― 発 条 ―

友納 勲

 遠くで柱時計の鳴る音が聞こえている。

 すっきりと浮かび上がることはない。

 私は微睡みの中を横になり、記憶と夢想の間を彷徨っている。

 もうずっとこんな状態のまま、桁外れの時間が過ぎていった気もする。

 ボーン、ボーン、ボーン・・・・一定のテンポで響き渡る音。

 ふと、何時であるのか確かめたくなり、意識の境でぼんやりと数えてみた。

 九、十、十一、十二、十三、十四・・・?

 それは十二回で鳴り止むことなく・・・。

 私はそれを疑問に思いながら神経を集中させ、もしかすると途中で数え間違ったのかも知れないと考えなおす。

 そして、ゆっくりと瞼を開く。

 何もない・・・。

 確かに眼は開いているはずなのに、少しの光も見つけることが出来ない。

 それでも尚、音は続いている。

 無限の闇の拡がりに閉ざされながら、空しく、それでも何かを必死で探さなくてはならない焦りのようなものが付き纏う。

 その黒は単なる暗闇であるのか、それとも虚無なのか・・・。

 やがて、力が尽きてしまったようにゆっくりと音は止まる。

 最後には、くぐもったような長い残響が落ちてゆく。

 私は顔をあげ闇の中で辺りを見回してもみたが、全てを埋め尽くした視界に燈はない。

 さっきまで聞こえていたのは時計の鳴る音ではなかったのか?

 頭の奥で、そんな思いに駆られる。

 そういえば、私の家には柱時計などなかったはずだ。

 今、自分は確かに横たわり、眼を見開いているのだが、いったい何処に放り投げられたのだろうか、そんな疑問を否応なしに押し付けられた。

 暗闇に不安を覚えた全身がふいに反応して総毛立つ。

 突然に起こった発作のように、激しい動悸がして、奥歯を噛みしめるような痛みがこみあげてくる。

 もう二度と抜け出す事が不可能であるような闇の穴。

 恐怖に焦れば焦るほど苦しみの縺れた糸が絡まるように息さえも苦しくなる。

 震えだす乾いた口唇、喉元まで飛び出すのではないかと思われる心臓。

 慌てふためきながら記憶を辿り、その理由を探し覗きみるのだが、影もなければ輪郭もない。

 光を失う、というのはそういうことなのだ、と半ば諦める自分が闇の中で見えた気がした。

 再び目を閉じると、どこからともなくヒューヒューと抜けるような風の音が届いてくる。

 闇夜の中で遠く吹雪いているような、しかし、誰かの呻き声にも似ていて、そう思うと不気味さが倍になって心を疼かせた。

 身体中に寒気が走り出し、急激に体温が低下していったような、それを感じる事さえ面倒になるほどの速さで意識が奪われてゆくのが判る。

 不可解な眩暈に似た睡魔が渦を巻き、身体中の血液が凍ってしまうのではないかと神経を蘇らせてみようとするが、状況を呑みこめないまま、やがて呼吸そのものがより細くなっていくのを感じる。

 そんな死に至るような感覚の中で、ふと鼻を擽る臭いに気が付いた。

 それは何処から流れて来るか見当もつかないが、油と錆の入り混じったような刺激臭として入り込んでくる。

 それによって記憶のかけらが繋ぎ合わさるような気もするのだが、記憶を並べ替えようとすると悪感はますます増幅し、煤のような気怠さだけが脳の襞に貼りついてしまう。

 きっと夢を見ているのだ、そう思うしかない。

 闇はじりじりと私の肢体を捩らせ始めた。

 その痛みは麻痺しているのか、少しだけ感じられたり、遠のいたりを繰り返す。

 そして、涙さえ凍りついてしまうほどの冷たさの中に置き去りにされた切なさも現われてくる。

 頬を伝う液体、それはもしかすると無意識のうちに流れ出している汗なのかも知れない。

 私は自分の体から湧き出る分泌物から虫が湧いて、そこを這っているような触感を覚える。

 時間が経つに連れ、皮膚を破り、内臓を貪られるような感覚を黙って受け入れる。

 ひとり、寂しくて辛い、如何してそんな気持ちになるのか思い出せない。

 やはり私は泣いているのだ。

 溢れた涙は瞬く間に凍りつきポロポロと地面へと落ちていく。

 そして、そこに起こった音群が憶えのあるコードを奏で、少しだけ懐かしさに合わさるような感情を浮かばせる。

 あなたが愛したあの叙情的な旋律。

 それを思い出した瞬間、凍った闇の中で捩られていた何かが弾け跳びパチンという音を発した。

 それは終わりであり、始まりでもあるような・・・。

 私はもしかすると、微かに笑ったかも知れない。

 そして、やっとここへと辿り着いた、そんな安息が沁み込んで拡がっていくのをゆっくりと感じた。

 第一章     夢見昼顔 

 盛夏、明け方から妙な暑さが纏わりいて意識が朦朧としている。淀んだ空気の中に入ってくる光に音はなく、薄く閉じた瞼には塵が浮かんでいるのが判る。幸樹は汗で濡れた自分の首筋を撫で、何処を彷徨っていたのか?そう自問しながら生きていることを確かめるのが日課のようになっている。

 日々の労働で疲れが溜まっているだけ、単純にそう思いたかった。往きつく先はそこで終わりだった。

 勤めている印刷工場は、今日から三日間の盆休みに入った。納期を迫られていた仕事にも目処が立ち、少し遅めの帰宅にはなったが、部屋で待つ誰かがいるわけでもない。ひとりで過ごせば雑念は忍び寄ってくるのだから、残業も悪くはないと思いながら部屋の壁に凭れ酒を呑む。後は何もせずに過ごし、同じ夢を見ないようにと静かに願いながら床に就くというのが日常となっているようにも感じられた。

 「幻を見ているような現実」。その言葉通り、何かの拍子で細胞が壊れている様や過去に外傷を負ったことによる部分的な記憶を消失とやらをぼんやり考えれば、状況把握など不可能に違いない。出来ることならそれが良い。まるで痴呆が進んだ老人のように思い込みを信じながら生きてゆけば、「現実にはない夢」だったと疑う余地はなくなる。

 何度も陥った症状である。それが単なる夢と言えるものであれば、自分はどれだけの安堵感を覚えるだろう。それは紛れもなく悪夢なのである。闇に囲まれたその時、言葉には出来ないほどの痛覚を孤独に噛締めるしかない。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら、もう相当に疲れている。巻き上げられた心は捩じれるばかりで、いつになれば、この呪縛から解き放たれるのか、考えるだけでも疲労が蓄積していく自分が情けなかった。

何十年も前に不自由になった左足を引き摺り、再びの記憶を呼ぶ。

 不摂生な生活も含めて、気持ちのなさに関しては、今に始まった事ではない。朝八時に出勤し、エアコンさえ効かなくなるほどのスペースの中、大型の印刷機械と汗だくで格闘するという毎日。幸樹は資格も特殊技能も経験も持ち合わせてはいないために、印刷途中のトラブルの対処の仕方さえ心得てはいない。面倒なことは奥の作業場にいる社長を呼べば良いことだ、と考えている。沿線からも程遠い従業員数が五名にも満たない小さな会社、この仕事を始めて四ヶ月が過ぎた。

 芳野幸樹、四十六歳。

 適応した職も少なく、たまたま駅で配られていたフリーペーパーを見開くと、年齢も経験も不問という求人募集を目にした。仕事など何でも良かった。ただし、スーツを着用した営業のような多くの人間と係わる仕事は出来そうになかった。

 その日、幸樹は私服のまま面接へ赴き、あまり自分をアピールすることは出来なかったが即採用された。そして、研修中と称したアルバイト、あまり高くはない時間給で支払われる給料は大した金額にはならなかったが、きちんと働いていれば、生活には困らない程度の手取りとなった。

 真面目で辛抱強い、それが社長夫婦の印象らしい。メンテナンスに訪れたメーカーの技師がそんなことを幸樹に教えてくれた。そのうち正社員として採用されるかも知れないが、この小さな有限会社に利益があるのかないのか、いつ倒産しても可笑しくはない。

 心の何処か、鼻で笑うような自分がいた。何れにせよ、幸樹にとっては一日が過ぎてしまえば、そんなことは如何でも良かった。

 ずっと点けっ放しだったテレビのモニターでは芸能人のスキャンダルを追うようなインタビューが映し出されていた。今はその声も虫の翅音のように耳から入り、幸樹の頭の中に届く頃には内容を把握することは出来なかった。

 夢に足を引っ張られたことは、ひどい気怠るさを澱ませて、集中力を低下させる。その生温い部屋の空気の中に漂うのは二酸化炭素だけではないか、と感じられた。

 如何して抜け出せないのか解からない。時間は心を癒してはくれない。日常生活を張りつめて送っているわけでもない。何もしない時間に入ると、時々そんなひどい疲労を連れて戻って来る。それは住む環境にも関係しているのではないかと考えると、それも否定出来ないような気はした。

 築四十年以上は経過していると思われる木造アパートの一階、それが今の幸樹の住処である。ここに住み始めて数年の月日が経ったが、毎月、家賃とは別に徴収される管理費が存在しながら、整備される箇所はほとんどない。バス・トイレ付きと謳われているものの、タイルが敷き詰められたあらゆる部分で腐食が進み、水周りは最悪、部屋全体の間取りは古臭く、隣の敷地いっぱいに建てられたマンションによって、昼間でも室内灯がなければ本を読むことさえ不可能なほどに陽当たりが悪いところである。そんな空間に万年床を造りだしているとなれば、凡そ黴臭さが充満して、健康な暮らしだと言えるはずもない。

 太陽の熱で焼けたのか朱色になってしまった時代背景が見せる赤い瓦、外壁は何度か塗りなおされたと思われる痕跡があるが、雑に補修された部分は、染みが浮き出て罅割れてもいた。鉄骨製の階段はペンキが剥げ落ちて錆が進み、二階の住人が普通に上り下りしても建物全体がミシミシ揺れてしまう。 特に上階からの騒音はひどく、何もかもが筒抜けである。

 幸樹がここに住み始めて、人の入れ替わりは三度あった。気が付いた事は、そこで暮らす人間によって全く異なる音を出すということだった。それは生活を覗き見るような妙な気分でもある。六畳の和室とキッチンという幸樹の住む部屋と全く同じ作りの上階で今、その他人が何をしているのか目に見えるように分かってしまうのである。歩く音、風呂での鼻歌、トイレを使う音など、全ての生活音がそのまま下りて来る。

  一度だけ若い女がひとり、幸樹の住む部屋の上階に引っ越して来たことがあった。女が学生だったか社会人であったのか知る由もないが、今時にしては珍しく、タオルを持って挨拶をしにやってきたのである。その時の愛想とは裏腹に、建物伝いで耳に届く音、その後の生活ぶりが確かに顕われていると感じると、それはやはり外面と内面の違いに他ならないのか、という気もした。

 女が在宅している時は、ビートの効いた音楽が鳴り響いた。電話は内容まで判らないが、何に興奮するのか盛り上がりを高め大きな笑い声が深夜にも及んだ。ある晩は男を連れ込んだのか、粘りつくような喘ぎ声も聞こえてくることさえあった。

 それでも幸樹自身は、その女に対して何の興味も湧かなかったし、それはそれで気にしないでいることも出来たのだが、ここに住むのは幸樹だけではない。そんな素行は隣人からの苦情となり、大家にもいろいろと注意をされたようで、ふた月もしないうちに部屋を離れていった。

 いろんな出来事に、アパートと言うものは決してプライベートな場所ではない、と幸樹自身が再認識する機会にもなったが、あの女は何処へ住んだとしても、本人が理解しなければ同じ問題となって返ってくることだろうと想像できた。

 六世帯が入居可能なところに、今ははっきりとは分からないが、たぶん一階には幸樹だけが、二階に二世帯が離れた形で生活していると思う。他は空き家のまま空気と埃だけが澱んでいるのだと想像がつく。烈しい老朽化もそうだが、同じ家賃でも他を探せばもっと良いところはあるだろうと感じさせる貧相なアパートは、時代にも敬遠されているのかも知れない。

