第二章 想 紅
1.
芳野幸樹、十八歳。
幸樹は神戸で生まれ、小中高と地元の学校を卒業した後に、大阪にあった私立大学を受験するも現役で合格することは出来なかった。
実家では父親とふたり暮らし。定年には程遠い、大手の食品メーカーの営業課長であった父に九州への転勤の辞令が下りたのも同じ年度末のことである。
単身赴任をすることに決めたという父に対して、自分は上京して都内の予備校に通いながら次年の試験を目指そうと考えている気持ちを伝えた。何故そんなことを口にしたのか、はっきりした理由は思い浮かばないが、心の何処かで父がそれを許すはずはないと決めつけていたところも確かにあったような気はしている。
この先、神戸に残っていたとしても、一人で暮らすことには変わりないのだが、受験に向けて緊張を失くしてしまうかも知れないという不安は正直なところ拭いきれなかった。新しい環境に身を置くことは自分のプラスになる、そんな尤もらしいことを切々と述べると、拍子抜けするほどに諾唯され、長くなるだろうと思われていた話はすぐに終わってしまった。
父は幸樹のひとり立ちを認めたのか、それとも自分の都合だったのかは判らない。営業と言う仕事柄、これまでも出張が少なかったとは言えないが、当時の幸樹の身の回りのことは近くに住む父の妹、つまり幸樹の叔母が世話をしてくれることが多くなっていた。確かに、この先もそれに甘んじて生活するのは如何かと父自身が感じていたのかも知れない。
高校の在学中に進路相談というものが行なわれた時も、保護者として同席してくれたのは叔母であった。担任教師はどんなところへ進みたいのかと幸樹に訊いてきた。正直なところ将来の展望など考えたこともなかったが、あまり意見されたくなかったこともあり、適当な返事で誤魔化してその場を切り抜け、叔母は当たり障りない話だけを父に伝えてくれたようで、その後に進路についてとやかく云われた記憶もない。
何れにしても、理数系があまり得意ではなかったので、文系でしかも、それなりの名前のある大学に進学出来れば格好は付く、という安易な気持ちで受験に臨んでいたのは正直なところであった。当然の結果、その年の不合格は目に見えていたものだと言えた。勿論、模擬試験の偏差値から判断しても合格ラインに届くことはない成績であったのだが・・・。
親と子が離れて暮らすことが決まったその日、父の持ち家だと思っていたこの建物が、実は借家であったことを初めて知ることとなった。それならこの家を守る者がいなくても何の問題もないのだと思ったのだが、ここで生まれ、ここで育った幸樹にとって、勿論、父にとっても、それは故郷を失くすということであった。
幸樹はこの家の庭が好きだった。その頃に新築した周辺の建物に比べれば、家は恥ずかしいほどに古めかしかったが、それに対して庭の広さは充分にあった。その真ん中では、いつから存在していただろうか、大きくはない白樫の木があり、縁側の籐の椅子に腰掛け木漏れ日の中で浴びる光と風は格別なものだと感じていた。
夏にはたくさんの蝉が鳴き、秋には風で木の葉が擦れ、どんぐりがあちらこちらに落ちた。幼い頃には木登りもした記憶もあれば、枯葉をかき集めて焚き火も愉しみのひとつであった。
几帳面だった父は、そんな庭の手入れを好んでやっていた。木の向こう側の壁沿いにはたくさんの花を植え、休みの日には惚けるほど一日中それらを眺め、花の実が付く頃には手にとってそれらの香りを楽しむ光景を遠くから目にした。それは普段の厳かな父の顔ではなく、優しい表情を浮かべる他人のようにも思えた。
