのを目にし、周りに誰もいなかったという理由もあったのかも知れないが、足を止めてそれとなく上から順番に眺めた。

  「生後三週間の茶トラ猫を差し上げます―― オス、トイレしつけ済み。可愛がってくださる方、よろしくお願いいたします」

 幸樹は幼い頃、自分が猫を好きであったことを思い出していた。首輪を付けていても動物は家の中で飼うものではない、という父は、もともと猫が好きではなかったのだと思われるが、寒い夜に閉められた窓辺でウロウロする猫のアトムを可哀そうに思った幸樹は、甘い声で鳴かれることにいつも戸惑いを覚えていた。部屋の中へ入れて、それが父に見つかってしまえば、ひどく怒られるに決まっている。それでも幸樹は、アトムと一緒に布団の中で朝まで眠ったものだった。

 そんなアトムがいなくなってどのくらい経ったか、幸樹が神戸の実家を出てからの数十年間は、猫に限らず動物を飼ったことなど一度もない。

 里親募集のその貼紙を見て、幸樹は自分の余生を猫と共に送ることが出来れば良いなと、年寄り染みた考えを起こした。何故そう思ったのか理由は浮かばないのだが、その時には早速、返信用紙に必要事項を書き込んで応募箱へと放り込んでいた。

 はっきり覚えていたわけではないが、誓約書を見ればアパートでペットを飼うことは禁止されていたはずである。しかし、幸樹は心の何処かで大家に見つからなければ良いのだ、という考えを持っていたのは正直なところであった。

 その後にやってきた子猫は、目が開いたばかりでとても小さく、幸樹の心を和ませた。当初、ただ単に毛が茶色いと言うことでチャチャと呼んでいたが、、ある日、幸樹の酒のつまみであった“かっぱえびせん”を口にした時からエビセンと改名した。それがいつ頃からだったのか覚えてはいない。

 エビセンは外猫であり家猫であった。部屋には、たとえ泥棒が入ったとしても持って行く高価なものはない。エビセンの出入りのために、窓は開放した状態にしておいた。しかし、冬場は、さすがに寒く、通り抜けが出来るくらいに小さくする。エビセンが部屋にいる時には閉め、外へ出て行きたい時にはちゃんと合図をするのだぞ、というそんな勝手な約束を猫に向かって語りかけたり、束の間、その頃の幸樹は穏やかな気持ちに包まれた。エビセンは賢い猫のように幸樹を見上げニャーと鳴いた。

 幸樹は休みの日に出掛けることがほとんどなかった。ましてや、この部屋に誰かを招くことも大音量で音楽を鳴らすなどということもしなかった。ただ、部屋の中でぼんやりと過ごしている事が多かった。

 山盛りになってしまった煙草の吸殻を、ある意味で芸術ではないだろうかと感心しながら眺めていたり、その傍らで、飲んで空になったビールの缶を意味もなく回してみたり、潰してみたり・・・。

 それは他人が見れば、志を失くした人間のドキュメンタリーを映し出しているシーンを思い起こさせたかも知れない。

 酒と煙草の日々------The Days Of Wine And Roses

 薔薇など何処にもない・・・。

 幸樹の中で、曲の旋律だけが浮遊し、ずいぶんと遠くまで来過ぎてしまったのではないかと、弱ってしまった心だけが擦られていた。

 そんな生活環境の中で、内臓の何処かに異常を来たしても不思議ではないはずだが、これと言って病魔に犯されてしまった様子もなかった。そう感じると自分がしぶとい害虫のようにも思えてきて、時々、思い出したように苦笑してしまったりすることもある。 

 今日もエビセンの姿は何処にもなかったが、点いているテレビの映像の端に記された時刻を見ると、既に午後二時を回っていた。玄関のドアからは情けないほどの風が流れ、汗ばんだ手で取り出した煙草が、残り数本であることに気付いた。

 足許に猫缶が落ちているのを目にして、自分は朝から何も口にしていなかったと幸樹は思った。しかし、昼食を摂ると言う時刻にしては半端な間であるかも知れない。そんなことを考えながら、ここから歩いて数分のコンビニエンス・ストアまでちょっと出掛けてみよう、と珍しくそう思った自分を少しだけ新鮮に感じた。

  草臥れたTシャツ、数箇所に亘って破れたブルー・ジーンズのポケットに財布を差し込み、踏み潰したスニーカーを突っかけて幸樹は部屋を出た。

 アパートの前の狭い路地を歩いていくと、小さな川の前に出る。緩やかなスロープから歩道専用の橋を渡る場所に立つと草いきれと向こうから吹いてくるわずかな風があった。

 橋を渡りきると、私道をひとつ挟んで木々の生い茂った神社がある。その匂いからだろうか、埃と共に水気を含んだ空気の中を彷徨うような別世界が内側へ誘おうとしている、幸樹はそんな気がして立ち止まった。やはり、少しだけそれを拒む感情が走ったので、わざとそちらへは足を向けずに、斜め右の畦道から再び住宅街へと入ってみた。

 ほんの数分間歩いたというだけなのに、太陽は肌を刺し、背中や胸に無数の汗を貼り付ける暑さが押し寄せた。意識を溶かすような気がして、眼から見える景色は輪郭だけが残っている感じがしたが、何となくそれだけを頼りに歩き続けてた。

  大通りへ出てコンビニの正面入り口の透き通った店内を覗くと、数人の客と店員が目に入った。店のガラスのロゴの周りには、虫の死骸のようなものが白くなって無数に貼り付いていた。何故に死んでしまったのかは分からないが、幸樹の気持ちの中で少しだけ痒みが生じた後、声には出さずに「生あるものはいつか死ぬ」と呟いた。

 冷房の効いた店内は寒いくらいに冷えていた。ここに勤めている人間はきっと暑がりなのだろう、幸樹はそんなことを思いながら幾度となく同じ場所を廻って、やがて汗が退いたのを自覚する。そして、何を食べれば良いのかと考えた時、気持ちの中で段々とそれも億劫になっていった。

 その後は、レジの反対側に置かれた雑誌や漫画を立ち読みするともなく開いて食欲を欠いてしまう。結局はセブンスターと六個入りの缶ビールだけを買いその場を離れ、幸樹は、またかという気持ちでいる自分をぼんやりと感じとった。そんなぐずぐずした性格を幸樹自身はよく解かっていたし、諦めが早い事も知っていた。そして、ある意味では、それを自認さえしていた。

 店を出てすぐさま、幸樹は買ったばかりの煙草を抜いた。一般的にコンビニの出入り口の傍らに灰皿が設置された場所というものがあるが、それは喫煙所ではなく路上で歩き煙草をして来たお客様はここで消してください、という意味だと考えられる。しかし、そこに灰皿があるのを見て、煙草を吸いたいという気持ちが湧いてしまった。幸樹は目を細め、出入り口での客人の妨げにならないように端に寄って火を点けた。

 日盛りの暑さは幸樹の皮膚を刺し生気を吸い取っているようにも思えた。それでも、滲み出てくる汗を待つように、煙草が短くなるまでその場にじっと佇んでいた。その日も大きな夏の入道雲は、夕立を背負うように、幸樹の前にゆっくりと聳え立っていたのである。

 幹線道路のように、さほど車の量は多くはないが、目の前に往復四車線の道路が設けられている。時々大きなトラックが往き来するが、今は右にも左にも見える車はなかった。

  百メートルほど先のアスファルトに目をやると、揺れ動く夏の陽炎のような光の屈折があることに気がついた。人間の耳に届く周波数が限界を超えてしまったような静けさがして、ほんの一瞬だけ風に吹かれたような錯覚もあった。

 幻と呼ぶに相応しい色を醸し出した風のようだった。何故そんなふうに思ったのか・・・。

 ひとりの女がこちら側を伺うように立ち竦んでいる。

 しばらく凝視していると、何故かその存在を確認したいという思いに駆られた。しかし、近くまで行ってみれば、きっと消えてなくなるような予感もしていた。

 それはまるで逃げ水のように・・・。

  「ミ・・ユ・・・」

  幸樹の時間がそこで止まった。銜えていた煙草の煙だけが澱み揺れ動いていた。いつの間にか、太陽の熱にでも侵されてしまったように呆然としていたかも知れない。そして、もう一度だけ目を凝らして息を呑んだ。

  女はセロファンに包まれたたくさんの向日葵を胸に抱えて、こちらを見て微笑していた。ずいぶんと離れたところにいるはずなのに、愛想を続けたままこちらへ向けて手を振ってみせたのが判るようだった。

  幸樹は吸い寄せられるようにゆっくりそちらの方向へと歩いていた。それは近づけば近づくほど、幸樹にとって懐かしさの想いでいっぱいになった。

 だんだんと足が速くなって、道路を斜めに渡って女の前にたどり着く。荒くなってしまった呼吸を整えるように大きく息を吸い込むと、遠い記憶も体の中に溜め込まれたように膨れ上がり、声を出して泣きたくなった。

 消えることはなかった。

  「幸樹・・・」

 女の唇から言葉が発せられ、周りの空気が揺れると、それに押されるように倒れてしまうのではないかというほど眩暈を感じた。

 何十年ぶりに聞くその声。それは幸樹にとって恐怖でもあった。

 無言のままの幸樹は、眼を瞬かせた。そして、返す言葉が出てこない。

 背後から突然、ふたりの女子高生が幸樹の肩とぶつかり、驚いた様子も見せず向こう側へ去っていった。子供の安っぽいコロンの香りが鼻を掠めた。幸樹はそこで現実に引き戻されたような気になった。

 またつまらぬ夢の続きを見ているのかも知れない、そんなことを考えた。

 これまでにも白昼夢のようなものをいくつか見たことはあった。その度に、痣にも似た模様を心に残してしまうほど身体のあらゆるところに鈍い痛みを覚えていたが、ミユは幸樹の目の前にいた。それは自分のよく知っているミユであった。

 記憶は眠らずに、今、幸樹の心を叩いているのは、幻覚にも似た自覚?