 元々は開拓されていない畑の真ん中に、随分と早くから建てられたものだろうと想像していた。そんな未開発だった町に、延長された地下鉄の路線の乗り入れが決まり、土地は一気に高騰、次々にマンションなどが建設された土地らしい。確かにこの周辺の建物を見渡すと、まだ旧くはないと感じられる物件が軒を連ねてもいる。

 「今度、このアパートを取り壊して新しくマンションを建てる事になったので立ち退いて欲しい」

 明日になって、そんなことを地主に言われても可笑しなことではない。ここは幸樹が生きてきた年月と同じくらいに退色している。

 しかし、何故だか分からないが、この部屋が妙に落ち着いていられる気もするのは不思議なことと言えた。反対にここを出て行くのが面倒だからではないか、と考えるのが本当のところなのではないかと感じてもいたが・・・。

 幸樹がここへ移り住んですぐのこと。転居があれば住民異動届の手続きをすみやかに行わなければならない、そんな国の法律なんて、という煩わしさはあったのだが、何か新しいことを始める時には、最初が肝心だと自分の背中を押すことも心掛けてきた。だからと言ってそれが何かに結びつくか如何かは別問題でもあったが、要はあとで面倒になるのが嫌なだけであると推測している。

 役所へ行くと、建物の屋上から<住み良い未来へ>と描かれたセンスのないデザインの垂れ幕がぶら下がっているのを目にした。しかし、それらを眺めていても、これからこの町で生きてゆく新たな期待も、何気ない不安も、胸を躍らせるような喜びさえも幸樹の中には湧いてこなかった。

 駅前には大型のスーパーマーケット、テラスを設けた洒落たレストラン、他には賑やかな電飾の居酒屋のチェーン店などが並んでいた。それでも、駅を少し外れてしまえば、今でも生かされた田畑が少なからず点在している町。役所はそんな中心部から見れば随分と離れた場所にあり、これは時代が継ぎ接ぎを重ねてきた足跡だと、何となく窺えたりもする。

 窓口で必要な登録を終えた幸樹は、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。大きな窓からの陽光は、ロビーの内部へ充分に差し込んでいて、そんな窓辺の片隅に掲示板として多くの貼紙があるのを目にし、周りに誰もいなかったという理由もあったのかも知れないが、足を止めてそれとなく上から順番に眺めた。

  「生後三週間の茶トラ猫を差し上げます―― オス、トイレしつけ済み。可愛がってくださる方、よろしくお願いいたします」

 幸樹は幼い頃、自分が猫を好きであったことを思い出していた。首輪を付けていても動物は家の中で飼うものではない、という父は、もともと猫が好きではなかったのだと思われるが、寒い夜に閉められた窓辺でウロウロする猫のアトムを可哀そうに思った幸樹は、甘い声で鳴かれることにいつも戸惑いを覚えていた。部屋の中へ入れて、それが父に見つかってしまえば、ひどく怒られるに決まっている。それでも幸樹は、アトムと一緒に布団の中で朝まで眠ったものだった。

 そんなアトムがいなくなってどのくらい経ったか、幸樹が神戸の実家を出てからの数十年間は、猫に限らず動物を飼ったことなど一度もない。

 里親募集のその貼紙を見て、幸樹は自分の余生を猫と共に送ることが出来れば良いなと、年寄り染みた考えを起こした。何故そう思ったのか理由は浮かばないのだが、その時には早速、返信用紙に必要事項を書き込んで応募箱へと放り込んでいた。

 はっきり覚えていたわけではないが、誓約書を見ればアパートでペットを飼うことは禁止されていたはずである。しかし、幸樹は心の何処かで大家に見つからなければ良いのだ、という考えを持っていたのは正直なところであった。

 その後にやってきた子猫は、目が開いたばかりでとても小さく、幸樹の心を和ませた。当初、ただ単に毛が茶色いと言うことでチャチャと呼んでいたが、、ある日、幸樹の酒のつまみであった“かっぱえびせん”を口にした時からエビセンと改名した。それがいつ頃からだったのか覚えてはいない。

 エビセンは外猫であり家猫であった。部屋には、たとえ泥棒が入ったとしても持って行く高価なものはない。エビセンの出入りのために、窓は開放した状態にしておいた。しかし、冬場は、さすがに寒く、通り抜けが出来るくらいに小さくする。エビセンが部屋にいる時には閉め、外へ出て行きたい時にはちゃんと合図をするのだぞ、というそんな勝手な約束を猫に向かって語りかけたり、束の間、その頃の幸樹は穏やかな気持ちに包まれた。エビセンは賢い猫のように幸樹を見上げニャーと鳴いた。

 幸樹は休みの日に出掛けることがほとんどなかった。ましてや、この部屋に誰かを招くことも大音量で音楽を鳴らすなどということもしなかった。ただ、部屋の中でぼんやりと過ごしている事が多かった。

 山盛りになってしまった煙草の吸殻を、ある意味で芸術ではないだろうかと感心しながら眺めていたり、その傍らで、飲んで空になったビールの缶を意味もなく回してみたり、潰してみたり・・・。

 それは他人が見れば、志を失くした人間のドキュメンタリーを映し出しているシーンを思い起こさせたかも知れない。

 酒と煙草の日々------The Days Of Wine And Roses

 薔薇など何処にもない・・・。

 幸樹の中で、曲の旋律だけが浮遊し、ずいぶんと遠くまで来過ぎてしまったのではないかと、弱ってしまった心だけが擦られていた。

 そんな生活環境の中で、内臓の何処かに異常を来たしても不思議ではないはずだが、これと言って病魔に犯されてしまった様子もなかった。そう感じると自分がしぶとい害虫のようにも思えてきて、時々、思い出したように苦笑してしまったりすることもある。 

 今日もエビセンの姿は何処にもなかったが、点いているテレビの映像の端に記された時刻を見ると、既に午後二時を回っていた。玄関のドアからは情けないほどの風が流れ、汗ばんだ手で取り出した煙草が、残り数本であることに気付いた。

 足許に猫缶が落ちているのを目にして、自分は朝から何も口にしていなかったと幸樹は思った。しかし、昼食を摂ると言う時刻にしては半端な間であるかも知れない。そんなことを考えながら、ここから歩いて数分のコンビニエンス・ストアまでちょっと出掛けてみよう、と珍しくそう思った自分を少しだけ新鮮に感じた。

  草臥れたTシャツ、数箇所に亘って破れたブルー・ジーンズのポケットに財布を差し込み、踏み潰したスニーカーを突っかけて幸樹は部屋を出た。

 アパートの前の狭い路地を歩いていくと、小さな川の前に出る。緩やかなスロープから歩道専用の橋を渡る場所に立つと草いきれと向こうから吹いてくるわずかな風があった。

 橋を渡りきると、私道をひとつ挟んで木々の生い茂った神社がある。その匂いからだろうか、埃と共に水気を含んだ空気の中を彷徨うような別世界が内側へ誘おうとしている、幸樹はそんな気がして立ち止まった。やはり、少しだけそれを拒む感情が走ったので、わざとそちらへは足を向けずに、斜め右の畦道から再び住宅街へと入ってみた。

 ほんの数分間歩いたというだけなのに、太陽は肌を刺し、背中や胸に無数の汗を貼り付ける暑さが押し寄せた。意識を溶かすような気がして、眼から見える景色は輪郭だけが残っている感じがしたが、何となくそれだけを頼りに歩き続けてた。

  大通りへ出てコンビニの正面入り口の透き通った店内を覗くと、数人の客と店員が目に入った。店のガラスのロゴの周りには、虫の死骸のようなものが白くなって無数に貼り付いていた。何故に死んでしまったのかは分からないが、幸樹の気持ちの中で少しだけ痒みが生じた後、声には出さずに「生あるものはいつか死ぬ」と呟いた。

 冷房の効いた店内は寒いくらいに冷えていた。ここに勤めている人間はきっと暑がりなのだろう、幸樹はそんなことを思いながら幾度となく同じ場所を廻って、やがて汗が退いたのを自覚する。そして、何を食べれば良いのかと考えた時、気持ちの中で段々とそれも億劫になっていった。

 その後は、レジの反対側に置かれた雑誌や漫画を立ち読みするともなく開いて食欲を欠いてしまう。結局はセブンスターと六個入りの缶ビールだけを買いその場を離れ、幸樹は、またかという気持ちでいる自分をぼんやりと感じとった。そんなぐずぐずした性格を幸樹自身はよく解かっていたし、諦めが早い事も知っていた。そして、ある意味では、それを自認さえしていた。

 店を出てすぐさま、幸樹は買ったばかりの煙草を抜いた。一般的にコンビニの出入り口の傍らに灰皿が設置された場所というものがあるが、それは喫煙所ではなく路上で歩き煙草をして来たお客様はここで消してください、という意味だと考えられる。しかし、そこに灰皿があるのを見て、煙草を吸いたいという気持ちが湧いてしまった。幸樹は目を細め、出入り口での客人の妨げにならないように端に寄って火を点けた。

 日盛りの暑さは幸樹の皮膚を刺し生気を吸い取っているようにも思えた。それでも、滲み出てくる汗を待つように、煙草が短くなるまでその場にじっと佇んでいた。その日も大きな夏の入道雲は、夕立を背負うように、幸樹の前にゆっくりと聳え立っていたのである。

 幹線道路のように、さほど車の量は多くはないが、目の前に往復四車線の道路が設けられている。時々大きなトラックが往き来するが、今は右にも左にも見える車はなかった。

  百メートルほど先のアスファルトに目をやると、揺れ動く夏の陽炎のような光の屈折があることに気がついた。人間の耳に届く周波数が限界を超えてしまったような静けさがして、ほんの一瞬だけ風に吹かれたような錯覚もあった。

 幻と呼ぶに相応しい色を醸し出した風のようだった。何故そんなふうに思ったのか・・・。

 ひとりの女がこちら側を伺うように立ち竦んでいる。

 しばらく凝視していると、何故かその存在を確認したいという思いに駆られた。しかし、近くまで行ってみれば、きっと消えてなくなるような予感もしていた。

 それはまるで逃げ水のように・・・。

  「ミ・・ユ・・・」

  幸樹の時間がそこで止まった。銜えていた煙草の煙だけが澱み揺れ動いていた。いつの間にか、太陽の熱にでも侵されてしまったように呆然としていたかも知れない。そして、もう一度だけ目を凝らして息を呑んだ。

  女はセロファンに包まれたたくさんの向日葵を胸に抱えて、こちらを見て微笑していた。ずいぶんと離れたところにいるはずなのに、愛想を続けたままこちらへ向けて手を振ってみせたのが判るようだった。

  幸樹は吸い寄せられるようにゆっくりそちらの方向へと歩いていた。それは近づけば近づくほど、幸樹にとって懐かしさの想いでいっぱいになった。

 だんだんと足が速くなって、道路を斜めに渡って女の前にたどり着く。荒くなってしまった呼吸を整えるように大きく息を吸い込むと、遠い記憶も体の中に溜め込まれたように膨れ上がり、声を出して泣きたくなった。

 消えることはなかった。

  「幸樹・・・」

 女の唇から言葉が発せられ、周りの空気が揺れると、それに押されるように倒れてしまうのではないかというほど眩暈を感じた。

 何十年ぶりに聞くその声。それは幸樹にとって恐怖でもあった。

 無言のままの幸樹は、眼を瞬かせた。そして、返す言葉が出てこない。

 背後から突然、ふたりの女子高生が幸樹の肩とぶつかり、驚いた様子も見せず向こう側へ去っていった。子供の安っぽいコロンの香りが鼻を掠めた。幸樹はそこで現実に引き戻されたような気になった。

 またつまらぬ夢の続きを見ているのかも知れない、そんなことを考えた。

 これまでにも白昼夢のようなものをいくつか見たことはあった。その度に、痣にも似た模様を心に残してしまうほど身体のあらゆるところに鈍い痛みを覚えていたが、ミユは幸樹の目の前にいた。それは自分のよく知っているミユであった。

 記憶は眠らずに、今、幸樹の心を叩いているのは、幻覚にも似た自覚?