そして、父は幸樹よりも一足先に九州へ引っ越していった。幸樹も一週間後にはここを出て行かなければならなかった。自分の部屋の整理していた手を休め、もうすっかり荷が無くなってしまった階下へ行き、ぼんやりとそれらを見渡しながら鼻で空気を吸いこんだ。他所の家にいけばそれなりの匂いがあるのだが、自分の住んでいた家の匂いと言うものがどんな空気であるのかを探そうとした。しかし、形容できる言葉もなければ、そういった匂いそのものも存在しないように思えた。
ふと気付くと、テレビの置いてあった部屋の柱に、鉛筆で背丈を記した線の跡を見つけた。そこには隣町に住む従兄弟の稔兄ちゃんや幼なじみの陽子ちゃんの印もあったが、幸樹、十歳と書かれた文字に目が釘付けになった。その場所は、いつか買い足した書棚の後ろに位置していて、長年に渡り隠れていたようである。よく見るとその十歳が最後に記されたもので、当時の自分の背丈からしてみればそれはあまりにも小さく、時の流れを大いに感じさせた。
幸樹はそこに書かれた文字にそっと触れて目を閉じた。
ため息が出た。
そして、何もなかったように自分の部屋へ戻り再び荷造りを始めた。
幸樹が東京へ出てから最初に住んだところは、桜上水の小さな下宿だった。下宿と言っても傍に世話人がいるわけではなく、共同便所、共同の洗い場、風呂はなく、下駄箱の脇の小さなテーブルにピンクの電話が一台だけ設置されているようなところであった。
大学を目指す受験生が、安い家賃で生活が出来るようにと提供された共同アパートである。薄い壁一枚に隔てられた四つの部屋、必要以上に音楽を聴いたり、騒いだりする者などひとりもいないという、同士の暗黙のマナーが存在していた。そんな緊張感は勉学に必要な集中力が増して来る利点もあったようだが、幸樹はその下宿を「巣」だと考えていた。
廊下を挟んだ向かいの部屋には、医学部を目指す二浪目の「濠村隆夫」という男が住んでいた。濠村の話によれば、一年目の浪人生活は散々なものであったらしい。都内の自宅から予備校へ通う毎日を送ってはいたが、勉強を始めたものの雑念が払えず、ある日、急に勉強を放棄したくなったのだと言う。それは、高校時代には寝るのも惜しまずに受験に備えて絶対的な自信があった結果が、如何して実らなかったのかという事実から抜け出すことが出来なかったのだと教えてくれた。そして、妥協に終わった年が過ぎ、開業医である親から離れ、再び新たな気持ちで二年目の浪人生活を迎えるのに、この貧相な下宿を選んだという、そんな風変わりな男であった。
幸樹が高校に通っていた頃は、勉強そのものを親や教師にさせられていたという意識がずっとあった。本来ならば、ただ単に進学と言う理由だけではなく、そこに将来に向けて何かを志すという考えが必要であるはずだが、正直を言えば、当時の気持ちの中にはそんなものなど微塵もない。
しかし、入学後に分かったことであるが、大半の人間は志など何もなく、ただ漠然と何らかの扉を与えられるという意味で大学へ入る者も多いと知った。それは全く自分と同じではないか、と思った。ある意味、少し安心もしたのだが、この無責任さは後に自身の後悔の中に入るのではないかと感じたりしている。
幸樹は「不屈」と書いた紙を机の前に貼り、入試までの綿密なスケジュールを組んでいた。それは計画にしてみれば完璧だったように思うが、濠村の言った雑念が幸樹に襲いかかって来るのも時間の問題であった。
それは、ひとつ間違えば自発的に勉学に勤しむという当り前の事が出来ない人間になってしまうという濠村の話もあり、遅れた分を取り戻すのは至難の業となる不安をいつも抱えていた。急がなければ取り残される、それは恥である、周りとは対等で、いや、出来るならばそこから抜き出て先の余裕が欲しい、と考えていたことこそ真に自滅そのもので、それは自分の弱さでしかないのだと気付いていく。再びの嫌悪に苛まれることになり、悪循環は泥の上で足踏みをするようで、汚れた自分に幻滅するような気持ちも幸樹の中には生まれていた。