 少しだけ埃っぽいような背の高い夏草が道の向こうの空き地に揺れている。暑さで蒸発していくような風がミユの髪を撫で、しかし、それは透明でもあった。

  「元気そう・・・だ・・ね」

 やっとのことでそう言った自分の声が、少しだけ上擦っているのが分かったが、ミユは幸樹の方を向いたまま大きな眼を瞬かせてなおも笑っていた。

  失くしたもの・・・。

 それは思わぬところから目の前に現われる。

 忘れたわけではない・・・。それは季節に限らず、時間も何もなく、何処へ居ても愛し続け、心の中に棲む続けていたもの。

  「驚いた?」

 その言葉を聞いた時に、幸樹は嗚咽が込み上げて来るのを必死で堪えた。喉をヒクヒクと震わせながら、それに答えようとする。

  「本当・・・ミユ?」

 それはきちんと言葉にはならなかった。

  「はい」

 返事があった。

 やはり、自分はひどく疲れているのではないかと思った。楽しみにしていた新刊の推理小説をまだ一頁も読んでいないのに眠りの中に引き摺り込まれるような気怠さがした。

 再び息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。それでも微笑を続けるミユを見ていると、夢ではないような・・・。

  「私は、幸樹に逢いに来たのよ。信じないかも知れないけど、今は・・・、今は時間旅行をしている。その途中・・・」

  ミユはあっさりとそう言った後、幸樹から視線を外し少しだけ俯いた。まるでシンデレラの魔法、時間が来れば同時に解けて無くなってしまうような寂しい仕草にも思えた。

  「・・・意味がわからない、僕はやっぱり夢を・・・」

  間違いなくミユは幽霊、幸樹は心の中でそんなことを思いながら、首を振った。

 ミユは・・・

 ミユは、もうずっと前に死んでしまったはず・・・そう、あの時・・・

 そう呟きかけて、幸樹は慌てて唇を噛んだ。そんなことを口にすれば、夢も覚めて全てが、ミユが、消えてしまうかも知れないという不安が過ぎったからだ。

 それでも、微笑を続けるミユは、幸樹の目の前に存在し続けた。

 この世にはまだまだ科学では証明出来ない不思議な現象が多数にある。これもそのひとつだと信じてしまえば、それで済むことではあったが、夢でもいい・・・、ミユが消えてしまわないで欲しいと懇願しているのは幸樹自身であった。しかし、仮にミユの言う通り、何らかの時間旅行が可能だとしたら、曖昧でありながらも、それを受け入れる事は自分で不可能ではないと思った。

 確かに、幸樹が四十六歳という年齢に対し、ミユはあの頃のままの若さがある。その時間の悪戯というものは、幸樹に何かしらの旅を命ぜられたような気分にもさせた。

 もう遠い昔の話、幸樹が「秋元美優」と出逢い、互いに惹かれ愛し合い、そして一緒に生きたあの時間は、あまりにも美しすぎて、そして哀しすぎた。

 第二章      想 紅

 1.

 芳野幸樹、十八歳。

 幸樹は神戸で生まれ、小中高と地元の学校を卒業した後に、大阪にあった私立大学を受験するも現役で合格することは出来なかった。

 実家では父親とふたり暮らし。定年には程遠い、大手の食品メーカーの営業課長であった父に九州への転勤の辞令が下りたのも同じ年度末のことである。

 単身赴任をすることに決めたという父に対して、自分は上京して都内の予備校に通いながら次年の試験を目指そうと考えている気持ちを伝えた。何故そんなことを口にしたのか、はっきりした理由は思い浮かばないが、心の何処かで父がそれを許すはずはないと決めつけていたところも確かにあったような気はしている。

 この先、神戸に残っていたとしても、一人で暮らすことには変わりないのだが、受験に向けて緊張を失くしてしまうかも知れないという不安は正直なところ拭いきれなかった。新しい環境に身を置くことは自分のプラスになる、そんな尤もらしいことを切々と述べると、拍子抜けするほどに諾唯され、長くなるだろうと思われていた話はすぐに終わってしまった。

 父は幸樹のひとり立ちを認めたのか、それとも自分の都合だったのかは判らない。営業と言う仕事柄、これまでも出張が少なかったとは言えないが、当時の幸樹の身の回りのことは近くに住む父の妹、つまり幸樹の叔母が世話をしてくれることが多くなっていた。確かに、この先もそれに甘んじて生活するのは如何かと父自身が感じていたのかも知れない。

  高校の在学中に進路相談というものが行なわれた時も、保護者として同席してくれたのは叔母であった。担任教師はどんなところへ進みたいのかと幸樹に訊いてきた。正直なところ将来の展望など考えたこともなかったが、あまり意見されたくなかったこともあり、適当な返事で誤魔化してその場を切り抜け、叔母は当たり障りない話だけを父に伝えてくれたようで、その後に進路についてとやかく云われた記憶もない。

 何れにしても、理数系があまり得意ではなかったので、文系でしかも、それなりの名前のある大学に進学出来れば格好は付く、という安易な気持ちで受験に臨んでいたのは正直なところであった。当然の結果、その年の不合格は目に見えていたものだと言えた。勿論、模擬試験の偏差値から判断しても合格ラインに届くことはない成績であったのだが・・・。

 親と子が離れて暮らすことが決まったその日、父の持ち家だと思っていたこの建物が、実は借家であったことを初めて知ることとなった。それならこの家を守る者がいなくても何の問題もないのだと思ったのだが、ここで生まれ、ここで育った幸樹にとって、勿論、父にとっても、それは故郷を失くすということであった。

 幸樹はこの家の庭が好きだった。その頃に新築した周辺の建物に比べれば、家は恥ずかしいほどに古めかしかったが、それに対して庭の広さは充分にあった。その真ん中では、いつから存在していただろうか、大きくはない白樫の木があり、縁側の籐の椅子に腰掛け木漏れ日の中で浴びる光と風は格別なものだと感じていた。

 夏にはたくさんの蝉が鳴き、秋には風で木の葉が擦れ、どんぐりがあちらこちらに落ちた。幼い頃には木登りもした記憶もあれば、枯葉をかき集めて焚き火も愉しみのひとつであった。

 几帳面だった父は、そんな庭の手入れを好んでやっていた。木の向こう側の壁沿いにはたくさんの花を植え、休みの日には惚けるほど一日中それらを眺め、花の実が付く頃には手にとってそれらの香りを楽しむ光景を遠くから目にした。それは普段の厳かな父の顔ではなく、優しい表情を浮かべる他人のようにも思えた。

 そして、父は幸樹よりも一足先に九州へ引っ越していった。幸樹も一週間後にはここを出て行かなければならなかった。自分の部屋の整理していた手を休め、もうすっかり荷が無くなってしまった階下へ行き、ぼんやりとそれらを見渡しながら鼻で空気を吸いこんだ。他所の家にいけばそれなりの匂いがあるのだが、自分の住んでいた家の匂いと言うものがどんな空気であるのかを探そうとした。しかし、形容できる言葉もなければ、そういった匂いそのものも存在しないように思えた。

 ふと気付くと、テレビの置いてあった部屋の柱に、鉛筆で背丈を記した線の跡を見つけた。そこには隣町に住む従兄弟の稔兄ちゃんや幼なじみの陽子ちゃんの印もあったが、幸樹、十歳と書かれた文字に目が釘付けになった。その場所は、いつか買い足した書棚の後ろに位置していて、長年に渡り隠れていたようである。よく見るとその十歳が最後に記されたもので、当時の自分の背丈からしてみればそれはあまりにも小さく、時の流れを大いに感じさせた。

 幸樹はそこに書かれた文字にそっと触れて目を閉じた。

 ため息が出た。

 そして、何もなかったように自分の部屋へ戻り再び荷造りを始めた。

 

 幸樹が東京へ出てから最初に住んだところは、桜上水の小さな下宿だった。下宿と言っても傍に世話人がいるわけではなく、共同便所、共同の洗い場、風呂はなく、下駄箱の脇の小さなテーブルにピンクの電話が一台だけ設置されているようなところであった。

 大学を目指す受験生が、安い家賃で生活が出来るようにと提供された共同アパートである。薄い壁一枚に隔てられた四つの部屋、必要以上に音楽を聴いたり、騒いだりする者などひとりもいないという、同士の暗黙のマナーが存在していた。そんな緊張感は勉学に必要な集中力が増して来る利点もあったようだが、幸樹はその下宿を「巣」だと考えていた。

 廊下を挟んだ向かいの部屋には、医学部を目指す二浪目の「濠村隆夫」という男が住んでいた。濠村の話によれば、一年目の浪人生活は散々なものであったらしい。都内の自宅から予備校へ通う毎日を送ってはいたが、勉強を始めたものの雑念が払えず、ある日、急に勉強を放棄したくなったのだと言う。それは、高校時代には寝るのも惜しまずに受験に備えて絶対的な自信があった結果が、如何して実らなかったのかという事実から抜け出すことが出来なかったのだと教えてくれた。そして、妥協に終わった年が過ぎ、開業医である親から離れ、再び新たな気持ちで二年目の浪人生活を迎えるのに、この貧相な下宿を選んだという、そんな風変わりな男であった。

 幸樹が高校に通っていた頃は、勉強そのものを親や教師にさせられていたという意識がずっとあった。本来ならば、ただ単に進学と言う理由だけではなく、そこに将来に向けて何かを志すという考えが必要であるはずだが、正直を言えば、当時の気持ちの中にはそんなものなど微塵もない。

 しかし、入学後に分かったことであるが、大半の人間は志など何もなく、ただ漠然と何らかの扉を与えられるという意味で大学へ入る者も多いと知った。それは全く自分と同じではないか、と思った。ある意味、少し安心もしたのだが、この無責任さは後に自身の後悔の中に入るのではないかと感じたりしている。

 幸樹は「不屈」と書いた紙を机の前に貼り、入試までの綿密なスケジュールを組んでいた。それは計画にしてみれば完璧だったように思うが、濠村の言った雑念が幸樹に襲いかかって来るのも時間の問題であった。