 少しだけ埃っぽいような背の高い夏草が道の向こうの空き地に揺れている。暑さで蒸発していくような風がミユの髪を撫で、しかし、それは透明でもあった。

  「元気そう・・・だ・・ね」

 やっとのことでそう言った自分の声が、少しだけ上擦っているのが分かったが、ミユは幸樹の方を向いたまま大きな眼を瞬かせてなおも笑っていた。

  失くしたもの・・・。

 それは思わぬところから目の前に現われる。

 忘れたわけではない・・・。それは季節に限らず、時間も何もなく、何処へ居ても愛し続け、心の中に棲む続けていたもの。

  「驚いた?」

 その言葉を聞いた時に、幸樹は嗚咽が込み上げて来るのを必死で堪えた。喉をヒクヒクと震わせながら、それに答えようとする。

  「本当・・・ミユ?」

 それはきちんと言葉にはならなかった。

  「はい」

 返事があった。

 やはり、自分はひどく疲れているのではないかと思った。楽しみにしていた新刊の推理小説をまだ一頁も読んでいないのに眠りの中に引き摺り込まれるような気怠さがした。

 再び息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。それでも微笑を続けるミユを見ていると、夢ではないような・・・。

  「私は、幸樹に逢いに来たのよ。信じないかも知れないけど、今は・・・、今は時間旅行をしている。その途中・・・」

  ミユはあっさりとそう言った後、幸樹から視線を外し少しだけ俯いた。まるでシンデレラの魔法、時間が来れば同時に解けて無くなってしまうような寂しい仕草にも思えた。

  「・・・意味がわからない、僕はやっぱり夢を・・・」

  間違いなくミユは幽霊、幸樹は心の中でそんなことを思いながら、首を振った。

 ミユは・・・

 ミユは、もうずっと前に死んでしまったはず・・・そう、あの時・・・

 そう呟きかけて、幸樹は慌てて唇を噛んだ。そんなことを口にすれば、夢も覚めて全てが、ミユが、消えてしまうかも知れないという不安が過ぎったからだ。

 それでも、微笑を続けるミユは、幸樹の目の前に存在し続けた。

 この世にはまだまだ科学では証明出来ない不思議な現象が多数にある。これもそのひとつだと信じてしまえば、それで済むことではあったが、夢でもいい・・・、ミユが消えてしまわないで欲しいと懇願しているのは幸樹自身であった。しかし、仮にミユの言う通り、何らかの時間旅行が可能だとしたら、曖昧でありながらも、それを受け入れる事は自分で不可能ではないと思った。

 確かに、幸樹が四十六歳という年齢に対し、ミユはあの頃のままの若さがある。その時間の悪戯というものは、幸樹に何かしらの旅を命ぜられたような気分にもさせた。

 もう遠い昔の話、幸樹が「秋元美優」と出逢い、互いに惹かれ愛し合い、そして一緒に生きたあの時間は、あまりにも美しすぎて、そして哀しすぎた。

 第二章      想 紅

 1.

 芳野幸樹、十八歳。

 幸樹は神戸で生まれ、小中高と地元の学校を卒業した後に、大阪にあった私立大学を受験するも現役で合格することは出来なかった。

 実家では父親とふたり暮らし。定年には程遠い、大手の食品メーカーの営業課長であった父に九州への転勤の辞令が下りたのも同じ年度末のことである。

 単身赴任をすることに決めたという父に対して、自分は上京して都内の予備校に通いながら次年の試験を目指そうと考えている気持ちを伝えた。何故そんなことを口にしたのか、はっきりした理由は思い浮かばないが、心の何処かで父がそれを許すはずはないと決めつけていたところも確かにあったような気はしている。

 この先、神戸に残っていたとしても、一人で暮らすことには変わりないのだが、受験に向けて緊張を失くしてしまうかも知れないという不安は正直なところ拭いきれなかった。新しい環境に身を置くことは自分のプラスになる、そんな尤もらしいことを切々と述べると、拍子抜けするほどに諾唯され、長くなるだろうと思われていた話はすぐに終わってしまった。

 父は幸樹のひとり立ちを認めたのか、それとも自分の都合だったのかは判らない。営業と言う仕事柄、これまでも出張が少なかったとは言えないが、当時の幸樹の身の回りのことは近くに住む父の妹、つまり幸樹の叔母が世話をしてくれることが多くなっていた。確かに、この先もそれに甘んじて生活するのは如何かと父自身が感じていたのかも知れない。

  高校の在学中に進路相談というものが行なわれた時も、保護者として同席してくれたのは叔母であった。担任教師はどんなところへ進みたいのかと幸樹に訊いてきた。正直なところ将来の展望など考えたこともなかったが、あまり意見されたくなかったこともあり、適当な返事で誤魔化してその場を切り抜け、叔母は当たり障りない話だけを父に伝えてくれたようで、その後に進路についてとやかく云われた記憶もない。

 何れにしても、理数系があまり得意ではなかったので、文系でしかも、それなりの名前のある大学に進学出来れば格好は付く、という安易な気持ちで受験に臨んでいたのは正直なところであった。当然の結果、その年の不合格は目に見えていたものだと言えた。勿論、模擬試験の偏差値から判断しても合格ラインに届くことはない成績であったのだが・・・。

 親と子が離れて暮らすことが決まったその日、父の持ち家だと思っていたこの建物が、実は借家であったことを初めて知ることとなった。それならこの家を守る者がいなくても何の問題もないのだと思ったのだが、ここで生まれ、ここで育った幸樹にとって、勿論、父にとっても、それは故郷を失くすということであった。

 幸樹はこの家の庭が好きだった。その頃に新築した周辺の建物に比べれば、家は恥ずかしいほどに古めかしかったが、それに対して庭の広さは充分にあった。その真ん中では、いつから存在していただろうか、大きくはない白樫の木があり、縁側の籐の椅子に腰掛け木漏れ日の中で浴びる光と風は格別なものだと感じていた。

 夏にはたくさんの蝉が鳴き、秋には風で木の葉が擦れ、どんぐりがあちらこちらに落ちた。幼い頃には木登りもした記憶もあれば、枯葉をかき集めて焚き火も愉しみのひとつであった。

 几帳面だった父は、そんな庭の手入れを好んでやっていた。木の向こう側の壁沿いにはたくさんの花を植え、休みの日には惚けるほど一日中それらを眺め、花の実が付く頃には手にとってそれらの香りを楽しむ光景を遠くから目にした。それは普段の厳かな父の顔ではなく、優しい表情を浮かべる他人のようにも思えた。

 そして、父は幸樹よりも一足先に九州へ引っ越していった。幸樹も一週間後にはここを出て行かなければならなかった。自分の部屋の整理していた手を休め、もうすっかり荷が無くなってしまった階下へ行き、ぼんやりとそれらを見渡しながら鼻で空気を吸いこんだ。他所の家にいけばそれなりの匂いがあるのだが、自分の住んでいた家の匂いと言うものがどんな空気であるのかを探そうとした。しかし、形容できる言葉もなければ、そういった匂いそのものも存在しないように思えた。

 ふと気付くと、テレビの置いてあった部屋の柱に、鉛筆で背丈を記した線の跡を見つけた。そこには隣町に住む従兄弟の稔兄ちゃんや幼なじみの陽子ちゃんの印もあったが、幸樹、十歳と書かれた文字に目が釘付けになった。その場所は、いつか買い足した書棚の後ろに位置していて、長年に渡り隠れていたようである。よく見るとその十歳が最後に記されたもので、当時の自分の背丈からしてみればそれはあまりにも小さく、時の流れを大いに感じさせた。

 幸樹はそこに書かれた文字にそっと触れて目を閉じた。

 ため息が出た。

 そして、何もなかったように自分の部屋へ戻り再び荷造りを始めた。

 

 幸樹が東京へ出てから最初に住んだところは、桜上水の小さな下宿だった。下宿と言っても傍に世話人がいるわけではなく、共同便所、共同の洗い場、風呂はなく、下駄箱の脇の小さなテーブルにピンクの電話が一台だけ設置されているようなところであった。

 大学を目指す受験生が、安い家賃で生活が出来るようにと提供された共同アパートである。薄い壁一枚に隔てられた四つの部屋、必要以上に音楽を聴いたり、騒いだりする者などひとりもいないという、同士の暗黙のマナーが存在していた。そんな緊張感は勉学に必要な集中力が増して来る利点もあったようだが、幸樹はその下宿を「巣」だと考えていた。

 廊下を挟んだ向かいの部屋には、医学部を目指す二浪目の「濠村隆夫」という男が住んでいた。濠村の話によれば、一年目の浪人生活は散々なものであったらしい。都内の自宅から予備校へ通う毎日を送ってはいたが、勉強を始めたものの雑念が払えず、ある日、急に勉強を放棄したくなったのだと言う。それは、高校時代には寝るのも惜しまずに受験に備えて絶対的な自信があった結果が、如何して実らなかったのかという事実から抜け出すことが出来なかったのだと教えてくれた。そして、妥協に終わった年が過ぎ、開業医である親から離れ、再び新たな気持ちで二年目の浪人生活を迎えるのに、この貧相な下宿を選んだという、そんな風変わりな男であった。

 幸樹が高校に通っていた頃は、勉強そのものを親や教師にさせられていたという意識がずっとあった。本来ならば、ただ単に進学と言う理由だけではなく、そこに将来に向けて何かを志すという考えが必要であるはずだが、正直を言えば、当時の気持ちの中にはそんなものなど微塵もない。

 しかし、入学後に分かったことであるが、大半の人間は志など何もなく、ただ漠然と何らかの扉を与えられるという意味で大学へ入る者も多いと知った。それは全く自分と同じではないか、と思った。ある意味、少し安心もしたのだが、この無責任さは後に自身の後悔の中に入るのではないかと感じたりしている。

 幸樹は「不屈」と書いた紙を机の前に貼り、入試までの綿密なスケジュールを組んでいた。それは計画にしてみれば完璧だったように思うが、濠村の言った雑念が幸樹に襲いかかって来るのも時間の問題であった。

 それは、ひとつ間違えば自発的に勉学に勤しむという当り前の事が出来ない人間になってしまうという濠村の話もあり、遅れた分を取り戻すのは至難の業となる不安をいつも抱えていた。急がなければ取り残される、それは恥である、周りとは対等で、いや、出来るならばそこから抜き出て先の余裕が欲しい、と考えていたことこそ真に自滅そのもので、それは自分の弱さでしかないのだと気付いていく。再びの嫌悪に苛まれることになり、悪循環は泥の上で足踏みをするようで、汚れた自分に幻滅するような気持ちも幸樹の中には生まれていた。

 そんな気持ちの垢を落とすということではないが、幸樹は一日置きに銭湯へ行くことに決めていた。当り前のように実家で風呂に入っていた幸樹には、それに慣れるまでは妙な気持ちもあったが、他人と同じ湯船に入ることの抵抗があったわけでもなく、裸になるのが恥ずかしいということもなかった。客層ではやはり老人が目立っていたが、苦学生や受験生の顔を見ることも少なくはなかった。

 そんなある晩の事、身体を洗っていた幸樹の隣に座る男がいた。名前は忘れたが、同じ予備校に通う、確かに見たことのある男だった。彼もまた幸樹に気付いたらしく、「やあ」と、まるで同窓会のクラスメイトに町で逢ったような屈託ない声を掛けてきた。

 「最近どう?」

 「え?ん、まあ・・・」

 幸樹の曖昧な返事に彼は薄く笑いながら勢いよく喋り始めた。

 「まあ・・・か。確かに予備校の大きな教室で授業を受けていたら、講師だけが先を進んでる感じがしないわけじゃないけど、あそこってそんなにレベルが高いところじゃないと思うよ」

 彼の言う事に異論はないのだが、その口調が幸樹の気分を悪くさせた。だからと言って、それを無視出来るほど嫌な人間にはなれないと幸樹は自覚した。

 「そうだね、そんな気もするけど」

 「でも苦しみは受験ばかりじゃなくて、その後の人生の中にももっと過酷なことは待ち受けていると思うんだ。それは、誰が語っても、結局はその場面が巡ってきた時にしか実感が湧かないと思う」