そんな気持ちの垢を落とすということではないが、幸樹は一日置きに銭湯へ行くことに決めていた。当り前のように実家で風呂に入っていた幸樹には、それに慣れるまでは妙な気持ちもあったが、他人と同じ湯船に入ることの抵抗があったわけでもなく、裸になるのが恥ずかしいということもなかった。客層ではやはり老人が目立っていたが、苦学生や受験生の顔を見ることも少なくはなかった。
そんなある晩の事、身体を洗っていた幸樹の隣に座る男がいた。名前は忘れたが、同じ予備校に通う、確かに見たことのある男だった。彼もまた幸樹に気付いたらしく、「やあ」と、まるで同窓会のクラスメイトに町で逢ったような屈託ない声を掛けてきた。
「最近どう?」
「え?ん、まあ・・・」
幸樹の曖昧な返事に彼は薄く笑いながら勢いよく喋り始めた。
「まあ・・・か。確かに予備校の大きな教室で授業を受けていたら、講師だけが先を進んでる感じがしないわけじゃないけど、あそこってそんなにレベルが高いところじゃないと思うよ」
彼の言う事に異論はないのだが、その口調が幸樹の気分を悪くさせた。だからと言って、それを無視出来るほど嫌な人間にはなれないと幸樹は自覚した。
「そうだね、そんな気もするけど」
「でも苦しみは受験ばかりじゃなくて、その後の人生の中にももっと過酷なことは待ち受けていると思うんだ。それは、誰が語っても、結局はその場面が巡ってきた時にしか実感が湧かないと思う」
その言葉はもっとも重い物を幸樹に背負わせた。今考えても、あの時の彼の言ったことは正論であると思う。
「今頑張らなきゃいけないのは分かっているけれど、なかなか思うようには進まなくてね」
辛うじて幸樹がそう答えると、肩をすくめて短く笑う彼は続けた。
「そんな連中の言い分は、少し休まなきゃとか、もう一浪して次で頑張ろう、なんて諦めが先に立つんだよ。それをあいつらマイペースって呼んだりしているけど、僕から言わせればそれは最も怠惰な言い訳だよな。そう思わない?」
幸樹は何故か濠村の顔が浮かんだ。何も応えたくはなかった。
「僕はいつも一番前の席で熱心にノートをとっているんだけど、予備校の授業を受けてないヤツって結構いるんだよな。あれは余裕なんかじゃないとは思うけどさ」
余裕という言葉を聞いて、既に自分も逃げ腰であることに気付いた。しかも、彼のように、そういった熱い人生観のようなものを語ることなど出来るはずもない。たとえそれが嘯いたものであったとしても、語ることは自分を責めるような気にもさせて、焦燥感が増すばかりになりそうで嫌になった。
その後の論理的な彼の発言を適当に相槌を打ちながら聞き流し、いつのまにかその場を離れていた。彼は、幸樹を熱くない男だと思ったかも知れなかった。それから予備校で顔を合わせることがあっても挨拶以外の話をすることさえ避けるようになっていた。
彼がどこの大学を卒業して、その後にどんな人生を送ったかは知る由もない。相変わらず、人との係わりの中で自分を語っているだろうか。しかし、生きることの意味と履き違えてしまうと、世の中の落とし穴は無数に存在していると思った。彼もそうした人間のひとりになってしまったかも知れないが、自分と波長が合わない人間とはいつまでも交信は取れないものである。そしてそれは幸樹にとっては何の関係もないことなのだと解かると、思い出すことも馬鹿馬鹿しくなっていった・・・。
それとは逆に、濠村とは気の合う友達になれた気がしていた。医者である両親を持つ子供の宿命はあるのだろうが、そんな親の庇護に甘えることなく、また自分を自慢するようなところもなく、周りに気を配る姿勢が幸樹の中の好感度を上げていた。