 それは、ひとつ間違えば自発的に勉学に勤しむという当り前の事が出来ない人間になってしまうという濠村の話もあり、遅れた分を取り戻すのは至難の業となる不安をいつも抱えていた。急がなければ取り残される、それは恥である、周りとは対等で、いや、出来るならばそこから抜き出て先の余裕が欲しい、と考えていたことこそ真に自滅そのもので、それは自分の弱さでしかないのだと気付いていく。再びの嫌悪に苛まれることになり、悪循環は泥の上で足踏みをするようで、汚れた自分に幻滅するような気持ちも幸樹の中には生まれていた。

 そんな気持ちの垢を落とすということではないが、幸樹は一日置きに銭湯へ行くことに決めていた。当り前のように実家で風呂に入っていた幸樹には、それに慣れるまでは妙な気持ちもあったが、他人と同じ湯船に入ることの抵抗があったわけでもなく、裸になるのが恥ずかしいということもなかった。客層ではやはり老人が目立っていたが、苦学生や受験生の顔を見ることも少なくはなかった。

 そんなある晩の事、身体を洗っていた幸樹の隣に座る男がいた。名前は忘れたが、同じ予備校に通う、確かに見たことのある男だった。彼もまた幸樹に気付いたらしく、「やあ」と、まるで同窓会のクラスメイトに町で逢ったような屈託ない声を掛けてきた。

 「最近どう?」

 「え?ん、まあ・・・」

 幸樹の曖昧な返事に彼は薄く笑いながら勢いよく喋り始めた。

 「まあ・・・か。確かに予備校の大きな教室で授業を受けていたら、講師だけが先を進んでる感じがしないわけじゃないけど、あそこってそんなにレベルが高いところじゃないと思うよ」

 彼の言う事に異論はないのだが、その口調が幸樹の気分を悪くさせた。だからと言って、それを無視出来るほど嫌な人間にはなれないと幸樹は自覚した。

 「そうだね、そんな気もするけど」

 「でも苦しみは受験ばかりじゃなくて、その後の人生の中にももっと過酷なことは待ち受けていると思うんだ。それは、誰が語っても、結局はその場面が巡ってきた時にしか実感が湧かないと思う」

 その言葉はもっとも重い物を幸樹に背負わせた。今考えても、あの時の彼の言ったことは正論であると思う。

 「今頑張らなきゃいけないのは分かっているけれど、なかなか思うようには進まなくてね」

 辛うじて幸樹がそう答えると、肩をすくめて短く笑う彼は続けた。

 「そんな連中の言い分は、少し休まなきゃとか、もう一浪して次で頑張ろう、なんて諦めが先に立つんだよ。それをあいつらマイペースって呼んだりしているけど、僕から言わせればそれは最も怠惰な言い訳だよな。そう思わない?」

 幸樹は何故か濠村の顔が浮かんだ。何も応えたくはなかった。

 「僕はいつも一番前の席で熱心にノートをとっているんだけど、予備校の授業を受けてないヤツって結構いるんだよな。あれは余裕なんかじゃないとは思うけどさ」

 余裕という言葉を聞いて、既に自分も逃げ腰であることに気付いた。しかも、彼のように、そういった熱い人生観のようなものを語ることなど出来るはずもない。たとえそれが嘯いたものであったとしても、語ることは自分を責めるような気にもさせて、焦燥感が増すばかりになりそうで嫌になった。

 その後の論理的な彼の発言を適当に相槌を打ちながら聞き流し、いつのまにかその場を離れていた。彼は、幸樹を熱くない男だと思ったかも知れなかった。それから予備校で顔を合わせることがあっても挨拶以外の話をすることさえ避けるようになっていた。

 彼がどこの大学を卒業して、その後にどんな人生を送ったかは知る由もない。相変わらず、人との係わりの中で自分を語っているだろうか。しかし、生きることの意味と履き違えてしまうと、世の中の落とし穴は無数に存在していると思った。彼もそうした人間のひとりになってしまったかも知れないが、自分と波長が合わない人間とはいつまでも交信は取れないものである。そしてそれは幸樹にとっては何の関係もないことなのだと解かると、思い出すことも馬鹿馬鹿しくなっていった・・・。

 それとは逆に、濠村とは気の合う友達になれた気がしていた。医者である両親を持つ子供の宿命はあるのだろうが、そんな親の庇護に甘えることなく、また自分を自慢するようなところもなく、周りに気を配る姿勢が幸樹の中の好感度を上げていた。

 濠村はよく「ブレイク!」と言って幸樹を自分の部屋に招いた。その都度にインスタント・コーヒーをご馳走になりながら、他愛もない談笑の中では、高校までずっと柔道をやっていたという話を聞くことがあった。その体つき、野太い声、太い指などに眼を向けると、なるほど、と納得したのだが、意外にも明け透けな性格を感じさせる風貌からしてみれば、部屋の中がきちんと整頓されており、コーヒーカップを持つ手にも品の良さが感じられた。それは家庭環境にあったのだろうか。そんなアンバランスさも確かに付き合いやすい空気を漂わせて、その後も一緒に飯を食う機会も増えていった。

 そうやって知らない土地に来て、新しい友達が増えるのは楽しみでもあった。それは、やり直すことにも似ているだろうし、何よりもずっと東京に憧れを抱いていた自分がいたことの再認識でもあった。

 東京という街は日本の文化の発信源であるような風習が確かにあったが、何かを始めるのに、また、選択肢が多数存在しているということに魅力を感じていた。正直を言えば、自分の生まれて育った神戸という街にないもの、その無い物強請りだけだったのかも知れない。

 幼少の頃から、単なるメディア情報の中で都会暮らしに想いを馳せていたというのも可笑しな話ではあるが、それは簡単に言ってしまえば見栄ということになる。かといって、誰に自慢するのであろうか。

 桜上水は下町を感じさせる閑静な住宅街で、商店街には昔ながらの懐かしい店もあり、それは神戸の実家近くの風景とほとんど変わらない様子を見せていた。都内の全てがモードで出来ている訳ではないことを目の当たりにしたのも、実はそんなところで、新宿、渋谷、吉祥寺へと東京の流行を生み出す場所へ出掛けるのも便利な場所ではあった。

 ただ、思ったことはひとつ、東京は人間が多いということ・・・。

 予備校に通ってくる学生は、いつだって険しい表情をしていて、得体の知れない、近寄りがたい雰囲気を持ち、ビルの並ぶオフィス街を歩いても何か異国にいるような気分がするだけだった。そして、桜上水の商店街まで戻ってくると安心感が生まれたのは何だろうか。

 小汚い定食屋で濠村と飯を食いながら、相変わらず勉強以外のことを熱心に語っていると、幼い頃のことを思い出し、ここが東京であることを忘れてしまう。それは息抜きを超えて熱くなることもあった。

 濠村は大学へ入れば思う存分に日本中をオートバイで走り、愛用のライカのカメラで写真を撮る夢がある、と話していた。それは東京人の貴賓さと野生さを一度に感じさせ、また大人っぽさも想像させてくれたが、夢と呼ぶにはあまりにも間近ですぐにでも手が届きそうな事のようにも思えた。

 幸樹はオートバイのメカニックなことは無知ではあったが、写真に関しては高校で同好会に所属していたこともあり、ちょっとした知識もあった。元々の写真の原理や現像の手順などを濠村に話して聞かせると、それは化学から宇宙の話に発展していく事もあった。

 ある夜、濠村がツーリング・チームで軽井沢に出掛けたと言う一年前の夏の写真を見せてくれた。少し派手にも思えるハードカバーの大き目のフォト・ファイルには、ずらりと並んだキャビネサイズの写真が何冊もあった。それは、時間ごとに上手にレイアウトされていて、モトクロス用の大小様々なオートバイやアメリカン・スタイル的なロードバイクが集合写真として撮られたものが、必ず最初に位置しているものだった。その後には、タンデムで走行しながら撮られたもの、山並みの風景など、どう見てもスナップ写真にしか思えないほどのプリントの中に一枚のポートレートを見つけた。それは、真上からのアングルで撮られたもので、白い歯を見せておにぎりを頬張ってカメラに向かっている笑顔のミユであった。

 「これ、いいショットですね」

 「ふふん、俺の彼女・・・嘘・・・美人だろう? ミユって言うんだ」

 「ミユ?・・・愛称ですか?」

 「美しく優しいと書く、確かに気取った変な名前だが、これしかないような気もするな」

 「へえ・・・兎に角、濠村さんのタイプなんですね」

 濠村は含み笑いを浮かべながら、ずっと幸樹を見ていた。

 「どうなんだよ? いいと思わないか? 実際のところ、ミユを目当てに仲間に入れて欲しいなんて奴もいたりするくらいだぜ。それこそマドンナってやつ」

 そう言う濠村に、幸樹は微笑して「確かに」とだけ応えた。

 「何といっても今や歌舞伎町ではナンバーワンかも知れん。と、まあ、俺が勝手に思っとることだが・・・。」

 「歌舞伎町?・・・学生じゃないんですか。歌舞伎町って、あの風俗とかいっぱいある?・・・あ、そればかりじゃないと思うけど・・・」

 幸樹はミユの写真を眺めながら、どう見ても妖しさが漂うような雰囲気を拾えなかった。

 「スナックみたいなことをやっているんだよ。雇われ経営っていうのか?詳しくは知らん。そこは彼女が看板みたいだけど」と濠村は言った。

 幸樹は興味なさそうに、はあ、と答えて次のページへとアルバムを送った。

 アンダーな露出でクローズアップされた山花、擦れ違いざまのケーブルカー、大きな木でふざけあっている見知らぬ男達、と続いている写真を黙って見ていった。

 「今日は金曜日だから、どうだ? ちょっと行ってみないか? もしかしたらバイク仲間も来ているかも知れないし」

 それはさっきの歌舞伎町の話をしているのだと判ったが、何処に?と返して、半ば強引に誘うような濠村の言葉を躊躇する自分に気付いているのは、幸樹自身が一番良く理解していた。