 その言葉はもっとも重い物を幸樹に背負わせた。今考えても、あの時の彼の言ったことは正論であると思う。

 「今頑張らなきゃいけないのは分かっているけれど、なかなか思うようには進まなくてね」

 辛うじて幸樹がそう答えると、肩をすくめて短く笑う彼は続けた。

 「そんな連中の言い分は、少し休まなきゃとか、もう一浪して次で頑張ろう、なんて諦めが先に立つんだよ。それをあいつらマイペースって呼んだりしているけど、僕から言わせればそれは最も怠惰な言い訳だよな。そう思わない?」

 幸樹は何故か濠村の顔が浮かんだ。何も応えたくはなかった。

 「僕はいつも一番前の席で熱心にノートをとっているんだけど、予備校の授業を受けてないヤツって結構いるんだよな。あれは余裕なんかじゃないとは思うけどさ」

 余裕という言葉を聞いて、既に自分も逃げ腰であることに気付いた。しかも、彼のように、そういった熱い人生観のようなものを語ることなど出来るはずもない。たとえそれが嘯いたものであったとしても、語ることは自分を責めるような気にもさせて、焦燥感が増すばかりになりそうで嫌になった。

 その後の論理的な彼の発言を適当に相槌を打ちながら聞き流し、いつのまにかその場を離れていた。彼は、幸樹を熱くない男だと思ったかも知れなかった。それから予備校で顔を合わせることがあっても挨拶以外の話をすることさえ避けるようになっていた。

 彼がどこの大学を卒業して、その後にどんな人生を送ったかは知る由もない。相変わらず、人との係わりの中で自分を語っているだろうか。しかし、生きることの意味と履き違えてしまうと、世の中の落とし穴は無数に存在していると思った。彼もそうした人間のひとりになってしまったかも知れないが、自分と波長が合わない人間とはいつまでも交信は取れないものである。そしてそれは幸樹にとっては何の関係もないことなのだと解かると、思い出すことも馬鹿馬鹿しくなっていった・・・。

 それとは逆に、濠村とは気の合う友達になれた気がしていた。医者である両親を持つ子供の宿命はあるのだろうが、そんな親の庇護に甘えることなく、また自分を自慢するようなところもなく、周りに気を配る姿勢が幸樹の中の好感度を上げていた。

 濠村はよく「ブレイク!」と言って幸樹を自分の部屋に招いた。その都度にインスタント・コーヒーをご馳走になりながら、他愛もない談笑の中では、高校までずっと柔道をやっていたという話を聞くことがあった。その体つき、野太い声、太い指などに眼を向けると、なるほど、と納得したのだが、意外にも明け透けな性格を感じさせる風貌からしてみれば、部屋の中がきちんと整頓されており、コーヒーカップを持つ手にも品の良さが感じられた。それは家庭環境にあったのだろうか。そんなアンバランスさも確かに付き合いやすい空気を漂わせて、その後も一緒に飯を食う機会も増えていった。

 そうやって知らない土地に来て、新しい友達が増えるのは楽しみでもあった。それは、やり直すことにも似ているだろうし、何よりもずっと東京に憧れを抱いていた自分がいたことの再認識でもあった。

 東京という街は日本の文化の発信源であるような風習が確かにあったが、何かを始めるのに、また、選択肢が多数存在しているということに魅力を感じていた。正直を言えば、自分の生まれて育った神戸という街にないもの、その無い物強請りだけだったのかも知れない。

 幼少の頃から、単なるメディア情報の中で都会暮らしに想いを馳せていたというのも可笑しな話ではあるが、それは簡単に言ってしまえば見栄ということになる。かといって、誰に自慢するのであろうか。

 桜上水は下町を感じさせる閑静な住宅街で、商店街には昔ながらの懐かしい店もあり、それは神戸の実家近くの風景とほとんど変わらない様子を見せていた。都内の全てがモードで出来ている訳ではないことを目の当たりにしたのも、実はそんなところで、新宿、渋谷、吉祥寺へと東京の流行を生み出す場所へ出掛けるのも便利な場所ではあった。

 ただ、思ったことはひとつ、東京は人間が多いということ・・・。

 予備校に通ってくる学生は、いつだって険しい表情をしていて、得体の知れない、近寄りがたい雰囲気を持ち、ビルの並ぶオフィス街を歩いても何か異国にいるような気分がするだけだった。そして、桜上水の商店街まで戻ってくると安心感が生まれたのは何だろうか。

 小汚い定食屋で濠村と飯を食いながら、相変わらず勉強以外のことを熱心に語っていると、幼い頃のことを思い出し、ここが東京であることを忘れてしまう。それは息抜きを超えて熱くなることもあった。

 濠村は大学へ入れば思う存分に日本中をオートバイで走り、愛用のライカのカメラで写真を撮る夢がある、と話していた。それは東京人の貴賓さと野生さを一度に感じさせ、また大人っぽさも想像させてくれたが、夢と呼ぶにはあまりにも間近ですぐにでも手が届きそうな事のようにも思えた。

 幸樹はオートバイのメカニックなことは無知ではあったが、写真に関しては高校で同好会に所属していたこともあり、ちょっとした知識もあった。元々の写真の原理や現像の手順などを濠村に話して聞かせると、それは化学から宇宙の話に発展していく事もあった。

 ある夜、濠村がツーリング・チームで軽井沢に出掛けたと言う一年前の夏の写真を見せてくれた。少し派手にも思えるハードカバーの大き目のフォト・ファイルには、ずらりと並んだキャビネサイズの写真が何冊もあった。それは、時間ごとに上手にレイアウトされていて、モトクロス用の大小様々なオートバイやアメリカン・スタイル的なロードバイクが集合写真として撮られたものが、必ず最初に位置しているものだった。その後には、タンデムで走行しながら撮られたもの、山並みの風景など、どう見てもスナップ写真にしか思えないほどのプリントの中に一枚のポートレートを見つけた。それは、真上からのアングルで撮られたもので、白い歯を見せておにぎりを頬張ってカメラに向かっている笑顔のミユであった。

 「これ、いいショットですね」

 「ふふん、俺の彼女・・・嘘・・・美人だろう? ミユって言うんだ」

 「ミユ?・・・愛称ですか?」

 「美しく優しいと書く、確かに気取った変な名前だが、これしかないような気もするな」

 「へえ・・・兎に角、濠村さんのタイプなんですね」

 濠村は含み笑いを浮かべながら、ずっと幸樹を見ていた。

 「どうなんだよ? いいと思わないか? 実際のところ、ミユを目当てに仲間に入れて欲しいなんて奴もいたりするくらいだぜ。それこそマドンナってやつ」

 そう言う濠村に、幸樹は微笑して「確かに」とだけ応えた。

 「何といっても今や歌舞伎町ではナンバーワンかも知れん。と、まあ、俺が勝手に思っとることだが・・・。」

 「歌舞伎町?・・・学生じゃないんですか。歌舞伎町って、あの風俗とかいっぱいある?・・・あ、そればかりじゃないと思うけど・・・」

 幸樹はミユの写真を眺めながら、どう見ても妖しさが漂うような雰囲気を拾えなかった。

 「スナックみたいなことをやっているんだよ。雇われ経営っていうのか?詳しくは知らん。そこは彼女が看板みたいだけど」と濠村は言った。

 幸樹は興味なさそうに、はあ、と答えて次のページへとアルバムを送った。

 アンダーな露出でクローズアップされた山花、擦れ違いざまのケーブルカー、大きな木でふざけあっている見知らぬ男達、と続いている写真を黙って見ていった。

 「今日は金曜日だから、どうだ? ちょっと行ってみないか? もしかしたらバイク仲間も来ているかも知れないし」

 それはさっきの歌舞伎町の話をしているのだと判ったが、何処に?と返して、半ば強引に誘うような濠村の言葉を躊躇する自分に気付いているのは、幸樹自身が一番良く理解していた。

 歌舞伎町といえば、まず、日本最大の歓楽街というコピーが浮かんだ。そこには甘い誘惑、裏はすべてが金、アウトローたちが屯しているエリア。地方出身の私にとって、その響きは、まるで異界であった。しかし、怖さよりも興味の方が先を走ってはいた。

 「でも、僕にはそんなところへ行く余裕はないですよ」と、苦学生を装いながら濠村の顔を窺うと、意味ありげに唇の端を持ち上げニヤリと笑った。

 「金なんかいらない」

 午後八時、濠村と幸樹は京王線に乗って新宿を目指した。上り線であるせいか、乗客は疎らであったが、やけに都会の明るさを眩しく感じる夜だった。それは、生まれて初めて体験する未知の東京への期待感が膨らんでいたからだと思う。

 新宿駅へ到着すると、その得体も知れない島へ向かってひたすら歩いた。駅から近いのか遠いのか、眼が回りそうなほどにあらゆる電飾のビルを抜け、これだけの人間が何処から集まってくるのであろう、ここはそんなに魅力的なところなのであろうか?そんなことを頭の片隅で考えていた。

 華やかさだけを吸い込むと、幸樹は震えている自分にふと気が付いた。そして、願わくば逃げ出してしまいたいような不安も正直なところにあった。キラキラとたくさんの光に満ち溢れながらも、灰色に濁った臭いがある。まるでその色を隠すように様々に暴れる電飾とアンサンブルのない雑音の中で、幸樹には悪策の笑みを浮かべている余裕はなかった。

 反対に、濠村はそんな幸樹の姿を見て優越感にでも浸っていただろうか。呼び込みの男を無視しながら右へ左へ、まるで迷路のような路地を慣れた場所のように足早に、しかも勇ましく前を歩いて行く。幸樹は、ここで逸れてしまってはもう普通の世界へ戻れないような気持ちにもなり、夜の街に酔いしれることなく濠村の後を必死で追った。

 そこは、「椿」という店だった。少し奥まった、それも似たような細い路地に、薄暗い灯りで照らし出された看板は、何の変哲もない飾りの小さなスナックのように思えた。地下へと降りていく階段は、倉庫へ通じているのではないかと思うほど長く、雑居ビルの古さを感じさせる煉瓦が左右に貼り出していた。そして、下までたどり着くと、階段とは不釣合いな大きな扉があり、可笑しなことに「椿」の名前は何処にも掲げられてはいなかった。

 少し重いと感じる扉を濠村はゆっくりと引いた。後に続いて幸樹も店内へ足を踏み入れてみて、割と落ち着いた雰囲気がしたことに少し驚いた。饐えたような臭いは煙草であろうか、テレビで観たことがあるような華やいだお店ではないことは確かだった。

 大きな観葉植物の向こう側にテーブルが二つ、あとはL字型のカウンターに五・六人が座れるであろう、黒と赤で統一された店内には抽象的な椿のデザインが施されていて一種独特の空気があった。

 店には三人の客がいた。そのうちの一人はツーリング・チームのリーダー藍田伸太郎という男であった。穿き古した黒のジーンズに長袖のシャツというラフな格好で頬杖をついてグラスを傾けるという仕草が似合っている。

 そして、ミユはカウンターの中で煙草を燻らせながら、まるでバーテンダーのように黒いユニフォームを纏い、髪は後ろに束ねていた。それは、あの写真で見た笑顔のミユとはまるで別人に見えた。

 「おお、貧乏神がやってきたようだ」と濠村を見た藍田が言った。

 「はーい、お疲れさまでーす」

 濠村はテンションの高い声で藍田に言葉を返すと、徐にハイタッチを交わした。続けて、ミユにも。

 「勉強もしてない素浪人が疲れたりするのか?」

 藍田はそう言って呆れた顔を作って見せた。

 「してますよ、社会勉強というものを!」

  憎まれ口を叩かれる濠村と気心知れた藍田の口ぶりに馬の合う関係が垣間見えた気はしたが、何もかもが初めて知ることばかりで、濠村に隠れるように幸樹は黙っているしかなかった。

 「いらっしゃいませ」

 コースターを目の前に置かれ、幸樹が顔を上げてそこで見たミユは、まさに東京を感じさせた。濠村はふたりを交互に見ながら「こいつ、芳野幸樹、俺の部屋の隣人、一個下だけど」と紹介した。

 「よろしく。でも来年はキミの方が先輩かもね」とミユは濠村にウインクをすると、幸樹に熱いおしぼりを渡した。そんなミユの笑顔に、つい口許が緩んでいる自分が不思議だと思いながら視線を合わせられずにいた。