濠村はよく「ブレイク!」と言って幸樹を自分の部屋に招いた。その都度にインスタント・コーヒーをご馳走になりながら、他愛もない談笑の中では、高校までずっと柔道をやっていたという話を聞くことがあった。その体つき、野太い声、太い指などに眼を向けると、なるほど、と納得したのだが、意外にも明け透けな性格を感じさせる風貌からしてみれば、部屋の中がきちんと整頓されており、コーヒーカップを持つ手にも品の良さが感じられた。それは家庭環境にあったのだろうか。そんなアンバランスさも確かに付き合いやすい空気を漂わせて、その後も一緒に飯を食う機会も増えていった。
そうやって知らない土地に来て、新しい友達が増えるのは楽しみでもあった。それは、やり直すことにも似ているだろうし、何よりもずっと東京に憧れを抱いていた自分がいたことの再認識でもあった。
東京という街は日本の文化の発信源であるような風習が確かにあったが、何かを始めるのに、また、選択肢が多数存在しているということに魅力を感じていた。正直を言えば、自分の生まれて育った神戸という街にないもの、その無い物強請りだけだったのかも知れない。
幼少の頃から、単なるメディア情報の中で都会暮らしに想いを馳せていたというのも可笑しな話ではあるが、それは簡単に言ってしまえば見栄ということになる。かといって、誰に自慢するのであろうか。
桜上水は下町を感じさせる閑静な住宅街で、商店街には昔ながらの懐かしい店もあり、それは神戸の実家近くの風景とほとんど変わらない様子を見せていた。都内の全てがモードで出来ている訳ではないことを目の当たりにしたのも、実はそんなところで、新宿、渋谷、吉祥寺へと東京の流行を生み出す場所へ出掛けるのも便利な場所ではあった。
ただ、思ったことはひとつ、東京は人間が多いということ・・・。
予備校に通ってくる学生は、いつだって険しい表情をしていて、得体の知れない、近寄りがたい雰囲気を持ち、ビルの並ぶオフィス街を歩いても何か異国にいるような気分がするだけだった。そして、桜上水の商店街まで戻ってくると安心感が生まれたのは何だろうか。
小汚い定食屋で濠村と飯を食いながら、相変わらず勉強以外のことを熱心に語っていると、幼い頃のことを思い出し、ここが東京であることを忘れてしまう。それは息抜きを超えて熱くなることもあった。
濠村は大学へ入れば思う存分に日本中をオートバイで走り、愛用のライカのカメラで写真を撮る夢がある、と話していた。それは東京人の貴賓さと野生さを一度に感じさせ、また大人っぽさも想像させてくれたが、夢と呼ぶにはあまりにも間近ですぐにでも手が届きそうな事のようにも思えた。
幸樹はオートバイのメカニックなことは無知ではあったが、写真に関しては高校で同好会に所属していたこともあり、ちょっとした知識もあった。元々の写真の原理や現像の手順などを濠村に話して聞かせると、それは化学から宇宙の話に発展していく事もあった。
ある夜、濠村がツーリング・チームで軽井沢に出掛けたと言う一年前の夏の写真を見せてくれた。少し派手にも思えるハードカバーの大き目のフォト・ファイルには、ずらりと並んだキャビネサイズの写真が何冊もあった。それは、時間ごとに上手にレイアウトされていて、モトクロス用の大小様々なオートバイやアメリカン・スタイル的なロードバイクが集合写真として撮られたものが、必ず最初に位置しているものだった。その後には、タンデムで走行しながら撮られたもの、山並みの風景など、どう見てもスナップ写真にしか思えないほどのプリントの中に一枚のポートレートを見つけた。それは、真上からのアングルで撮られたもので、白い歯を見せておにぎりを頬張ってカメラに向かっている笑顔のミユであった。
「これ、いいショットですね」