 歌舞伎町といえば、まず、日本最大の歓楽街というコピーが浮かんだ。そこには甘い誘惑、裏はすべてが金、アウトローたちが屯しているエリア。地方出身の私にとって、その響きは、まるで異界であった。しかし、怖さよりも興味の方が先を走ってはいた。

 「でも、僕にはそんなところへ行く余裕はないですよ」と、苦学生を装いながら濠村の顔を窺うと、意味ありげに唇の端を持ち上げニヤリと笑った。

 「金なんかいらない」

 午後八時、濠村と幸樹は京王線に乗って新宿を目指した。上り線であるせいか、乗客は疎らであったが、やけに都会の明るさを眩しく感じる夜だった。それは、生まれて初めて体験する未知の東京への期待感が膨らんでいたからだと思う。

 新宿駅へ到着すると、その得体も知れない島へ向かってひたすら歩いた。駅から近いのか遠いのか、眼が回りそうなほどにあらゆる電飾のビルを抜け、これだけの人間が何処から集まってくるのであろう、ここはそんなに魅力的なところなのであろうか?そんなことを頭の片隅で考えていた。

 華やかさだけを吸い込むと、幸樹は震えている自分にふと気が付いた。そして、願わくば逃げ出してしまいたいような不安も正直なところにあった。キラキラとたくさんの光に満ち溢れながらも、灰色に濁った臭いがある。まるでその色を隠すように様々に暴れる電飾とアンサンブルのない雑音の中で、幸樹には悪策の笑みを浮かべている余裕はなかった。

 反対に、濠村はそんな幸樹の姿を見て優越感にでも浸っていただろうか。呼び込みの男を無視しながら右へ左へ、まるで迷路のような路地を慣れた場所のように足早に、しかも勇ましく前を歩いて行く。幸樹は、ここで逸れてしまってはもう普通の世界へ戻れないような気持ちにもなり、夜の街に酔いしれることなく濠村の後を必死で追った。

 そこは、「椿」という店だった。少し奥まった、それも似たような細い路地に、薄暗い灯りで照らし出された看板は、何の変哲もない飾りの小さなスナックのように思えた。地下へと降りていく階段は、倉庫へ通じているのではないかと思うほど長く、雑居ビルの古さを感じさせる煉瓦が左右に貼り出していた。そして、下までたどり着くと、階段とは不釣合いな大きな扉があり、可笑しなことに「椿」の名前は何処にも掲げられてはいなかった。

 少し重いと感じる扉を濠村はゆっくりと引いた。後に続いて幸樹も店内へ足を踏み入れてみて、割と落ち着いた雰囲気がしたことに少し驚いた。饐えたような臭いは煙草であろうか、テレビで観たことがあるような華やいだお店ではないことは確かだった。

 大きな観葉植物の向こう側にテーブルが二つ、あとはL字型のカウンターに五・六人が座れるであろう、黒と赤で統一された店内には抽象的な椿のデザインが施されていて一種独特の空気があった。

 店には三人の客がいた。そのうちの一人はツーリング・チームのリーダー藍田伸太郎という男であった。穿き古した黒のジーンズに長袖のシャツというラフな格好で頬杖をついてグラスを傾けるという仕草が似合っている。

 そして、ミユはカウンターの中で煙草を燻らせながら、まるでバーテンダーのように黒いユニフォームを纏い、髪は後ろに束ねていた。それは、あの写真で見た笑顔のミユとはまるで別人に見えた。

 「おお、貧乏神がやってきたようだ」と濠村を見た藍田が言った。

 「はーい、お疲れさまでーす」

 濠村はテンションの高い声で藍田に言葉を返すと、徐にハイタッチを交わした。続けて、ミユにも。

 「勉強もしてない素浪人が疲れたりするのか?」

 藍田はそう言って呆れた顔を作って見せた。

 「してますよ、社会勉強というものを!」

  憎まれ口を叩かれる濠村と気心知れた藍田の口ぶりに馬の合う関係が垣間見えた気はしたが、何もかもが初めて知ることばかりで、濠村に隠れるように幸樹は黙っているしかなかった。

 「いらっしゃいませ」

 コースターを目の前に置かれ、幸樹が顔を上げてそこで見たミユは、まさに東京を感じさせた。濠村はふたりを交互に見ながら「こいつ、芳野幸樹、俺の部屋の隣人、一個下だけど」と紹介した。

 「よろしく。でも来年はキミの方が先輩かもね」とミユは濠村にウインクをすると、幸樹に熱いおしぼりを渡した。そんなミユの笑顔に、つい口許が緩んでいる自分が不思議だと思いながら視線を合わせられずにいた。

 自分はあの時、ミユに一目惚れをしただろうか?と幸樹は後に考える。そこには、それを否定したい自分と、単純に都会に惑わされたと感じている自分がいた。

 店にはホステスなどいなかった。ましてや、カラオケなどと言う機器さえも置いてはいなかった。そこはスナックではなくバーと呼ぶ店であったことも後で知ることとなった。

 灯りを最小限まで落とし、有線放送ではないピアノトリオのスタンダードが流れていた。それはミユが自分の部屋から持参してきたレコードそのものらしかった。

 当時はまだコンパクトディスクというものが普及しておらず、箱型のレコードプレイヤーがコーナーの奥に占められていて、そういった機器に疎い人間でもそれが高価なものであることは一目瞭然だった。大きなスピーカーから静かに流れてくる音は、歌謡曲や当時、話題になり始めていたシティミュージックのようなものしか聴いたことがなかった幸樹にとって、都会の匂いを感じさせるひとつのものとなっていた。そしてそれを至福の格好良さだと位置づけたことも事実であった。

 ミユの愛聴盤はビル・エバンスだった。それはあまりにも叙情的で、クラシック音楽のような繊細な響きがあり、磨かれた艶が一粒ずつ散りばめられた宝石の様に感じた。

 幸樹は、数日後に近くの貸しレコード店からビル・エバンスと綴られたレコードを数枚だけ借りて来ることにもなったのだが、「椿」で見たジャケットと同じものはなかった。「巣」に持ちこんだオーディオと言えばモノラルのラジカセだったが、濠村に頼んでカセットテープにダビングをしてもらい、ジャズのJの字も解からずそれらを聴く毎日が続いた。それは大人を強く感じさせ、都会を満喫しているような気にもさせた。

 もうひとつある。そんなジャズが流れる店で初めて呑んだ酒、ジン・リッキー・・・

 浮かんだライムは、少しだけ大人の憧れに吸い寄せられるような雰囲気を醸し出していた。唇と重なったグラスの中はソーダ水であったが、甘くはなかった。その清々しい嘘の様な液体は体温と融けあい、自分の幼稚さ、それでいて溢れ出そうな体熱を幸樹に感じさせた。それは精通にも似ていて、酒にはこんな放熱があるのだ、と燻った自分を思い返し苦笑してしまうほどであった。

 「ね、キミ、ヨシノクンだっけ・・・、免許とか持ってんの?」

 話の輪に入っていない面持ちの緊張した幸樹に、藍田はグラスを鳴らしながらほろ酔い気分で話しかけてきた。

 「今はありません、大学へ入ってから自動車の免許は取ろうと思っていますけど」

 「それは社会に出てからの要普免ってヤツだよね?バイクって興味ない?面白いよ、なんて言うかさ、バーンって風を切っていくのは浪漫っていうの?スカッとするそんな感じのさ」

 と言う藍田に、ミユはアイスピックを弄びながら話に割り込んできた。

 「あなたが教えてあげれば?プロなんだから」

 藍田伸太郎は、プロのロードレーサーであった。父親の趣味で幼少の頃からサーキットで走っていたらしい。鋭いカーブの攻めでアマチュアの中でいくつも賞を取り、その後もプライベートチームのメーカーにマシンを与えられ、全日本選手権でも活躍した、言わばレース界でも名の知れた男であった。その話をされた時に藍田の年齢を確かに聞いたのだが憶えていない。それでも、二十代半ばくらいではなかっただろうかと思う。

 年齢と言えば、ミユは幸樹より三つ年上であった。化粧のせいなのか、その大人びた雰囲気、時々見え隠れする少女のような笑顔は、本人の意識していない色気となっているように感じた。それは誰かに似ていると思ったが、正面の壁に掛けられた絵画に意識を集中させ、そこに描かれていた一輪挿しの椿の花を眺めていた。それは仄暗いライトによってぼんやりと照らし出され、これから枯れゆくような翳りがあるようにも見えた。

 そんなふうに何もないところから想像の次元を変化させていく癖は、その頃に身に付けたものだったのかも知れない。焦点を暈かしていくと気持ちが落ち着いてくるのは、それまで見た夢を記憶の中から無に帰すようなものである。

 濠村と藍田はオートバイのパーツの話をしているようだった。ミユもその話を聞いていたようだが、テーブル席の客にカクテルのおかわりを注文され、それに頷くと引き締まった表情になり作業を始めた。目の前には見たこともない道具を並べ、何をどういう手順で作っていくのか分からなかったが、それは手際が良く気持ち良かった。

 「この店はどうして椿という名前なんですか?」

 話しかけたのは間違いだっただろうかと少しだけ後悔したのだが、ミユは幸樹の顔を見て微笑した。

 「ここって元々は私の店じゃないから、どうしてって訊かれると困るけれど、ちょっと変わったオーナーでね、椿の花が好きなのよ」

 ミユは会話に夢中になっている藍田の方を一瞥して、シェイカーからグラスに注ぎこまれた液体を確認した。

 「可憐な感じがしますよね」

 「そうなんだけど、ねぇ、椿の最後って知ってる?薔薇みたいに少しづつ花弁が落ちていくんじゃなくて、首が折れるみたいにそれごとボロって落ちるの」

 そう言われてみれば、そうなのかも知れないと思った。何処で見たのか、積もった白い雪の上に落ちた椿を憶えている。それは女の紅の色を思い出させた。

 「確かに・・・」

 「オーナーはその潔さが好きなんだって。ちょっと不吉よね」

 そう言ったミユはカウンターの端の狭い場所から注文されたカクテルをテーブル席へと運んで行った。

 椿のように可憐な女・・・

 椿の最後は・・・

 幸樹はそんな記憶のシーンをぼんやりと廻していろんなことを重ねていた。可憐に散っていった花が映ると思わず目を閉じた。パチパチというラップ現象にも似た音が聞こえたような気がしたと思うと、全身に鳥肌が立つような寒気が走った。