 自分はあの時、ミユに一目惚れをしただろうか?と幸樹は後に考える。そこには、それを否定したい自分と、単純に都会に惑わされたと感じている自分がいた。

 店にはホステスなどいなかった。ましてや、カラオケなどと言う機器さえも置いてはいなかった。そこはスナックではなくバーと呼ぶ店であったことも後で知ることとなった。

 灯りを最小限まで落とし、有線放送ではないピアノトリオのスタンダードが流れていた。それはミユが自分の部屋から持参してきたレコードそのものらしかった。

 当時はまだコンパクトディスクというものが普及しておらず、箱型のレコードプレイヤーがコーナーの奥に占められていて、そういった機器に疎い人間でもそれが高価なものであることは一目瞭然だった。大きなスピーカーから静かに流れてくる音は、歌謡曲や当時、話題になり始めていたシティミュージックのようなものしか聴いたことがなかった幸樹にとって、都会の匂いを感じさせるひとつのものとなっていた。そしてそれを至福の格好良さだと位置づけたことも事実であった。

 ミユの愛聴盤はビル・エバンスだった。それはあまりにも叙情的で、クラシック音楽のような繊細な響きがあり、磨かれた艶が一粒ずつ散りばめられた宝石の様に感じた。

 幸樹は、数日後に近くの貸しレコード店からビル・エバンスと綴られたレコードを数枚だけ借りて来ることにもなったのだが、「椿」で見たジャケットと同じものはなかった。「巣」に持ちこんだオーディオと言えばモノラルのラジカセだったが、濠村に頼んでカセットテープにダビングをしてもらい、ジャズのJの字も解からずそれらを聴く毎日が続いた。それは大人を強く感じさせ、都会を満喫しているような気にもさせた。

 もうひとつある。そんなジャズが流れる店で初めて呑んだ酒、ジン・リッキー・・・

 浮かんだライムは、少しだけ大人の憧れに吸い寄せられるような雰囲気を醸し出していた。唇と重なったグラスの中はソーダ水であったが、甘くはなかった。その清々しい嘘の様な液体は体温と融けあい、自分の幼稚さ、それでいて溢れ出そうな体熱を幸樹に感じさせた。それは精通にも似ていて、酒にはこんな放熱があるのだ、と燻った自分を思い返し苦笑してしまうほどであった。

 「ね、キミ、ヨシノクンだっけ・・・、免許とか持ってんの?」

 話の輪に入っていない面持ちの緊張した幸樹に、藍田はグラスを鳴らしながらほろ酔い気分で話しかけてきた。

 「今はありません、大学へ入ってから自動車の免許は取ろうと思っていますけど」

 「それは社会に出てからの要普免ってヤツだよね?バイクって興味ない?面白いよ、なんて言うかさ、バーンって風を切っていくのは浪漫っていうの?スカッとするそんな感じのさ」

 と言う藍田に、ミユはアイスピックを弄びながら話に割り込んできた。

 「あなたが教えてあげれば?プロなんだから」

 藍田伸太郎は、プロのロードレーサーであった。父親の趣味で幼少の頃からサーキットで走っていたらしい。鋭いカーブの攻めでアマチュアの中でいくつも賞を取り、その後もプライベートチームのメーカーにマシンを与えられ、全日本選手権でも活躍した、言わばレース界でも名の知れた男であった。その話をされた時に藍田の年齢を確かに聞いたのだが憶えていない。それでも、二十代半ばくらいではなかっただろうかと思う。

 年齢と言えば、ミユは幸樹より三つ年上であった。化粧のせいなのか、その大人びた雰囲気、時々見え隠れする少女のような笑顔は、本人の意識していない色気となっているように感じた。それは誰かに似ていると思ったが、正面の壁に掛けられた絵画に意識を集中させ、そこに描かれていた一輪挿しの椿の花を眺めていた。それは仄暗いライトによってぼんやりと照らし出され、これから枯れゆくような翳りがあるようにも見えた。

 そんなふうに何もないところから想像の次元を変化させていく癖は、その頃に身に付けたものだったのかも知れない。焦点を暈かしていくと気持ちが落ち着いてくるのは、それまで見た夢を記憶の中から無に帰すようなものである。

 濠村と藍田はオートバイのパーツの話をしているようだった。ミユもその話を聞いていたようだが、テーブル席の客にカクテルのおかわりを注文され、それに頷くと引き締まった表情になり作業を始めた。目の前には見たこともない道具を並べ、何をどういう手順で作っていくのか分からなかったが、それは手際が良く気持ち良かった。

 「この店はどうして椿という名前なんですか?」

 話しかけたのは間違いだっただろうかと少しだけ後悔したのだが、ミユは幸樹の顔を見て微笑した。

 「ここって元々は私の店じゃないから、どうしてって訊かれると困るけれど、ちょっと変わったオーナーでね、椿の花が好きなのよ」

 ミユは会話に夢中になっている藍田の方を一瞥して、シェイカーからグラスに注ぎこまれた液体を確認した。

 「可憐な感じがしますよね」

 「そうなんだけど、ねぇ、椿の最後って知ってる?薔薇みたいに少しづつ花弁が落ちていくんじゃなくて、首が折れるみたいにそれごとボロって落ちるの」

 そう言われてみれば、そうなのかも知れないと思った。何処で見たのか、積もった白い雪の上に落ちた椿を憶えている。それは女の紅の色を思い出させた。

 「確かに・・・」

 「オーナーはその潔さが好きなんだって。ちょっと不吉よね」

 そう言ったミユはカウンターの端の狭い場所から注文されたカクテルをテーブル席へと運んで行った。

 椿のように可憐な女・・・

 椿の最後は・・・

 幸樹はそんな記憶のシーンをぼんやりと廻していろんなことを重ねていた。可憐に散っていった花が映ると思わず目を閉じた。パチパチというラップ現象にも似た音が聞こえたような気がしたと思うと、全身に鳥肌が立つような寒気が走った。

 「ねえ、幸樹くんって綺麗な顔してるのね。女の子みたい」

 目を開いて、ふと気付けば幸樹の座る隣の席にミユがいた。その言葉は幸樹の耳元で囁かれた。その時、自分の身体の中で確かな感情の起伏があり、それは汗となって、しかも呼吸が短くなっていく意識があった。自分の血液が沸き立つ感覚、それは足の爪先から頭の髪の毛の一番長い端のところまで凄い速さで到達したような気がした。幸樹は手に持ったグラスをじっと見ていた。もしもその時、左隣のミユと目が合うようなことがあれば、どうなっていたであろうか。

 幸樹は、心の中にある自分の影を誰にも見せたくはないと思った。そして、表情をも読まれたくはなかった。本当は幸樹自身がただ黙って消えてしまいたくなった。

  「ちょっとトイレ・・・」

 そう言って俯いたままの姿勢で、幸樹はその場を離れた。ミユは、自分が何か悪いことを云ったのではないかと困惑したかも知れないが、それを幸樹にはどうすることも出来なかった。

 奥に設置された狭いトイレの中で両腕を抱えこみ、幸樹は小さく震えていた。泣いている訳ではなかった。それは緊張のようなものだと推測していたが、それに対する薬が処方されているわけでもない、兎に角、時間をかけて落ち着かせることしか出来なかった。

 もし、こんな時に何が欲しいのかと訊いてくれる誰かがいたならば、幸樹は「本当の自分」と答えていたことだろう。それがどんなものなのか分かるはずもないが・・・・。

 「どうした? 大丈夫か?」ややあって濠村が外からノックをする。

 「いや、何でもない。うん、少し飲み過ぎたかも」

 幸樹は、自分は嘘を吐いた、と思った。未成年ながら自分がアルコール慣れしているのは分かっていたし、現に酔っ払っていたわけでもない。悟られぬよう、ゆっくりと中から出てきて、小さな洗面所で顔を洗った。それからすぐに席へ戻ると、ミユが「大丈夫?」と一言だけ声を掛けてくれたが、それから後はミユの方から話しかけてくることはなかった。

 結局のところ、この日は型通りの挨拶は交わしただけで、その時点の幸樹の中で、ミユの存在は通り過ぎていくだけの女でなければならなかったのだと感じていた。何もかも極度な緊張が作り出した失態に過ぎなかったのだろうとは思ってはいたのだが・・・。

 日付が変わる頃に、幸樹が初めて過ごした歌舞伎町の夜は、濠村と一緒にタクシーに乗ったところで終わった。

 部屋の戻るととにかく静かであった。歌舞伎町は眠らない街である、人はあそこをそんなふうに語っている。それは歓楽という言葉だけで終わるものではない。それぞれの思惑とは別に、何か得体の知れない吹き溜まりがあちらこちらに見え隠れしている印象がある。それは幸樹にとっても興味深かった街だと言えるが、そのほんのひとかけらしか知らない人間が語れる場所でもないと言うことは理解しているつもりだった。

 いろんなことを考えていると、自分の部屋で眠れぬ時間を過ごすことになってしまったのは何故であろうか。そう思った瞬間に、きっと、街ではなく「女」ではないかと考究している自分に幸樹自身が驚いていた。

 手の中には「椿」のマッチがあった。その内箱の裏側にはミユの手書きで自宅と思われる電話番号が記されていたのを見るともなく眺めた幸樹は、机の下の屑入れにそれを放り投げた。

2.

 それまで静かに降っていた雨足が次第に強くなり、やがて大粒の雨へと変わった。午後七時、新宿界隈の大通りは徐行運転をする車によって渋滞を作り出していた。会話のない車内に響くのはフロントガラスを拭うワイパーの切れたような音と、目を細めてしまうほどの車体を叩く大きな雨音だけである。それがうまい具合に重なり合うと一定のリズムが生まれ、よもや催眠を呼ぶような遠い感覚にも襲われる気がした。

 横を向くと、女の顔が色鮮やかな模様を描いていて、それはまるで万華鏡の内部を覗くような不思議な輝きを放ち、角度が変わるたびに奇怪な動きをしながら流れていく様に見えた。いくつもの顔を持つ女がそこにいる、そんな恐怖心にも自分自身は怯えていたのではないだろうか。

 車の助手席に座っている幸樹は、ただ飼い主に忠実な犬のように大人しかった。主人の前で騒いだりすれば、命がないという妄想とも戦っていたのだと思う。

 女が公園の脇に停めていた黄色いクーペを指差し、「乗って」と云ったからそうしたのか、それとも、自分が女と一緒に居たかったから乗ってしまったのか、どうにもわからなかった。

 頭の中ではハードボイルド作家にでもなったように何重もの想像が駆け巡り、それは麻薬の運び屋? いや、あるいは薬を打たれて中毒患者にさせられて、もう心も身体もボロボロになり、そうして何かに追われながら一生を終えてしまうのだ、というシナリオまで組み立ててしまう乱雑さの中で後悔する自分もいた。

 受験を控えた幸樹にとって夏休みなど無関係であった。しかし、そうであると解かっていても、少しくらい間を入れた方がいい、という甘えに惑わされる時がやってきたのがそもそも間違いである。

 出張で突然上京してきたという父に、都内のレストランで束の間の食事に誘われたのは、八月に入ってすぐの頃であった。その時に小遣いと称して三万円を貰っていたのだが、きちんと考えて使わなければならないという思いは何処かにあった。しかしながら、それは最初だけで、思いつきで行動してしまう自分がいることの見当もついていた。

 数日後、残暑の続く末日に気分転換という言い訳を掲げ、私は歌舞伎町の「椿」へ行ってみようかという企みが浮かんだ。

 別にミユに話があったわけでもない。そして、何かの用事を頼まれたわけでもなかったが、 あの日に見た椿の花は幸樹の心の中で大きく膨らんでいて、その重さに耐え切れなくなっているという夢想が続いていることを自覚していたのだと思う。

 切なさと共に遡る先には少年の苦悶の姿、それは自分自身をも欺き、自虐的でもあり、快楽は何度も繰り返し、迸る若さの中で廻り続けていくのも実は酷なものだと、いい加減な理由をこじつけながら・・・。

 自分は白い椿なのであろうか、と幸樹は自問してみた。一般的に椿というと赤い色を想像するが、白には無垢を感じさせる印象がある。そして、自分の白は無垢ではなく、無知の白・・・。白を選ぶわけでもなく、装ったつもりもなく、心の中で赤い椿には遥かなる憧憬が存在していたのが曖昧な答えであった。