「ふふん、俺の彼女・・・嘘・・・美人だろう? ミユって言うんだ」
「ミユ?・・・愛称ですか?」
「美しく優しいと書く、確かに気取った変な名前だが、これしかないような気もするな」
「へえ・・・兎に角、濠村さんのタイプなんですね」
濠村は含み笑いを浮かべながら、ずっと幸樹を見ていた。
「どうなんだよ? いいと思わないか? 実際のところ、ミユを目当てに仲間に入れて欲しいなんて奴もいたりするくらいだぜ。それこそマドンナってやつ」
そう言う濠村に、幸樹は微笑して「確かに」とだけ応えた。
「何といっても今や歌舞伎町ではナンバーワンかも知れん。と、まあ、俺が勝手に思っとることだが・・・。」
「歌舞伎町?・・・学生じゃないんですか。歌舞伎町って、あの風俗とかいっぱいある?・・・あ、そればかりじゃないと思うけど・・・」
幸樹はミユの写真を眺めながら、どう見ても妖しさが漂うような雰囲気を拾えなかった。
「スナックみたいなことをやっているんだよ。雇われ経営っていうのか?詳しくは知らん。そこは彼女が看板みたいだけど」と濠村は言った。
幸樹は興味なさそうに、はあ、と答えて次のページへとアルバムを送った。
アンダーな露出でクローズアップされた山花、擦れ違いざまのケーブルカー、大きな木でふざけあっている見知らぬ男達、と続いている写真を黙って見ていった。
「今日は金曜日だから、どうだ? ちょっと行ってみないか? もしかしたらバイク仲間も来ているかも知れないし」
それはさっきの歌舞伎町の話をしているのだと判ったが、何処に?と返して、半ば強引に誘うような濠村の言葉を躊躇する自分に気付いているのは、幸樹自身が一番良く理解していた。
歌舞伎町といえば、まず、日本最大の歓楽街というコピーが浮かんだ。そこには甘い誘惑、裏はすべてが金、アウトローたちが屯しているエリア。地方出身の私にとって、その響きは、まるで異界であった。しかし、怖さよりも興味の方が先を走ってはいた。
「でも、僕にはそんなところへ行く余裕はないですよ」と、苦学生を装いながら濠村の顔を窺うと、意味ありげに唇の端を持ち上げニヤリと笑った。
「金なんかいらない」
午後八時、濠村と幸樹は京王線に乗って新宿を目指した。上り線であるせいか、乗客は疎らであったが、やけに都会の明るさを眩しく感じる夜だった。それは、生まれて初めて体験する未知の東京への期待感が膨らんでいたからだと思う。
新宿駅へ到着すると、その得体も知れない島へ向かってひたすら歩いた。駅から近いのか遠いのか、眼が回りそうなほどにあらゆる電飾のビルを抜け、これだけの人間が何処から集まってくるのであろう、ここはそんなに魅力的なところなのであろうか?そんなことを頭の片隅で考えていた。
華やかさだけを吸い込むと、幸樹は震えている自分にふと気が付いた。そして、願わくば逃げ出してしまいたいような不安も正直なところにあった。キラキラとたくさんの光に満ち溢れながらも、灰色に濁った臭いがある。まるでその色を隠すように様々に暴れる電飾とアンサンブルのない雑音の中で、幸樹には悪策の笑みを浮かべている余裕はなかった。
反対に、濠村はそんな幸樹の姿を見て優越感にでも浸っていただろうか。呼び込みの男を無視しながら右へ左へ、まるで迷路のような路地を慣れた場所のように足早に、しかも勇ましく前を歩いて行く。幸樹は、ここで逸れてしまってはもう普通の世界へ戻れないような気持ちにもなり、夜の街に酔いしれることなく濠村の後を必死で追った。
そこは、「椿」という店だった。少し奥まった、それも似たような細い路地に、薄暗い灯りで照らし出された看板は、何の変哲もない飾りの小さなスナックのように思えた。地下へと降りていく階段は、倉庫へ通じているのではないかと思うほど長く、雑居ビルの古さを感じさせる煉瓦が左右に貼り出していた。そして、下までたどり着くと、階段とは不釣合いな大きな扉があり、可笑しなことに「椿」の名前は何処にも掲げられてはいなかった。