 「ねえ、幸樹くんって綺麗な顔してるのね。女の子みたい」

 目を開いて、ふと気付けば幸樹の座る隣の席にミユがいた。その言葉は幸樹の耳元で囁かれた。その時、自分の身体の中で確かな感情の起伏があり、それは汗となって、しかも呼吸が短くなっていく意識があった。自分の血液が沸き立つ感覚、それは足の爪先から頭の髪の毛の一番長い端のところまで凄い速さで到達したような気がした。幸樹は手に持ったグラスをじっと見ていた。もしもその時、左隣のミユと目が合うようなことがあれば、どうなっていたであろうか。

 幸樹は、心の中にある自分の影を誰にも見せたくはないと思った。そして、表情をも読まれたくはなかった。本当は幸樹自身がただ黙って消えてしまいたくなった。

  「ちょっとトイレ・・・」

 そう言って俯いたままの姿勢で、幸樹はその場を離れた。ミユは、自分が何か悪いことを云ったのではないかと困惑したかも知れないが、それを幸樹にはどうすることも出来なかった。

 奥に設置された狭いトイレの中で両腕を抱えこみ、幸樹は小さく震えていた。泣いている訳ではなかった。それは緊張のようなものだと推測していたが、それに対する薬が処方されているわけでもない、兎に角、時間をかけて落ち着かせることしか出来なかった。

 もし、こんな時に何が欲しいのかと訊いてくれる誰かがいたならば、幸樹は「本当の自分」と答えていたことだろう。それがどんなものなのか分かるはずもないが・・・・。

 「どうした? 大丈夫か?」ややあって濠村が外からノックをする。

 「いや、何でもない。うん、少し飲み過ぎたかも」

 幸樹は、自分は嘘を吐いた、と思った。未成年ながら自分がアルコール慣れしているのは分かっていたし、現に酔っ払っていたわけでもない。悟られぬよう、ゆっくりと中から出てきて、小さな洗面所で顔を洗った。それからすぐに席へ戻ると、ミユが「大丈夫?」と一言だけ声を掛けてくれたが、それから後はミユの方から話しかけてくることはなかった。

 結局のところ、この日は型通りの挨拶は交わしただけで、その時点の幸樹の中で、ミユの存在は通り過ぎていくだけの女でなければならなかったのだと感じていた。何もかも極度な緊張が作り出した失態に過ぎなかったのだろうとは思ってはいたのだが・・・。

 日付が変わる頃に、幸樹が初めて過ごした歌舞伎町の夜は、濠村と一緒にタクシーに乗ったところで終わった。

 部屋の戻るととにかく静かであった。歌舞伎町は眠らない街である、人はあそこをそんなふうに語っている。それは歓楽という言葉だけで終わるものではない。それぞれの思惑とは別に、何か得体の知れない吹き溜まりがあちらこちらに見え隠れしている印象がある。それは幸樹にとっても興味深かった街だと言えるが、そのほんのひとかけらしか知らない人間が語れる場所でもないと言うことは理解しているつもりだった。

 いろんなことを考えていると、自分の部屋で眠れぬ時間を過ごすことになってしまったのは何故であろうか。そう思った瞬間に、きっと、街ではなく「女」ではないかと考究している自分に幸樹自身が驚いていた。

 手の中には「椿」のマッチがあった。その内箱の裏側にはミユの手書きで自宅と思われる電話番号が記されていたのを見るともなく眺めた幸樹は、机の下の屑入れにそれを放り投げた。

2.

 それまで静かに降っていた雨足が次第に強くなり、やがて大粒の雨へと変わった。午後七時、新宿界隈の大通りは徐行運転をする車によって渋滞を作り出していた。会話のない車内に響くのはフロントガラスを拭うワイパーの切れたような音と、目を細めてしまうほどの車体を叩く大きな雨音だけである。それがうまい具合に重なり合うと一定のリズムが生まれ、よもや催眠を呼ぶような遠い感覚にも襲われる気がした。

 横を向くと、女の顔が色鮮やかな模様を描いていて、それはまるで万華鏡の内部を覗くような不思議な輝きを放ち、角度が変わるたびに奇怪な動きをしながら流れていく様に見えた。いくつもの顔を持つ女がそこにいる、そんな恐怖心にも自分自身は怯えていたのではないだろうか。

 車の助手席に座っている幸樹は、ただ飼い主に忠実な犬のように大人しかった。主人の前で騒いだりすれば、命がないという妄想とも戦っていたのだと思う。

 女が公園の脇に停めていた黄色いクーペを指差し、「乗って」と云ったからそうしたのか、それとも、自分が女と一緒に居たかったから乗ってしまったのか、どうにもわからなかった。

 頭の中ではハードボイルド作家にでもなったように何重もの想像が駆け巡り、それは麻薬の運び屋? いや、あるいは薬を打たれて中毒患者にさせられて、もう心も身体もボロボロになり、そうして何かに追われながら一生を終えてしまうのだ、というシナリオまで組み立ててしまう乱雑さの中で後悔する自分もいた。

 受験を控えた幸樹にとって夏休みなど無関係であった。しかし、そうであると解かっていても、少しくらい間を入れた方がいい、という甘えに惑わされる時がやってきたのがそもそも間違いである。

 出張で突然上京してきたという父に、都内のレストランで束の間の食事に誘われたのは、八月に入ってすぐの頃であった。その時に小遣いと称して三万円を貰っていたのだが、きちんと考えて使わなければならないという思いは何処かにあった。しかしながら、それは最初だけで、思いつきで行動してしまう自分がいることの見当もついていた。

 数日後、残暑の続く末日に気分転換という言い訳を掲げ、私は歌舞伎町の「椿」へ行ってみようかという企みが浮かんだ。

 別にミユに話があったわけでもない。そして、何かの用事を頼まれたわけでもなかったが、 あの日に見た椿の花は幸樹の心の中で大きく膨らんでいて、その重さに耐え切れなくなっているという夢想が続いていることを自覚していたのだと思う。

 切なさと共に遡る先には少年の苦悶の姿、それは自分自身をも欺き、自虐的でもあり、快楽は何度も繰り返し、迸る若さの中で廻り続けていくのも実は酷なものだと、いい加減な理由をこじつけながら・・・。

 自分は白い椿なのであろうか、と幸樹は自問してみた。一般的に椿というと赤い色を想像するが、白には無垢を感じさせる印象がある。そして、自分の白は無垢ではなく、無知の白・・・。白を選ぶわけでもなく、装ったつもりもなく、心の中で赤い椿には遥かなる憧憬が存在していたのが曖昧な答えであった。

 予備校の夏期講習を終えて日比谷の図書館で時間を過ごし、それから地下鉄を乗り継いで新宿で降りていた。南口の改札から地下を通って表へ出ると日中がひどく暑かったせいだろうか、街は予想もしない夕立に見舞われていた。それでも若さからか、傘を買おうという気にはなれず、ビルとビルの合間を小走りに移動を続けて東口のバス乗り場から都市銀行の下まで一気に走り抜けた。

 建物の大きな軒下になる先端に立ち、昼間に溜まった都会の埃が流れていくような景色を感じながら目を細めて空を見上げてみた。雲の流れは速く、通り雨ではないだろうかと視線を戻すと、見知らぬ人は皆な、幸樹と同じような行動を取っているのに気付いて可笑しくなった。

 雨宿りをしていたスーツ姿のサラリーマンが覚悟を決めたように幸樹の目の前を駆け抜けていった、と同時に何処かで猫の鳴く声を耳にした。辺りをすまして見渡すが反響しているせいなのか、どこから聞こえてくるのか判らなかった。ならば空耳かと思ったのだが、再び聞こえる鳴き声に幸樹の気持ちは少しだけ落ち着かなくなった。

 幸樹は街で猫を見つけると、何故か「こっちにおいで」という気持ちが湧いた。素直に寄り添ってくれば頭や喉を撫でたくなる。「お腹が空いたのか、そうかそうか」と何かを与えるわけでもなく「じゃあな」と言って立ち上がる。ただ、それだけのことを飽きずに続けているのかも知れない。

 未だ何処かで鳴いている猫を気にはなったが、急にその場を離れてしまいたくなって、再び雨の中を走り出していた。

 幸樹は「椿」の営業時間を知らなかった。ましてや、一度しか訪れた事のない土地。記憶も曖昧ではあるが、目的地を探し当てるというのも楽しみのひとつだと考えて、歌舞伎町一番街と書かれた看板を潜りそのゾーンに足を踏み入れた。もしかしたら、背伸びをした子供が大人ぶって歌舞伎町を歩きたかっただけかも知れない。それでもいいと思っていたのだが、しかし、本当にそうだったのだろうか・・・。

 雨は小降りになる様子も見せず、先程から何度も何度も同じ路地を行き来していると、そこが小さなエリアではないことが段々と解かってくる。同じ店の前を通り抜け、注意深く辺りを窺っていても、あの店は本当に存在したのだろうかという気にもなり、少しだけ戸惑いながらも迷路の中に入り込んだ気分を味わった。

 夕方六時という時間は、まだ目覚めていない街の顔をしていると感じた。既に雨が夜を連れてきたように空は仄暗かったが、黒塗りのベンツが電飾に照らされ始め、静かに停車しているのがやはり不気味でもあった。あと少しすればミニスカートから細い脚を露出した客引きの女たちや、少し気取ったジャケットの男たちが増えて、こんな自分にも声をかけてくるのであろうと想像すると、歌舞伎町と言う街の真ん中で孤独感も生まれて来ていた。勿論、この街の内情など知るはずはない、闇の世界をテレビや映画のフィクションで知る事は出来ても、それが現実に存在するのかどうかさえ疑問も感じていた。兎に角、あと少しでこの街が輝き始めるのは間違いではない。天候など関係なく、毎日が同じように瞬きだす。そして幸樹は、未だ「椿」を見つけることが出来ないでいた。