 予備校の夏期講習を終えて日比谷の図書館で時間を過ごし、それから地下鉄を乗り継いで新宿で降りていた。南口の改札から地下を通って表へ出ると日中がひどく暑かったせいだろうか、街は予想もしない夕立に見舞われていた。それでも若さからか、傘を買おうという気にはなれず、ビルとビルの合間を小走りに移動を続けて東口のバス乗り場から都市銀行の下まで一気に走り抜けた。

 建物の大きな軒下になる先端に立ち、昼間に溜まった都会の埃が流れていくような景色を感じながら目を細めて空を見上げてみた。雲の流れは速く、通り雨ではないだろうかと視線を戻すと、見知らぬ人は皆な、幸樹と同じような行動を取っているのに気付いて可笑しくなった。

 雨宿りをしていたスーツ姿のサラリーマンが覚悟を決めたように幸樹の目の前を駆け抜けていった、と同時に何処かで猫の鳴く声を耳にした。辺りをすまして見渡すが反響しているせいなのか、どこから聞こえてくるのか判らなかった。ならば空耳かと思ったのだが、再び聞こえる鳴き声に幸樹の気持ちは少しだけ落ち着かなくなった。

 幸樹は街で猫を見つけると、何故か「こっちにおいで」という気持ちが湧いた。素直に寄り添ってくれば頭や喉を撫でたくなる。「お腹が空いたのか、そうかそうか」と何かを与えるわけでもなく「じゃあな」と言って立ち上がる。ただ、それだけのことを飽きずに続けているのかも知れない。

 未だ何処かで鳴いている猫を気にはなったが、急にその場を離れてしまいたくなって、再び雨の中を走り出していた。

 幸樹は「椿」の営業時間を知らなかった。ましてや、一度しか訪れた事のない土地。記憶も曖昧ではあるが、目的地を探し当てるというのも楽しみのひとつだと考えて、歌舞伎町一番街と書かれた看板を潜りそのゾーンに足を踏み入れた。もしかしたら、背伸びをした子供が大人ぶって歌舞伎町を歩きたかっただけかも知れない。それでもいいと思っていたのだが、しかし、本当にそうだったのだろうか・・・。

 雨は小降りになる様子も見せず、先程から何度も何度も同じ路地を行き来していると、そこが小さなエリアではないことが段々と解かってくる。同じ店の前を通り抜け、注意深く辺りを窺っていても、あの店は本当に存在したのだろうかという気にもなり、少しだけ戸惑いながらも迷路の中に入り込んだ気分を味わった。

 夕方六時という時間は、まだ目覚めていない街の顔をしていると感じた。既に雨が夜を連れてきたように空は仄暗かったが、黒塗りのベンツが電飾に照らされ始め、静かに停車しているのがやはり不気味でもあった。あと少しすればミニスカートから細い脚を露出した客引きの女たちや、少し気取ったジャケットの男たちが増えて、こんな自分にも声をかけてくるのであろうと想像すると、歌舞伎町と言う街の真ん中で孤独感も生まれて来ていた。勿論、この街の内情など知るはずはない、闇の世界をテレビや映画のフィクションで知る事は出来ても、それが現実に存在するのかどうかさえ疑問も感じていた。兎に角、あと少しでこの街が輝き始めるのは間違いではない。天候など関係なく、毎日が同じように瞬きだす。そして幸樹は、未だ「椿」を見つけることが出来ないでいた。

 歩くのに少し草臥れて幸樹は近くの自動販売機で缶コーヒーを買った。それはよく冷えており、喉の渇きを潤すには充分であったが、雨で貼りついたシャツに少しばかりの不快を感じていた。幸樹は、コーヒーを口にすると反射的に煙草を呼ぶ習慣みたいなものが身についていた。煙草そのものは神戸に居る頃から親に隠れて吸っていたが、当時の本数よりもそれは確かに増えていた。喫煙依存してしまえば精神的な不安感が高まっていくことも理解はしているが、実際にはニコチンによる禁断症状が始まっていたのだと感じていた。自分の意思の弱さはこんなところにも表われている、そう思うと嫌悪感さえ煽って来た。しかし、諦めと次なる欲求へ変貌するのも早かった。

 うろついた繁華街の途中で、フェンスに囲まれた公園を目にしたことを思い出し、幸樹は足早にそこまで引き返した。歩いてくる途中、看板に明かりが点き始める店が数箇所あったが、まだシャッターが閉まったままのアーチ状のテントが架かっている酒場を見つけ、その下に滑り込んでポケットに手を入れた。

 ふと目の前の公園を凝視すると、ホームレスの男が骨の曲がった透明のビニール傘を差してベンチに座っているのを見つけた。幸樹は煙草を銜えたまま、角にあるゲートの前までふらふらと近づいて、その男とは十メートルくらいの距離があっただろうか。それでも男はこちらを見ようとはせず、まるで死人のように固まっていて動くことはなかった。歳がいくつ位なのか皆目見当も付かなかったが、何れにしてもそれは年老いて見えた。

 当時の幸樹は、「老いぼれる」という感覚が理解出来ないでいたのだと思うが、単純に希望を失くす事なのではないかと感じていた。何事にも諦め、意見を述べる事も行動を起こす事も億劫になり、エネルギーを失くしてしまうような・・・。

 それは幸樹が幼い頃に持っていたブリキ製の玩具を想像させた。最初は勢い良く動き始め、終わりに近づくと動きは鈍くなり、最後には停止してしまう。しかし、捲きなおせば再び同じように動き始めるはずである。ただ、捲きなおすだけのエネルギーが自分の中に残っていれば、という話だが・・・。

 諦めの早い自分の行きつく先は、ホームレスと同じ場所であるのかも知れないと幸樹は思い始めていた。それを感じると思わず目を閉じたくなった。目を閉じて身体の中の発条を捲きあげるとすぐに、「巣」に戻り勉強を始めなければ、という気持ちさえ湧いて来ていた。

 少し風も出ていたが雨は小降りになり始め、踵を返して駅に向かおうとした時、猫の鳴く声を耳にした。勿論、少し前に聞いたあの猫の声だとは思わなかったが、また気になって辺りを見回す。時間よりも早くに暗くなった周辺の店は、次々と看板に灯りが点き始め、街全体がほんのり明るくなったような気がした。

 その鳴き声のするところにひとりの女がいた。開かれた傘は薔薇の花をあしらった派手なデザインのもので、真横から見える髪は茶色で長く、雨に濡れたからか、項にかけて筋を引くような色気があった。それは耳を出していたせいで細い光にも見えて、三十代前後であるように思えた。真っ赤な口紅だけがひかれ、これから化粧を施すのだというような状態の顔にも見えたが、病み上がりのような眼に隈が残って少し淋しさが漂っていた。

 女は幸樹に気付いてもあまり表情を変えようとはしなかったが、その目の向こう側には何か許諾したような表情も見えた気がして、幸樹はなおも近づいてみた。

 傍らに二匹の猫がいるのが判った。一匹の黒猫は、もらった缶詰を夢中で食べていた。もう一匹の面白い模様の斑猫は、既に食べ物を平らげており、まだ他に何かないのかと言わんばかりの鳴き方をしていた。

 少しだけ沈黙があったのだが、幸樹に向けて女は徐に口を開いた。

 「猫は好き?」

 そう訊かれて幸樹は慌てて目を避けたが、やがてそれは緊張に変わった。

 「は?・・・あ、はい、好きです。小さい頃に実家でも飼っていました」

 鳴いている猫をあやすように女はそのままの姿勢で俯いた。そこには柔らかな陰影があった。

 「あんたこの辺の店の人?」

 女は猫に対して頭を撫でて相槌を打つような仕草をした。

 「いいえ、一般人です」

 そう答えると、クスクスと笑われた。何か皮肉めいたことを返されるのかも知れないと感じていた幸樹も、そんな思わぬ優しい笑い声に好印象を抱き、少しだけ照れていた。

 「ずいぶん濡れちゃったわね」

 「あ、まあ・・・」

 「どう?暇ならうちに来ない?」

 そう言われて、幸樹は身構えた。勿論、金に余裕があって歌舞伎町に来たわけでもなく、女を捜しに来たわけでもない。

 「ん、貧乏学生で遊ぶ金なんてないです」と幸樹が苦笑して応えるとまた笑われた。

 「そうじゃないのよ」

 女は上品な色のワンピースに付いた水泥を払いながら幸樹の手を掴んだ。その瞬間、驚きで身体が硬くなったのだが、同時に痺れるような感覚があり、事情が呑み込めなくなった。そして傘の中に身体を入れられた後、女は幸樹を連れ歩き始めた。

 あの時、何故に逃げ出そうとしなかったのだろうかと幸樹は思った。何の抵抗もなく、肩を並べて歩いていく自分が不思議であった。

 公園の脇に停めてあったクーペの後部座席には、たくさんの紙袋が積まれていた。顔を覗かせているのは派手な色をした衣服のようだったが、はっきりとは判らなかった。

 「乗って」と女はそう言って運転席に滑り込んだ。それは魔術のような言葉であった。思考回路が狂わされたように、動きが止まり、慌てている自分にも驚いた。それでも何処かで落ち着き払ったような気持ちがあって助手席のドアを開けていた。

 「服、濡れてんですけど・・・」と小声で言うと、「構わないわよ」という返答があった。

 そう言われて幸樹が車に乗り込むと、それが合図だったかのように雨は再び大粒になった。車が発進した途端、地獄に堕ちていくのかも知れないのだと感じた。信号待ちの時に逃げた方がいいと何度思ったことだろうか・・・。

 車は線路沿いの小さな路地を走り抜けた後、急くような渋滞の大通りへ出た。天候のせいもあるのだろうか、ゆっくりしたスピードでガードを越え左折し、一度西口を回るようにして引き返し、警察署を横目に向かい側の小さな脇道へ反れていった。後はどういったルートを抜けたのか今でもわからない、北新宿と言う電柱に貼られた番地を目にしたが、そこは走りなれた者だけが分かる一歩通行だらけの道であった。

 都会という妖しげな光の渦は、やがて住宅地に入ると少なくなっていったが、手ブレを起こした写真のような曲線を描いて、自分の存在さえわからなくなってしまった自分がいた。それが眩暈だったのか、何か幻を見たのか、気が付くと現実に戻るまで意識を失っていたような感じであった。

 車内でもほとんど口を利かなかったが、女の名前がマリコということだけを教えてくれた。無論、それが本名なのかどうかは定かではなかった。頷いて幸樹も自分の氏名を名乗ったが、さも興味なさそうに一瞥されただけだった。

  新宿からさほど離れていないと思われるところにマリコのアパートはあったことを覚えている。駐車場とは言えぬスペースに強引に車を横付けすると、幸樹を置いて二階へ続く階段を足早に駆け上がっていった。

 幸樹はゆっくりと車を降りて、辺りを見渡した。生き生きとしたマロニエが、隣の壁を越えて伸びていて、その模様が屋外灯に当たって透き通ったように見えた。

 「どうしたの?早くいらっしゃいよ」

 マリコは二階の自分の部屋の窓を少しだけ開けて、小声で幸樹を呼んだ。

 「荷物は・・・荷物はいいんですか?」

 「いいのよ、そんなもの・・・」

 幸樹は少しウロウロしながらも階段を上がった。それはやはり、歌舞伎町に足を踏み入れた時と同じような気持ちになり、足取りが少しだけ重いことを自覚した。

 マリコの部屋は階段側の一番手前だった。表札に名前などなく、ドアは開かれていた。踊り場から横に続く共用の廊下にはそれぞれの住人の洗濯機が置かれており、一番奥の部屋の前には三輪車らしきものが、切れかけて点滅する蛍光灯に照らされていた。

  「何を飲む?ビールでいい?」

 奥の部屋から大きな声でそう言うマリコが、既にビール瓶とグラスを持ってテーブルに並べ始めていた。幸樹は、その光景を遠くに見ながらぼんやりしている自分に気付いていた。それは呆れるほどに初心だということを相手に知らせているような仕草でもあった。