少し重いと感じる扉を濠村はゆっくりと引いた。後に続いて幸樹も店内へ足を踏み入れてみて、割と落ち着いた雰囲気がしたことに少し驚いた。饐えたような臭いは煙草であろうか、テレビで観たことがあるような華やいだお店ではないことは確かだった。
大きな観葉植物の向こう側にテーブルが二つ、あとはL字型のカウンターに五・六人が座れるであろう、黒と赤で統一された店内には抽象的な椿のデザインが施されていて一種独特の空気があった。
店には三人の客がいた。そのうちの一人はツーリング・チームのリーダー藍田伸太郎という男であった。穿き古した黒のジーンズに長袖のシャツというラフな格好で頬杖をついてグラスを傾けるという仕草が似合っている。
そして、ミユはカウンターの中で煙草を燻らせながら、まるでバーテンダーのように黒いユニフォームを纏い、髪は後ろに束ねていた。それは、あの写真で見た笑顔のミユとはまるで別人に見えた。
「おお、貧乏神がやってきたようだ」と濠村を見た藍田が言った。
「はーい、お疲れさまでーす」
濠村はテンションの高い声で藍田に言葉を返すと、徐にハイタッチを交わした。続けて、ミユにも。
「勉強もしてない素浪人が疲れたりするのか?」
藍田はそう言って呆れた顔を作って見せた。
「してますよ、社会勉強というものを!」
憎まれ口を叩かれる濠村と気心知れた藍田の口ぶりに馬の合う関係が垣間見えた気はしたが、何もかもが初めて知ることばかりで、濠村に隠れるように幸樹は黙っているしかなかった。
「いらっしゃいませ」
コースターを目の前に置かれ、幸樹が顔を上げてそこで見たミユは、まさに東京を感じさせた。濠村はふたりを交互に見ながら「こいつ、芳野幸樹、俺の部屋の隣人、一個下だけど」と紹介した。
「よろしく。でも来年はキミの方が先輩かもね」とミユは濠村にウインクをすると、幸樹に熱いおしぼりを渡した。そんなミユの笑顔に、つい口許が緩んでいる自分が不思議だと思いながら視線を合わせられずにいた。
自分はあの時、ミユに一目惚れをしただろうか?と幸樹は後に考える。そこには、それを否定したい自分と、単純に都会に惑わされたと感じている自分がいた。
店にはホステスなどいなかった。ましてや、カラオケなどと言う機器さえも置いてはいなかった。そこはスナックではなくバーと呼ぶ店であったことも後で知ることとなった。
灯りを最小限まで落とし、有線放送ではないピアノトリオのスタンダードが流れていた。それはミユが自分の部屋から持参してきたレコードそのものらしかった。
当時はまだコンパクトディスクというものが普及しておらず、箱型のレコードプレイヤーがコーナーの奥に占められていて、そういった機器に疎い人間でもそれが高価なものであることは一目瞭然だった。大きなスピーカーから静かに流れてくる音は、歌謡曲や当時、話題になり始めていたシティミュージックのようなものしか聴いたことがなかった幸樹にとって、都会の匂いを感じさせるひとつのものとなっていた。そしてそれを至福の格好良さだと位置づけたことも事実であった。
ミユの愛聴盤はビル・エバンスだった。それはあまりにも叙情的で、クラシック音楽のような繊細な響きがあり、磨かれた艶が一粒ずつ散りばめられた宝石の様に感じた。
幸樹は、数日後に近くの貸しレコード店からビル・エバンスと綴られたレコードを数枚だけ借りて来ることにもなったのだが、「椿」で見たジャケットと同じものはなかった。「巣」に持ちこんだオーディオと言えばモノラルのラジカセだったが、濠村に頼んでカセットテープにダビングをしてもらい、ジャズのJの字も解からずそれらを聴く毎日が続いた。それは大人を強く感じさせ、都会を満喫しているような気にもさせた。