 歩くのに少し草臥れて幸樹は近くの自動販売機で缶コーヒーを買った。それはよく冷えており、喉の渇きを潤すには充分であったが、雨で貼りついたシャツに少しばかりの不快を感じていた。幸樹は、コーヒーを口にすると反射的に煙草を呼ぶ習慣みたいなものが身についていた。煙草そのものは神戸に居る頃から親に隠れて吸っていたが、当時の本数よりもそれは確かに増えていた。喫煙依存してしまえば精神的な不安感が高まっていくことも理解はしているが、実際にはニコチンによる禁断症状が始まっていたのだと感じていた。自分の意思の弱さはこんなところにも表われている、そう思うと嫌悪感さえ煽って来た。しかし、諦めと次なる欲求へ変貌するのも早かった。

 うろついた繁華街の途中で、フェンスに囲まれた公園を目にしたことを思い出し、幸樹は足早にそこまで引き返した。歩いてくる途中、看板に明かりが点き始める店が数箇所あったが、まだシャッターが閉まったままのアーチ状のテントが架かっている酒場を見つけ、その下に滑り込んでポケットに手を入れた。

 ふと目の前の公園を凝視すると、ホームレスの男が骨の曲がった透明のビニール傘を差してベンチに座っているのを見つけた。幸樹は煙草を銜えたまま、角にあるゲートの前までふらふらと近づいて、その男とは十メートルくらいの距離があっただろうか。それでも男はこちらを見ようとはせず、まるで死人のように固まっていて動くことはなかった。歳がいくつ位なのか皆目見当も付かなかったが、何れにしてもそれは年老いて見えた。

 当時の幸樹は、「老いぼれる」という感覚が理解出来ないでいたのだと思うが、単純に希望を失くす事なのではないかと感じていた。何事にも諦め、意見を述べる事も行動を起こす事も億劫になり、エネルギーを失くしてしまうような・・・。

 それは幸樹が幼い頃に持っていたブリキ製の玩具を想像させた。最初は勢い良く動き始め、終わりに近づくと動きは鈍くなり、最後には停止してしまう。しかし、捲きなおせば再び同じように動き始めるはずである。ただ、捲きなおすだけのエネルギーが自分の中に残っていれば、という話だが・・・。

 諦めの早い自分の行きつく先は、ホームレスと同じ場所であるのかも知れないと幸樹は思い始めていた。それを感じると思わず目を閉じたくなった。目を閉じて身体の中の発条を捲きあげるとすぐに、「巣」に戻り勉強を始めなければ、という気持ちさえ湧いて来ていた。

 少し風も出ていたが雨は小降りになり始め、踵を返して駅に向かおうとした時、猫の鳴く声を耳にした。勿論、少し前に聞いたあの猫の声だとは思わなかったが、また気になって辺りを見回す。時間よりも早くに暗くなった周辺の店は、次々と看板に灯りが点き始め、街全体がほんのり明るくなったような気がした。

 その鳴き声のするところにひとりの女がいた。開かれた傘は薔薇の花をあしらった派手なデザインのもので、真横から見える髪は茶色で長く、雨に濡れたからか、項にかけて筋を引くような色気があった。それは耳を出していたせいで細い光にも見えて、三十代前後であるように思えた。真っ赤な口紅だけがひかれ、これから化粧を施すのだというような状態の顔にも見えたが、病み上がりのような眼に隈が残って少し淋しさが漂っていた。

 女は幸樹に気付いてもあまり表情を変えようとはしなかったが、その目の向こう側には何か許諾したような表情も見えた気がして、幸樹はなおも近づいてみた。

 傍らに二匹の猫がいるのが判った。一匹の黒猫は、もらった缶詰を夢中で食べていた。もう一匹の面白い模様の斑猫は、既に食べ物を平らげており、まだ他に何かないのかと言わんばかりの鳴き方をしていた。

 少しだけ沈黙があったのだが、幸樹に向けて女は徐に口を開いた。

 「猫は好き?」

 そう訊かれて幸樹は慌てて目を避けたが、やがてそれは緊張に変わった。

 「は?・・・あ、はい、好きです。小さい頃に実家でも飼っていました」

 鳴いている猫をあやすように女はそのままの姿勢で俯いた。そこには柔らかな陰影があった。

 「あんたこの辺の店の人?」

 女は猫に対して頭を撫でて相槌を打つような仕草をした。

 「いいえ、一般人です」

 そう答えると、クスクスと笑われた。何か皮肉めいたことを返されるのかも知れないと感じていた幸樹も、そんな思わぬ優しい笑い声に好印象を抱き、少しだけ照れていた。

 「ずいぶん濡れちゃったわね」

 「あ、まあ・・・」

 「どう?暇ならうちに来ない?」

 そう言われて、幸樹は身構えた。勿論、金に余裕があって歌舞伎町に来たわけでもなく、女を捜しに来たわけでもない。

 「ん、貧乏学生で遊ぶ金なんてないです」と幸樹が苦笑して応えるとまた笑われた。

 「そうじゃないのよ」

 女は上品な色のワンピースに付いた水泥を払いながら幸樹の手を掴んだ。その瞬間、驚きで身体が硬くなったのだが、同時に痺れるような感覚があり、事情が呑み込めなくなった。そして傘の中に身体を入れられた後、女は幸樹を連れ歩き始めた。

 あの時、何故に逃げ出そうとしなかったのだろうかと幸樹は思った。何の抵抗もなく、肩を並べて歩いていく自分が不思議であった。

 公園の脇に停めてあったクーペの後部座席には、たくさんの紙袋が積まれていた。顔を覗かせているのは派手な色をした衣服のようだったが、はっきりとは判らなかった。

 「乗って」と女はそう言って運転席に滑り込んだ。それは魔術のような言葉であった。思考回路が狂わされたように、動きが止まり、慌てている自分にも驚いた。それでも何処かで落ち着き払ったような気持ちがあって助手席のドアを開けていた。

 「服、濡れてんですけど・・・」と小声で言うと、「構わないわよ」という返答があった。

 そう言われて幸樹が車に乗り込むと、それが合図だったかのように雨は再び大粒になった。車が発進した途端、地獄に堕ちていくのかも知れないのだと感じた。信号待ちの時に逃げた方がいいと何度思ったことだろうか・・・。

 車は線路沿いの小さな路地を走り抜けた後、急くような渋滞の大通りへ出た。天候のせいもあるのだろうか、ゆっくりしたスピードでガードを越え左折し、一度西口を回るようにして引き返し、警察署を横目に向かい側の小さな脇道へ反れていった。後はどういったルートを抜けたのか今でもわからない、北新宿と言う電柱に貼られた番地を目にしたが、そこは走りなれた者だけが分かる一歩通行だらけの道であった。

 都会という妖しげな光の渦は、やがて住宅地に入ると少なくなっていったが、手ブレを起こした写真のような曲線を描いて、自分の存在さえわからなくなってしまった自分がいた。それが眩暈だったのか、何か幻を見たのか、気が付くと現実に戻るまで意識を失っていたような感じであった。

 車内でもほとんど口を利かなかったが、女の名前がマリコということだけを教えてくれた。無論、それが本名なのかどうかは定かではなかった。頷いて幸樹も自分の氏名を名乗ったが、さも興味なさそうに一瞥されただけだった。

  新宿からさほど離れていないと思われるところにマリコのアパートはあったことを覚えている。駐車場とは言えぬスペースに強引に車を横付けすると、幸樹を置いて二階へ続く階段を足早に駆け上がっていった。

 幸樹はゆっくりと車を降りて、辺りを見渡した。生き生きとしたマロニエが、隣の壁を越えて伸びていて、その模様が屋外灯に当たって透き通ったように見えた。

 「どうしたの?早くいらっしゃいよ」

 マリコは二階の自分の部屋の窓を少しだけ開けて、小声で幸樹を呼んだ。

 「荷物は・・・荷物はいいんですか?」

 「いいのよ、そんなもの・・・」

 幸樹は少しウロウロしながらも階段を上がった。それはやはり、歌舞伎町に足を踏み入れた時と同じような気持ちになり、足取りが少しだけ重いことを自覚した。

 マリコの部屋は階段側の一番手前だった。表札に名前などなく、ドアは開かれていた。踊り場から横に続く共用の廊下にはそれぞれの住人の洗濯機が置かれており、一番奥の部屋の前には三輪車らしきものが、切れかけて点滅する蛍光灯に照らされていた。

  「何を飲む?ビールでいい?」

 奥の部屋から大きな声でそう言うマリコが、既にビール瓶とグラスを持ってテーブルに並べ始めていた。幸樹は、その光景を遠くに見ながらぼんやりしている自分に気付いていた。それは呆れるほどに初心だということを相手に知らせているような仕草でもあった。

 「何、突っ立ってるの?あ、ちょっと待って」

 マリコはそう言ってバスタオルを放り投げてくれた。幸樹は一呼吸してから落ち着かないままスニーカーを脱いで扉を閉めた。今思えば可笑しな行動だった思うが、自分の靴の向きをきちんと揃えていたりする男、それが幸樹だった。

 そこは狭いキッチンだった。小さな冷蔵庫の隣にはたくさんの靴の箱が積まれて、それに回り込むように浴室があった。その間のスペースにはピンチ・ハンガーに掛けられたいくつかの下着が干してある。そしてトイレ。押入れのスペースを差し引き、六畳と四畳半ほどの畳敷きの部屋が続いているという間取りであった。

 桜上水の幸樹の「巣」よりは断然に広いはずなのだが、部屋のあらゆるところに数多くの洋服があるために、ある意味では物置にも見えなくもなかった。

 「こんなのしかないけど着替えて」

 そう言って渡してくれたのは、ピンクの生地にテディ・ベアのイラストの入ったやけに大きなTシャツだった。それは何度も洗濯を繰り返して少し色褪せてはいたが、マリコのお気に入りのシャツだったのだと思われ、襟の部分が頼りなげに伸びて弛んでいた。