 「何、突っ立ってるの?あ、ちょっと待って」

 マリコはそう言ってバスタオルを放り投げてくれた。幸樹は一呼吸してから落ち着かないままスニーカーを脱いで扉を閉めた。今思えば可笑しな行動だった思うが、自分の靴の向きをきちんと揃えていたりする男、それが幸樹だった。

 そこは狭いキッチンだった。小さな冷蔵庫の隣にはたくさんの靴の箱が積まれて、それに回り込むように浴室があった。その間のスペースにはピンチ・ハンガーに掛けられたいくつかの下着が干してある。そしてトイレ。押入れのスペースを差し引き、六畳と四畳半ほどの畳敷きの部屋が続いているという間取りであった。

 桜上水の幸樹の「巣」よりは断然に広いはずなのだが、部屋のあらゆるところに数多くの洋服があるために、ある意味では物置にも見えなくもなかった。

 「こんなのしかないけど着替えて」

 そう言って渡してくれたのは、ピンクの生地にテディ・ベアのイラストの入ったやけに大きなTシャツだった。それは何度も洗濯を繰り返して少し色褪せてはいたが、マリコのお気に入りのシャツだったのだと思われ、襟の部分が頼りなげに伸びて弛んでいた。

 「悪いけどシャワー壊れてんのよ、お風呂でも沸かしてあげようか」

 「いえ、充分です」

 幸樹は台所のスペースに立って、着ていた白のコットンシャツとジーンズを脱いだ。それをピンチ・ハンガーの空いている部分にぶら下げて借りたシャツに着替えた。それは、布地を通して伝わってくる感触が気持ち良かったのだが、幸樹が身につけるとポンチョのようだった。

 「とりあえず座れば?」

 そう言われた幸樹は何故か正座をして、マリコの方を向き直った。すると突然ゲラゲラと豪快に笑われ、それでも尚も可笑しさを堪えきれないらしく、腹を抱えるように転がり始めた。それは既に充分に酔っ払っているのではないかとも思えた。

 「似、似、似合う!・・・どこのお嬢ちゃんかと思った」

 そんなことを言われた幸樹は何と返事をすればいいのか見当もつかなかった。出逢ったばかり、数えるほどの言葉しか交わさずに、こうして女の部屋にいることも滑稽に思えてきてただ恥ずかしくなるばかりであった。

 それが東京っぽい、という人が聞けば訳のわからない納得をさせようとするのだが、極度の緊張感が幸樹の中で駆け巡ったまま時間だけが過ぎていった。

 勿論、話し上手なわけでもなかった。どちらかと言えば人見知りするような性格。神戸にいる頃に親しく付き合ったガールフレンドが居たわけでもない。

 「ごめん、ごめん・・・」

 怖気づいた犬のように震えていたかも知れない、幸樹はそんなことを思いながら同じような沈黙を受け入れていた。

 「そんなに畏まらなくてもいいのよ」

 笑わない幸樹に少しだけ機嫌を悪くしたのか、マリコはビールを呑み始めた。

 「いえ、そういうんじゃないんです・・・。僕は、・・・あのう、女の人とあんまり話したことなくて、緊張していると言うか、どうしたら良いのかわからないというか・・・」

 「最初はそんなふうには見えなかったけど?」

 「はあ・・・」

 「童貞?」

 そう訊かれて少し驚いたのだが、間を置いた後にコクリと頷いてみた。

 「言っとくけど、あたしが歌舞伎町にいたからってトルコ風呂の女じゃないわよ」

 「はい」

 「ほんとにわかってんの?」

 「マリコさんはそんな店の人には見えません。すごく素敵な女性・・・だと言え、・・思います」

 幸樹がそう言うと、さっきまで眉間に皺を寄せていた顔が急に華やかになった。

 「わかってるじゃない、おんなを・・・。でもあんた変な病気なんて持ってないでしょうねえ?」

 「その辺も童貞です」

 この面白い冗談が緊張を解してくれた。

 「本当にただ誘っただけ。怖がらなくていいからさ。今日はちょっとひとりじゃ居たくなかっただけだから・・・」

 「あのお、それより何だかお腹空きま、せんか?」

 「それよりってなんだよ、それよりって」

 その少しだけ男勝りなマリコの言葉は、高校時代に不良と呼ばれていた神崎直美に似ていることをふと思い出させた。普段の直美の口は相当に悪かったが、とても優しい女なのだと感じたことがある。

 ある日、教室に忘れ物を取りに行った幸樹は、直美がひとりで手紙を読んでいたのを見たことがあった。夕陽の零れる窓辺に肩を預けて、それは泣いているようにも見えた。幸樹はもう一度、廊下の端までこっそりと移動し、今度はわざと大きな音を立てて教室に向かうと、直美は幸樹を睨みつけるように見ていた。 直美がそこにいることは分かっていたはずなのに「あ!」と叫んでしまう。

 「何やねん!」

 威嚇するように直美は幸樹に言った。

 「忘れ物・・・」

 「アホちゃうか、大事なもんはな・・・・大事にせな」

 その直美の言った訳の解からない言葉は、幸樹が後になって頷ける言葉になる。幸樹は忘れたバインダーを手にすると、ポケットに持っていたチョコバーを直美に向かって放り投げた。直美はそれを上手に受け止めた。

 「それ親父のところで作った新製品や、食うてみてや」

 幸樹は直美から逃げ出すようにそのまま教室を出て行こうとした。

 「ヨシノー!」

 直美の大きな声で幸樹の足は竦んでしまい、動きが止まった。「投げ返される・・・」そう思って振り返ると、直美は今まで見たこともない笑顔を幸樹に向け「サンキュ、気いつけて」と言ったのだった。

 直美はその年の秋に大阪へ転校して行ったが、新しい学校で新しい自分を作っているのではないかと言う気にさえした。そんな口の悪さの中に見える優しさは、今も幸樹を心地よくさせている。

 マリコは近くの蕎麦屋に電話をして出前を取ってくれた。幸樹はカツ丼、マリコはざるそばであったが、何となくそれが貧相にも思えてきてフォーク音楽の歌詞を連想させた。湿っぽい同棲と切ない恋愛と男が女言葉で唄う声の震えが流れてくるようだった。

 マリコは歌手だった。

 新宿でも老舗のクラブ「ナイト・ウォーカー」専属の歌手。幸樹はそこがどんな店なのか勿論知るわけもないのだが、高貴な感じだという想像はついた。そして、今日、そこをクビになったと言う。何でも、店の客にストリップ紛いのことを要求され、怒り込み上げシャンパンの瓶を振りかざして殴りかかったらしい。

 マリコは音楽大学を目指して北海道から上京してきたが、普通にアルバイトをしていても生活するのは苦しいと考えて、コンパニオンを始めたのだと言った。その後、クラブホステスとなり、たまたま客に唄えと言われてマイクを取った。少女のころからピアノを習い、クラシック音楽には精通していたが、流行歌を知らないマリコにとって出てきた歌は「竹田の子守唄」。

 店中がしーんとしたと言う。それはウケが悪かったと言うのではなく、あまりにも心に染み入った声だと絶賛されたのだそうだ。店が終わってオーナーがマリコを呼び止め、明日から唄を頼む、などと・・・・それが、クラブ歌手の始まりだと話をしてくれた。

 「なんだかあたし、損な人生を送っちゃってるのかな」

 独り言のようにそう呟いてマリコは項垂れながらため息をついた。幸樹には何も返す言葉がなかった。偉そうな助言が出来るほどの人生を歩んできたわけでもないし、片親とは言っても充分に甘えて育ってきた訳で苦労など知るはずもない。

 マリコはいろんな話を始めてくれるのだが、幸樹が頷いてばかりいたので、その後の会話も弾んでいかなかった。沈黙が流れると、頭の片隅で、ついさっきまで知らなかった目の前のマリコのこと、スケジュールを立てて今夜までに制覇してしまおうと考えていた英構文のこと、神戸の学校で秘かに想いを寄せていたチエのこと、今日は「椿」のミユに逢うはずだったことなどが交錯しながらも浮かんでいた。

 そして、このままここに居れば今夜は・・・という流れにも押されていた。そう思った時、避妊具のことが頭に過ぎった。人並みに雑誌や友人の話でそれは絶対的な物のひとつであることを知ってはいたのだが、それはどうやって使うのか、幸樹自身これまでに、コンドームそのものを見たこともなかったし、勿論そんなものを薬局へ買いに行く勇気など・・・。考えたあげく、邪な気持ちを違う意識へ向かせることにしてみた。

 しかし、それ以前に今、マリコに恋人と呼べる男が居るのかどうかも判らなかった。まして、それを確かめる言葉を発する勇気もない自分もいる。普通に考えてしまえば、ここまで連れてこられたのだから、マリコにとってのセックスは単なる挨拶であり、この先もどんな男と寝ようが構わないのだと考えれば良い。ただ、そうやっていつも距離を測ってしまう幸樹は、理由はあるのだと叫びたいのかも知れなかった。そして、それをずっと誤魔化している自分はなんて臆病であろうかと・・・。

 同世代の若者がどんなセックスをしているのか、幸樹には全く興味がなかったし、何処をどんなふうにすれば女は喜ぶのか、そんなことよりももっとしなければならない大事な勉学がある身分と考える情けなさがあった。

 ビールが無くなると、マリコは押入れから数本のウイスキーを取り出してきた。幸樹はそれまで洋酒は全てウイスキーと呼んで、製法によりいろいろな種類があることを知らないでいた。マリコにどれが良いかと訊かれた時、OLD PARRと印刷されたラベルのものを選んだ。単に瓶の肌触りの感触が幼い頃に一度だけ食べたことのある高級メロンに似ていたという本当の理由はあった。そして、それが、スコットランドで蒸留された「スコッチ」だということをその時に初めて知った。

 マリコは普段はあまりアルコールを口にしないのではないかと感じていた。そのペースにまともに付き合っていた訳でもないが、かなりの量が体内へ吸収されていったはずであった。独り言のように喋り続けているのだが、呂律が回っていないような印象がある。

 「大丈夫ですか?」

 幸樹は声をかけたが、うんうん・・・と返事をするなり歌を唄い始めた。

 Summertime and the living is easy------

 知っているテーマだと何処かで思いながら、ビル・エバンス トリオのアルバムを想像した。マリコの声はスピリチュアルで、しかも神秘的、あまりの美しさに私の心が浄化しているような感覚に襲われた。それは宝石の輝きを見たような気持ちだった。

 マリコは本当に今夜ひとりで過ごすことが怖かっただけなのかも知れない。誰かが傍にいるという事で、確かに守られていることなのだと感じていた。

 幸樹自身も本来、淋しがりやであると思った。不安定な心はいつでも誰かに縋ってしまう。今まではその誰かが存在していたのかということも判らないが。

 自分は本当の意味で母親を知らない。

 今、自身が怖れる時、誰かが傍にいて欲しいと思うとしたら、写真でしか知らない自分を産んでくれた母だという気持ちが幸樹の心に現れた。もしも、そんな気持ちも幸樹の中になかったとしたら、人間として今よりずっと強く生きていられるものなのか、とも思っていた。でも幸樹は、そんな強さを望んでいるわけでもないような気もしていた。

 天井からぶら下がったペンダントの蛍光灯によって、マリコのほんのりと赤くなった頬をまっすぐに見つめた。いつのまにか化粧が施されていることに気付いて胸を突かれた。

 「素敵な声でした」

 幸樹がそう言うとマリコは作ったように満面の笑顔になった。

 「認めるか?」

 「は?」

 「あたしが歌手だと認めるか?それとも只の下衆女で、短気のどうしようもないヤツで、この先どっち行ったら良いか見えなくて、皆にバカだと云われて・・・」

 言葉は泣き声に変わっていった。それは自分と同じように人間の持つ弱さを見せているのだと感じさせた。マリコにとって、今日と言う日はとても長いだろうと思ったし、それは幸樹自身も同じ気持ちがしていた。

 幸樹はマリコの手をとった。それはとても細く、湿った感触であった。それとも幸樹の体温が火照っていたのか、身体中の血液が物凄い速さで回っていたようにも思えたが痺れはなかった。

 「あんまり優しくすると犯しちゃうからな・・・」

 マリコにそう言われて、幸樹は苦笑したつもりであったが、顔が強張ってきっと怖い表情をしてしまったかも知れない。

 幸樹はそれに返事が出来なかった。それは拒否の意味ではなく、紛れもない緊張からであった。今にして思えば、すっと肩を抱き寄せて、三流の科白を吐いていれば、その日からここで同棲でも始めていたのではないかとちょっとありえない想像もしている。

 結局、その後にマリコは訳の分からないことを呟きながら眠ってしまった。酔っ払った方が勝ち、みたいな酒だったと感じた。肩を揺すれば目を覚ますのではないかと思っていたが、小さな寝息を立てているだけで目覚めることはなかった。

 部屋の隅っこには病院で見たことがあるようなパイプ製のベッドがある。そこに寝かしつけようとマリコを抱えあげた時、あまりの軽さに驚いた。

 横に立て掛けられた姿見にマリコを抱えた自分の姿が映った。幸樹はもどかしい思いを振り払ったのだが、それは再びあの女との記憶を思い浮かばせて、自分の感情を抑えるのに必死になった。封印したはずの記憶は、時々そうやって幸樹を過去へと引き戻すのである。

3.