もうひとつある。そんなジャズが流れる店で初めて呑んだ酒、ジン・リッキー・・・
浮かんだライムは、少しだけ大人の憧れに吸い寄せられるような雰囲気を醸し出していた。唇と重なったグラスの中はソーダ水であったが、甘くはなかった。その清々しい嘘の様な液体は体温と融けあい、自分の幼稚さ、それでいて溢れ出そうな体熱を幸樹に感じさせた。それは精通にも似ていて、酒にはこんな放熱があるのだ、と燻った自分を思い返し苦笑してしまうほどであった。
「ね、キミ、ヨシノクンだっけ・・・、免許とか持ってんの?」
話の輪に入っていない面持ちの緊張した幸樹に、藍田はグラスを鳴らしながらほろ酔い気分で話しかけてきた。
「今はありません、大学へ入ってから自動車の免許は取ろうと思っていますけど」
「それは社会に出てからの要普免ってヤツだよね?バイクって興味ない?面白いよ、なんて言うかさ、バーンって風を切っていくのは浪漫っていうの?スカッとするそんな感じのさ」
と言う藍田に、ミユはアイスピックを弄びながら話に割り込んできた。
「あなたが教えてあげれば?プロなんだから」
藍田伸太郎は、プロのロードレーサーであった。父親の趣味で幼少の頃からサーキットで走っていたらしい。鋭いカーブの攻めでアマチュアの中でいくつも賞を取り、その後もプライベートチームのメーカーにマシンを与えられ、全日本選手権でも活躍した、言わばレース界でも名の知れた男であった。その話をされた時に藍田の年齢を確かに聞いたのだが憶えていない。それでも、二十代半ばくらいではなかっただろうかと思う。
年齢と言えば、ミユは幸樹より三つ年上であった。化粧のせいなのか、その大人びた雰囲気、時々見え隠れする少女のような笑顔は、本人の意識していない色気となっているように感じた。それは誰かに似ていると思ったが、正面の壁に掛けられた絵画に意識を集中させ、そこに描かれていた一輪挿しの椿の花を眺めていた。それは仄暗いライトによってぼんやりと照らし出され、これから枯れゆくような翳りがあるようにも見えた。
そんなふうに何もないところから想像の次元を変化させていく癖は、その頃に身に付けたものだったのかも知れない。焦点を暈かしていくと気持ちが落ち着いてくるのは、それまで見た夢を記憶の中から無に帰すようなものである。
濠村と藍田はオートバイのパーツの話をしているようだった。ミユもその話を聞いていたようだが、テーブル席の客にカクテルのおかわりを注文され、それに頷くと引き締まった表情になり作業を始めた。目の前には見たこともない道具を並べ、何をどういう手順で作っていくのか分からなかったが、それは手際が良く気持ち良かった。
「この店はどうして椿という名前なんですか?」
話しかけたのは間違いだっただろうかと少しだけ後悔したのだが、ミユは幸樹の顔を見て微笑した。
「ここって元々は私の店じゃないから、どうしてって訊かれると困るけれど、ちょっと変わったオーナーでね、椿の花が好きなのよ」
ミユは会話に夢中になっている藍田の方を一瞥して、シェイカーからグラスに注ぎこまれた液体を確認した。
「可憐な感じがしますよね」
「そうなんだけど、ねぇ、椿の最後って知ってる?薔薇みたいに少しづつ花弁が落ちていくんじゃなくて、首が折れるみたいにそれごとボロって落ちるの」
そう言われてみれば、そうなのかも知れないと思った。何処で見たのか、積もった白い雪の上に落ちた椿を憶えている。それは女の紅の色を思い出させた。
「確かに・・・」
「オーナーはその潔さが好きなんだって。ちょっと不吉よね」
そう言ったミユはカウンターの端の狭い場所から注文されたカクテルをテーブル席へと運んで行った。