 「悪いけどシャワー壊れてんのよ、お風呂でも沸かしてあげようか」

 「いえ、充分です」

 幸樹は台所のスペースに立って、着ていた白のコットンシャツとジーンズを脱いだ。それをピンチ・ハンガーの空いている部分にぶら下げて借りたシャツに着替えた。それは、布地を通して伝わってくる感触が気持ち良かったのだが、幸樹が身につけるとポンチョのようだった。

 「とりあえず座れば?」

 そう言われた幸樹は何故か正座をして、マリコの方を向き直った。すると突然ゲラゲラと豪快に笑われ、それでも尚も可笑しさを堪えきれないらしく、腹を抱えるように転がり始めた。それは既に充分に酔っ払っているのではないかとも思えた。

 「似、似、似合う!・・・どこのお嬢ちゃんかと思った」

 そんなことを言われた幸樹は何と返事をすればいいのか見当もつかなかった。出逢ったばかり、数えるほどの言葉しか交わさずに、こうして女の部屋にいることも滑稽に思えてきてただ恥ずかしくなるばかりであった。

 それが東京っぽい、という人が聞けば訳のわからない納得をさせようとするのだが、極度の緊張感が幸樹の中で駆け巡ったまま時間だけが過ぎていった。

 勿論、話し上手なわけでもなかった。どちらかと言えば人見知りするような性格。神戸にいる頃に親しく付き合ったガールフレンドが居たわけでもない。

 「ごめん、ごめん・・・」

 怖気づいた犬のように震えていたかも知れない、幸樹はそんなことを思いながら同じような沈黙を受け入れていた。

 「そんなに畏まらなくてもいいのよ」

 笑わない幸樹に少しだけ機嫌を悪くしたのか、マリコはビールを呑み始めた。

 「いえ、そういうんじゃないんです・・・。僕は、・・・あのう、女の人とあんまり話したことなくて、緊張していると言うか、どうしたら良いのかわからないというか・・・」

 「最初はそんなふうには見えなかったけど?」

 「はあ・・・」

 「童貞?」

 そう訊かれて少し驚いたのだが、間を置いた後にコクリと頷いてみた。

 「言っとくけど、あたしが歌舞伎町にいたからってトルコ風呂の女じゃないわよ」

 「はい」

 「ほんとにわかってんの?」

 「マリコさんはそんな店の人には見えません。すごく素敵な女性・・・だと言え、・・思います」

 幸樹がそう言うと、さっきまで眉間に皺を寄せていた顔が急に華やかになった。

 「わかってるじゃない、おんなを・・・。でもあんた変な病気なんて持ってないでしょうねえ?」

 「その辺も童貞です」

 この面白い冗談が緊張を解してくれた。

 「本当にただ誘っただけ。怖がらなくていいからさ。今日はちょっとひとりじゃ居たくなかっただけだから・・・」

 「あのお、それより何だかお腹空きま、せんか?」

 「それよりってなんだよ、それよりって」

 その少しだけ男勝りなマリコの言葉は、高校時代に不良と呼ばれていた神崎直美に似ていることをふと思い出させた。普段の直美の口は相当に悪かったが、とても優しい女なのだと感じたことがある。

 ある日、教室に忘れ物を取りに行った幸樹は、直美がひとりで手紙を読んでいたのを見たことがあった。夕陽の零れる窓辺に肩を預けて、それは泣いているようにも見えた。幸樹はもう一度、廊下の端までこっそりと移動し、今度はわざと大きな音を立てて教室に向かうと、直美は幸樹を睨みつけるように見ていた。 直美がそこにいることは分かっていたはずなのに「あ!」と叫んでしまう。

 「何やねん!」

 威嚇するように直美は幸樹に言った。

 「忘れ物・・・」

 「アホちゃうか、大事なもんはな・・・・大事にせな」

 その直美の言った訳の解からない言葉は、幸樹が後になって頷ける言葉になる。幸樹は忘れたバインダーを手にすると、ポケットに持っていたチョコバーを直美に向かって放り投げた。直美はそれを上手に受け止めた。

 「それ親父のところで作った新製品や、食うてみてや」

 幸樹は直美から逃げ出すようにそのまま教室を出て行こうとした。

 「ヨシノー!」

 直美の大きな声で幸樹の足は竦んでしまい、動きが止まった。「投げ返される・・・」そう思って振り返ると、直美は今まで見たこともない笑顔を幸樹に向け「サンキュ、気いつけて」と言ったのだった。

 直美はその年の秋に大阪へ転校して行ったが、新しい学校で新しい自分を作っているのではないかと言う気にさえした。そんな口の悪さの中に見える優しさは、今も幸樹を心地よくさせている。

 マリコは近くの蕎麦屋に電話をして出前を取ってくれた。幸樹はカツ丼、マリコはざるそばであったが、何となくそれが貧相にも思えてきてフォーク音楽の歌詞を連想させた。湿っぽい同棲と切ない恋愛と男が女言葉で唄う声の震えが流れてくるようだった。

 マリコは歌手だった。

 新宿でも老舗のクラブ「ナイト・ウォーカー」専属の歌手。幸樹はそこがどんな店なのか勿論知るわけもないのだが、高貴な感じだという想像はついた。そして、今日、そこをクビになったと言う。何でも、店の客にストリップ紛いのことを要求され、怒り込み上げシャンパンの瓶を振りかざして殴りかかったらしい。

 マリコは音楽大学を目指して北海道から上京してきたが、普通にアルバイトをしていても生活するのは苦しいと考えて、コンパニオンを始めたのだと言った。その後、クラブホステスとなり、たまたま客に唄えと言われてマイクを取った。少女のころからピアノを習い、クラシック音楽には精通していたが、流行歌を知らないマリコにとって出てきた歌は「竹田の子守唄」。

 店中がしーんとしたと言う。それはウケが悪かったと言うのではなく、あまりにも心に染み入った声だと絶賛されたのだそうだ。店が終わってオーナーがマリコを呼び止め、明日から唄を頼む、などと・・・・それが、クラブ歌手の始まりだと話をしてくれた。

 「なんだかあたし、損な人生を送っちゃってるのかな」

 独り言のようにそう呟いてマリコは項垂れながらため息をついた。幸樹には何も返す言葉がなかった。偉そうな助言が出来るほどの人生を歩んできたわけでもないし、片親とは言っても充分に甘えて育ってきた訳で苦労など知るはずもない。

 マリコはいろんな話を始めてくれるのだが、幸樹が頷いてばかりいたので、その後の会話も弾んでいかなかった。沈黙が流れると、頭の片隅で、ついさっきまで知らなかった目の前のマリコのこと、スケジュールを立てて今夜までに制覇してしまおうと考えていた英構文のこと、神戸の学校で秘かに想いを寄せていたチエのこと、今日は「椿」のミユに逢うはずだったことなどが交錯しながらも浮かんでいた。

 そして、このままここに居れば今夜は・・・という流れにも押されていた。そう思った時、避妊具のことが頭に過ぎった。人並みに雑誌や友人の話でそれは絶対的な物のひとつであることを知ってはいたのだが、それはどうやって使うのか、幸樹自身これまでに、コンドームそのものを見たこともなかったし、勿論そんなものを薬局へ買いに行く勇気など・・・。考えたあげく、邪な気持ちを違う意識へ向かせることにしてみた。

 しかし、それ以前に今、マリコに恋人と呼べる男が居るのかどうかも判らなかった。まして、それを確かめる言葉を発する勇気もない自分もいる。普通に考えてしまえば、ここまで連れてこられたのだから、マリコにとってのセックスは単なる挨拶であり、この先もどんな男と寝ようが構わないのだと考えれば良い。ただ、そうやっていつも距離を測ってしまう幸樹は、理由はあるのだと叫びたいのかも知れなかった。そして、それをずっと誤魔化している自分はなんて臆病であろうかと・・・。

 同世代の若者がどんなセックスをしているのか、幸樹には全く興味がなかったし、何処をどんなふうにすれば女は喜ぶのか、そんなことよりももっとしなければならない大事な勉学がある身分と考える情けなさがあった。

 ビールが無くなると、マリコは押入れから数本のウイスキーを取り出してきた。幸樹はそれまで洋酒は全てウイスキーと呼んで、製法によりいろいろな種類があることを知らないでいた。マリコにどれが良いかと訊かれた時、OLD PARRと印刷されたラベルのものを選んだ。単に瓶の肌触りの感触が幼い頃に一度だけ食べたことのある高級メロンに似ていたという本当の理由はあった。そして、それが、スコットランドで蒸留された「スコッチ」だということをその時に初めて知った。

 マリコは普段はあまりアルコールを口にしないのではないかと感じていた。そのペースにまともに付き合っていた訳でもないが、かなりの量が体内へ吸収されていったはずであった。独り言のように喋り続けているのだが、呂律が回っていないような印象がある。

 「大丈夫ですか?」

 幸樹は声をかけたが、うんうん・・・と返事をするなり歌を唄い始めた。

 Summertime and the living is easy------

 知っているテーマだと何処かで思いながら、ビル・エバンス トリオのアルバムを想像した。マリコの声はスピリチュアルで、しかも神秘的、あまりの美しさに私の心が浄化しているような感覚に襲われた。それは宝石の輝きを見たような気持ちだった。

 マリコは本当に今夜ひとりで過ごすことが怖かっただけなのかも知れない。誰かが傍にいるという事で、確かに守られていることなのだと感じていた。

 幸樹自身も本来、淋しがりやであると思った。不安定な心はいつでも誰かに縋ってしまう。今まではその誰かが存在していたのかということも判らないが。

 自分は本当の意味で母親を知らない。

 今、自身が怖れる時、誰かが傍にいて欲しいと思うとしたら、写真でしか知らない自分を産んでくれた母だという気持ちが幸樹の心に現れた。もしも、そんな気持ちも幸樹の中になかったとしたら、人間として今よりずっと強く生きていられるものなのか、とも思っていた。でも幸樹は、そんな強さを望んでいるわけでもないような気もしていた。