椿のように可憐な女・・・
椿の最後は・・・
幸樹はそんな記憶のシーンをぼんやりと廻していろんなことを重ねていた。可憐に散っていった花が映ると思わず目を閉じた。パチパチというラップ現象にも似た音が聞こえたような気がしたと思うと、全身に鳥肌が立つような寒気が走った。
「ねえ、幸樹くんって綺麗な顔してるのね。女の子みたい」
目を開いて、ふと気付けば幸樹の座る隣の席にミユがいた。その言葉は幸樹の耳元で囁かれた。その時、自分の身体の中で確かな感情の起伏があり、それは汗となって、しかも呼吸が短くなっていく意識があった。自分の血液が沸き立つ感覚、それは足の爪先から頭の髪の毛の一番長い端のところまで凄い速さで到達したような気がした。幸樹は手に持ったグラスをじっと見ていた。もしもその時、左隣のミユと目が合うようなことがあれば、どうなっていたであろうか。
幸樹は、心の中にある自分の影を誰にも見せたくはないと思った。そして、表情をも読まれたくはなかった。本当は幸樹自身がただ黙って消えてしまいたくなった。
「ちょっとトイレ・・・」
そう言って俯いたままの姿勢で、幸樹はその場を離れた。ミユは、自分が何か悪いことを云ったのではないかと困惑したかも知れないが、それを幸樹にはどうすることも出来なかった。
奥に設置された狭いトイレの中で両腕を抱えこみ、幸樹は小さく震えていた。泣いている訳ではなかった。それは緊張のようなものだと推測していたが、それに対する薬が処方されているわけでもない、兎に角、時間をかけて落ち着かせることしか出来なかった。
もし、こんな時に何が欲しいのかと訊いてくれる誰かがいたならば、幸樹は「本当の自分」と答えていたことだろう。それがどんなものなのか分かるはずもないが・・・・。
「どうした? 大丈夫か?」ややあって濠村が外からノックをする。
「いや、何でもない。うん、少し飲み過ぎたかも」
幸樹は、自分は嘘を吐いた、と思った。未成年ながら自分がアルコール慣れしているのは分かっていたし、現に酔っ払っていたわけでもない。悟られぬよう、ゆっくりと中から出てきて、小さな洗面所で顔を洗った。それからすぐに席へ戻ると、ミユが「大丈夫?」と一言だけ声を掛けてくれたが、それから後はミユの方から話しかけてくることはなかった。
結局のところ、この日は型通りの挨拶は交わしただけで、その時点の幸樹の中で、ミユの存在は通り過ぎていくだけの女でなければならなかったのだと感じていた。何もかも極度な緊張が作り出した失態に過ぎなかったのだろうとは思ってはいたのだが・・・。
日付が変わる頃に、幸樹が初めて過ごした歌舞伎町の夜は、濠村と一緒にタクシーに乗ったところで終わった。
部屋の戻るととにかく静かであった。歌舞伎町は眠らない街である、人はあそこをそんなふうに語っている。それは歓楽という言葉だけで終わるものではない。それぞれの思惑とは別に、何か得体の知れない吹き溜まりがあちらこちらに見え隠れしている印象がある。それは幸樹にとっても興味深かった街だと言えるが、そのほんのひとかけらしか知らない人間が語れる場所でもないと言うことは理解しているつもりだった。
いろんなことを考えていると、自分の部屋で眠れぬ時間を過ごすことになってしまったのは何故であろうか。そう思った瞬間に、きっと、街ではなく「女」ではないかと考究している自分に幸樹自身が驚いていた。
手の中には「椿」のマッチがあった。その内箱の裏側にはミユの手書きで自宅と思われる電話番号が記されていたのを見るともなく眺めた幸樹は、机の下の屑入れにそれを放り投げた。
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