 天井からぶら下がったペンダントの蛍光灯によって、マリコのほんのりと赤くなった頬をまっすぐに見つめた。いつのまにか化粧が施されていることに気付いて胸を突かれた。

 「素敵な声でした」

 幸樹がそう言うとマリコは作ったように満面の笑顔になった。

 「認めるか?」

 「は?」

 「あたしが歌手だと認めるか?それとも只の下衆女で、短気のどうしようもないヤツで、この先どっち行ったら良いか見えなくて、皆にバカだと云われて・・・」

 言葉は泣き声に変わっていった。それは自分と同じように人間の持つ弱さを見せているのだと感じさせた。マリコにとって、今日と言う日はとても長いだろうと思ったし、それは幸樹自身も同じ気持ちがしていた。

 幸樹はマリコの手をとった。それはとても細く、湿った感触であった。それとも幸樹の体温が火照っていたのか、身体中の血液が物凄い速さで回っていたようにも思えたが痺れはなかった。

 「あんまり優しくすると犯しちゃうからな・・・」

 マリコにそう言われて、幸樹は苦笑したつもりであったが、顔が強張ってきっと怖い表情をしてしまったかも知れない。

 幸樹はそれに返事が出来なかった。それは拒否の意味ではなく、紛れもない緊張からであった。今にして思えば、すっと肩を抱き寄せて、三流の科白を吐いていれば、その日からここで同棲でも始めていたのではないかとちょっとありえない想像もしている。

 結局、その後にマリコは訳の分からないことを呟きながら眠ってしまった。酔っ払った方が勝ち、みたいな酒だったと感じた。肩を揺すれば目を覚ますのではないかと思っていたが、小さな寝息を立てているだけで目覚めることはなかった。

 部屋の隅っこには病院で見たことがあるようなパイプ製のベッドがある。そこに寝かしつけようとマリコを抱えあげた時、あまりの軽さに驚いた。

 横に立て掛けられた姿見にマリコを抱えた自分の姿が映った。幸樹はもどかしい思いを振り払ったのだが、それは再びあの女との記憶を思い浮かばせて、自分の感情を抑えるのに必死になった。封印したはずの記憶は、時々そうやって幸樹を過去へと引き戻すのである。

3.

 人には多かれ少なかれ忘れられない出来事というものがあります。

 それが自分にとっての運命だと考えれば、幸も不幸も受け入れて生きてゆかなければならない、というのも運命だと言えます。

 脳に刻まれた記憶という媒体を完全に消去することが可能であるならば、今の私はきっと存在しなかったのではないかと思いますが、解放という選択肢は常に不安と恐怖と夢想によって曖昧に存在しております。

 時間と共に訪れる節目の結末に納得出来ずにいる運命を、私自身が恨み続けている限り、次の方角を占うことすら出来ません。

 あの日からの私は、常に発条をしっかりと巻いていなければ生きることが出来なくなってしまいました。

 時計の振り子は、何かを否定するように首を左右に動かし続けています。

 それが停止してしまわないように気を付けていなければならないという役は、きっと私に与えられた罰であるのだと感じているのです。

 

 幸樹が物心付く前に実母は病死していた。その数年後に父は後妻を取り、幸樹には春樹という弟が出来ることになったのが確か小学二年生の時である。家には父の母、つまり幸樹の祖母も同居していたのだが、家族というのは父と継母と弟のことを言うような気がしていた。 かと言って、幸樹ひとりが疎外されていたわけではないし、継母に虐められたという記憶もない。寧ろ、誰よりも優しい人で、そういう意味ではとても慕っていたのではないか、と幸樹は記憶している。それは多分、母親と言う暈けた存在が幸樹の中で形成されていなかったからではないだろうか。

 継母は絵美子と言う名前だった。そして、絵美子は若かった。幸樹が八歳にして二十歳を過ぎたくらいではないだろうかと感じていた。それ故に、絵美子のことを最初は「お姉ちゃん」と呼んでいた。当時は何の猜疑心もなく一緒に暮らし始めたのだが、絵美子のことを「お母さんと呼びなさい」と父に言われた時の幸樹は戸惑いを覚えた。

 幼い頃、父は幸樹を厳しく躾けた。営業と言う仕事柄か、外面は良かったようだが、家の中では有無を言わさず、平手打ちが飛んでくるという内弁慶であった。勿論、父自身は躾の域を超えていたものではないと、ある程度の手加減をしていたのではないかと思われるが、幸樹は常に怖懼の心を持ち姿勢を正していた。そうした幼年期は、父に殴打されないように嘘をつくことを覚えるきっかけにもなったと言える。

 それからというもの、何かの失敗を起こしてしまうと、それを弟の所為にして逃れようとする幸樹がいた。例えば、食事中に誤って飲み物を溢してしまうと、新聞を読んでいた父の死角で、如何にも弟の失態であるように見せかけたりするようなことだった。父は幸樹を一瞥しながらも、それが幼い弟が犯した行為だと判断すると、感情的な空気が流れることはあり得なかった。

 そんなことを繰り返すうちに、幸樹は自分がどんどん狡猾な人間になっていくようで自己嫌悪にも陥ったことがある。正直に謝りを入れても同じように仕置があるのならば、それさえも悪劫のようにも感じたし、何よりも失敗をしてはいけないというプレッシャーに押されることが苦痛になっていった。それは緊張を呼び、新たな醜態を曝け出す不器用な性格を産んでしまったかも知れない。

 その後、幸樹は躊躇しながらも絵美子を「お母さん」と呼んだ。そう言わないと父に暴力を振るわれるからである。慣れてしまえばその度に思い悩むこともなくなっていったのだが、「お母さん」、そう口にするのはそれほど長い期間にはならなかった。

 はっきりした理由は今でも分からないのだが、絵美子は芳野の家に来てから三年もしないうちに弟を連れて出て行った。如何していなくなったのか、一度だけ父に尋ねたことがあるのだが、興奮していたのか幸樹は気を失うほどに殴られていた。大人の世界に子供が云々と叫びながら、父が鬼のように見えた。幸樹はそれからというもの絵美子の話を口にすることをやめた。

 大人と子供の境目は今もよく判らないでいる。世間に出れば「もう大人なんだから」と云われ、何かをしくじれば「まったく子供だな」という一言を聞かされる。

 幸樹は早く大人になりたいと願っていた。と同時に、大人になどなりたくないとも思っていたのを憶えている。でも、いつの間にか全てを過去としながら大人になってしまう自分を不思議に思った。

 今でも年上の女性を目の前にすると、いつも想うのが母である。自分がいつになっても母親を求めているのだと解かると、いい歳をしてマザコンだと思われることに恥ずかしい気持ちもしたが、その人は星になったのだと信じてしまえば、空を見上げたりもする純粋な幼い一面を大事にしたいと感じてもいる。

 継母ではあったが、そんな母親と言う存在を失ってしまってから、家事に関することは祖母がやるようになった。祖母は明治生まれの笑顔を絶やさない物静かな人であった。しかし、幸樹が父に殴られている時に助けてもらえることはなかった。もしかしたら、祖母も同じように殴られていたのではないかと疑ってしまう自分が悲しかった。

 祖母は幸樹が高校へ入学して二年目の秋に突然、脳梗塞に倒れた。歳は取っていたとは言え、それは思いもよらぬ出来事であり、悲しむ余裕もないままに葬儀が執り行われることとなった。

 棺の中に納まる祖母の顔は穏やかに見えた。幸樹自身も何だか呆然とした状態が続いていたが、それまでは不思議と涙が出てくることはなかった。

 祭壇の袂に多くはない親族が並ぶ中、私は一番後ろに正座をし、弔問に訪れる人々の顔を眺めていた。誰かが動くたびに衣擦れの音が起こり、眠気を誘うような住職の打つ木魚と読経の拍子、それは記憶の扉を開いたり閉じたりしているようにも思えて来て、幸樹は祖母の遺影を見上げながら名前を呼び続けた。

 形通りの葬儀の最後に、従兄弟や親兄弟の男衆に混じって私も棺桶を運び出した。持ち上げた瞬間、祖母の人生が伝わってくるような重みがあった。体に力が入らず、よろけそうにもなりながら胃の奥深くで説明しようもない気持ち悪さを覚えた。祖母の人生観を少しも知っている訳ではないのに、その重みは何なのだろうかと言う気がしてならなくなった。そして火葬場へ着くまで幸樹の涙は止め処なく溢れ出し止らなくなっていた。

 遠い意識の中で葬りを見ていた自分がその場にいることを理解すると、幸樹の涙の意味は、愛されていたのだという想いを充たすものであったことに気付いた。幸樹はそんな祖母に対して何を語れば良いのだろうかと目を閉じたが、どうしても悲しみが先を行き、戻ることが出来なかった。そして、幸樹という名前を呼ぶ祖母の声が、耳の奥で響いている時間だけが過ぎていった。

 あまりに慌しかった出来事が落ち着いた数日後、幸樹は再び学校へ行くようになった。気がつかないうちに風邪をひいていたのかも知れないが、以前から確かな微熱を感じていた。それでも、部屋で横になっていることより、学校へ行けば気が紛れると思い、いつもと同じ時刻に家を出ていた。

 久しぶりに学校へ行くと、変わらぬ空気があった。幸樹に声をかけてくれた多くの友達も家のことでは一言二言だけの話で終り、何の説明もする必要はなかった。幸樹はぼんやりとした頭の奥で教師の声を遠くに聞きながら、一日中、頬杖を突いていた。

 そして、気怠い疲れを感じながら帰宅をする。その日の夕方、物陰から姿を現わした人、それは何と絵美子であった。最初は人違いではないかと疑ってしまうほどに驚いてしまったのだが、事の成り行きをすぐに察した幸樹がいた。

 アンサンブルの薄手のコートに地味な服は着ていたが、それでも若い女の匂いがしていた。その時、父は出張の初日で、家には幸樹一人しかおらず、兎に角、家にあがってもらい、これまで入れたこともなかったお茶を見様見真似で用意して差し出し、父の留守を告げた。