 人には多かれ少なかれ忘れられない出来事というものがあります。

 それが自分にとっての運命だと考えれば、幸も不幸も受け入れて生きてゆかなければならない、というのも運命だと言えます。

 脳に刻まれた記憶という媒体を完全に消去することが可能であるならば、今の私はきっと存在しなかったのではないかと思いますが、解放という選択肢は常に不安と恐怖と夢想によって曖昧に存在しております。

 時間と共に訪れる節目の結末に納得出来ずにいる運命を、私自身が恨み続けている限り、次の方角を占うことすら出来ません。

 あの日からの私は、常に発条をしっかりと巻いていなければ生きることが出来なくなってしまいました。

 時計の振り子は、何かを否定するように首を左右に動かし続けています。

 それが停止してしまわないように気を付けていなければならないという役は、きっと私に与えられた罰であるのだと感じているのです。

 

 幸樹が物心付く前に実母は病死していた。その数年後に父は後妻を取り、幸樹には春樹という弟が出来ることになったのが確か小学二年生の時である。家には父の母、つまり幸樹の祖母も同居していたのだが、家族というのは父と継母と弟のことを言うような気がしていた。 かと言って、幸樹ひとりが疎外されていたわけではないし、継母に虐められたという記憶もない。寧ろ、誰よりも優しい人で、そういう意味ではとても慕っていたのではないか、と幸樹は記憶している。それは多分、母親と言う暈けた存在が幸樹の中で形成されていなかったからではないだろうか。

 継母は絵美子と言う名前だった。そして、絵美子は若かった。幸樹が八歳にして二十歳を過ぎたくらいではないだろうかと感じていた。それ故に、絵美子のことを最初は「お姉ちゃん」と呼んでいた。当時は何の猜疑心もなく一緒に暮らし始めたのだが、絵美子のことを「お母さんと呼びなさい」と父に言われた時の幸樹は戸惑いを覚えた。

 幼い頃、父は幸樹を厳しく躾けた。営業と言う仕事柄か、外面は良かったようだが、家の中では有無を言わさず、平手打ちが飛んでくるという内弁慶であった。勿論、父自身は躾の域を超えていたものではないと、ある程度の手加減をしていたのではないかと思われるが、幸樹は常に怖懼の心を持ち姿勢を正していた。そうした幼年期は、父に殴打されないように嘘をつくことを覚えるきっかけにもなったと言える。

 それからというもの、何かの失敗を起こしてしまうと、それを弟の所為にして逃れようとする幸樹がいた。例えば、食事中に誤って飲み物を溢してしまうと、新聞を読んでいた父の死角で、如何にも弟の失態であるように見せかけたりするようなことだった。父は幸樹を一瞥しながらも、それが幼い弟が犯した行為だと判断すると、感情的な空気が流れることはあり得なかった。

 そんなことを繰り返すうちに、幸樹は自分がどんどん狡猾な人間になっていくようで自己嫌悪にも陥ったことがある。正直に謝りを入れても同じように仕置があるのならば、それさえも悪劫のようにも感じたし、何よりも失敗をしてはいけないというプレッシャーに押されることが苦痛になっていった。それは緊張を呼び、新たな醜態を曝け出す不器用な性格を産んでしまったかも知れない。

 その後、幸樹は躊躇しながらも絵美子を「お母さん」と呼んだ。そう言わないと父に暴力を振るわれるからである。慣れてしまえばその度に思い悩むこともなくなっていったのだが、「お母さん」、そう口にするのはそれほど長い期間にはならなかった。

 はっきりした理由は今でも分からないのだが、絵美子は芳野の家に来てから三年もしないうちに弟を連れて出て行った。如何していなくなったのか、一度だけ父に尋ねたことがあるのだが、興奮していたのか幸樹は気を失うほどに殴られていた。大人の世界に子供が云々と叫びながら、父が鬼のように見えた。幸樹はそれからというもの絵美子の話を口にすることをやめた。

 大人と子供の境目は今もよく判らないでいる。世間に出れば「もう大人なんだから」と云われ、何かをしくじれば「まったく子供だな」という一言を聞かされる。

 幸樹は早く大人になりたいと願っていた。と同時に、大人になどなりたくないとも思っていたのを憶えている。でも、いつの間にか全てを過去としながら大人になってしまう自分を不思議に思った。

 今でも年上の女性を目の前にすると、いつも想うのが母である。自分がいつになっても母親を求めているのだと解かると、いい歳をしてマザコンだと思われることに恥ずかしい気持ちもしたが、その人は星になったのだと信じてしまえば、空を見上げたりもする純粋な幼い一面を大事にしたいと感じてもいる。

 継母ではあったが、そんな母親と言う存在を失ってしまってから、家事に関することは祖母がやるようになった。祖母は明治生まれの笑顔を絶やさない物静かな人であった。しかし、幸樹が父に殴られている時に助けてもらえることはなかった。もしかしたら、祖母も同じように殴られていたのではないかと疑ってしまう自分が悲しかった。

 祖母は幸樹が高校へ入学して二年目の秋に突然、脳梗塞に倒れた。歳は取っていたとは言え、それは思いもよらぬ出来事であり、悲しむ余裕もないままに葬儀が執り行われることとなった。

 棺の中に納まる祖母の顔は穏やかに見えた。幸樹自身も何だか呆然とした状態が続いていたが、それまでは不思議と涙が出てくることはなかった。

 祭壇の袂に多くはない親族が並ぶ中、私は一番後ろに正座をし、弔問に訪れる人々の顔を眺めていた。誰かが動くたびに衣擦れの音が起こり、眠気を誘うような住職の打つ木魚と読経の拍子、それは記憶の扉を開いたり閉じたりしているようにも思えて来て、幸樹は祖母の遺影を見上げながら名前を呼び続けた。

 形通りの葬儀の最後に、従兄弟や親兄弟の男衆に混じって私も棺桶を運び出した。持ち上げた瞬間、祖母の人生が伝わってくるような重みがあった。体に力が入らず、よろけそうにもなりながら胃の奥深くで説明しようもない気持ち悪さを覚えた。祖母の人生観を少しも知っている訳ではないのに、その重みは何なのだろうかと言う気がしてならなくなった。そして火葬場へ着くまで幸樹の涙は止め処なく溢れ出し止らなくなっていた。

 遠い意識の中で葬りを見ていた自分がその場にいることを理解すると、幸樹の涙の意味は、愛されていたのだという想いを充たすものであったことに気付いた。幸樹はそんな祖母に対して何を語れば良いのだろうかと目を閉じたが、どうしても悲しみが先を行き、戻ることが出来なかった。そして、幸樹という名前を呼ぶ祖母の声が、耳の奥で響いている時間だけが過ぎていった。

 あまりに慌しかった出来事が落ち着いた数日後、幸樹は再び学校へ行くようになった。気がつかないうちに風邪をひいていたのかも知れないが、以前から確かな微熱を感じていた。それでも、部屋で横になっていることより、学校へ行けば気が紛れると思い、いつもと同じ時刻に家を出ていた。

 久しぶりに学校へ行くと、変わらぬ空気があった。幸樹に声をかけてくれた多くの友達も家のことでは一言二言だけの話で終り、何の説明もする必要はなかった。幸樹はぼんやりとした頭の奥で教師の声を遠くに聞きながら、一日中、頬杖を突いていた。

 そして、気怠い疲れを感じながら帰宅をする。その日の夕方、物陰から姿を現わした人、それは何と絵美子であった。最初は人違いではないかと疑ってしまうほどに驚いてしまったのだが、事の成り行きをすぐに察した幸樹がいた。

 アンサンブルの薄手のコートに地味な服は着ていたが、それでも若い女の匂いがしていた。その時、父は出張の初日で、家には幸樹一人しかおらず、兎に角、家にあがってもらい、これまで入れたこともなかったお茶を見様見真似で用意して差し出し、父の留守を告げた。

 絵美子は頷き、落ち着き払ったような雰囲気も感じさせたが、それよりも大きくなった幸樹の姿に目を丸くしていたようで、そのあと何もなかったように線香を上げ、他人行儀のように失礼します、といって玄関を後にした。

 心の中で何かが燻ったような気持ちがあった。自分の義母だった人間の仏壇の前で悲しい顔をしながら手を合わせた絵美子の姿を見た幸樹は、何故か追いかけたいという思いに駆られた。

 手際よく戸締りをして、これと言って何も持たずに家を出ていた。理由は分からなかったが、駅の方角へ走る自分がいた。

  絵美子にはすぐに追いついた。

  「どうしたの?」

  「いや、なんでもないけど送る」

 幸樹は頭の中で弟の春樹のことを考えたが、何故かそれを口に出来なかった。何のことはない話題、春樹の話を始めれば絵美子だって喜ぶはずだった。しかし、その話題は絵美子から始められる事もなく、ただ、ふたりともあまり口を開かずに、幸樹は半歩後ろに下がって駅の方角へ歩いていた。

 商店街を抜けていくと夕方の買い物客で賑わう時間とぶつかっていた。幸樹がふと腕時計を覗いた時、真後ろから射す西日によって出来た自分の長い影に気付いた。そして隣にはそれよりも小柄な絵美子の影があった。

 ほんの数年という時間の中での変化に幸樹は驚きをも覚え、急にいなくなった継母の理由を知りたくなった。騒がしくなった商店街の雑踏の中で、幸樹は絵美子に顔を向けると、そこには気品のある女がいて再び俯いてしまった。

 「でも、コウちゃんがこんなに大きくなっていて驚いた。それも男らしくなって、もしかしたらお父さんに似てきたかな、神戸育ちの垢抜けたいい男。・・・あ、そうそう、私、今は横浜に住んでいるのよ。神戸と同じ様な港町」

 「ヨコハマ・・・ですか・・・」

 幸樹から見れば絵美子に変化はなかった。そして、何かの感慨もなければ、不安もなかったつもりである。それは最初から自分の母と認めていなかったところにあるのだと思ってもいた。だからと言って憎んでいたわけでもなかったし、無視をする理由もなかった。むしろ歳の離れた姉と言う印象の方が強いと感じて親しみやすささえ覚えていたものである。

 今日ここまでやって来た事は父に内緒にして欲しい、と絵美子は言った。幸樹自身、誰にも話すつもりはなかったし、そういった秘密を持てることを嬉しいと感じている自分もいた。

 家の方から長い道のりを歩いたにも拘らず、駅に近づいてからもふたりの会話は途切れ途切れであった。

 駅の構内に入った絵美子は幸樹の方に向き直り

 「じゃあね、ここまで送ってくれてありがとう。今日はあなたに逢えて嬉しかった。身体に気をつけて、元気でいるのよ」

 そう言った・・・。

 そう云われた幸樹の中には既に何らかの動揺が走っていた。お母さんと呼ぶのか、お姉ちゃんと呼ぶのか、迷いながらも口が開いた。

 「絵美子さん」

 「なあに?」

 「なんだか、映画のラストシーンのようです」

 幸樹がそんな舞台台詞のようなことを言うと、絵美子は大袈裟な驚きの表情を見せて、その後に少し照れたように顔を赤らめた。

 「じゃあ、もう少し付き合ってくれる?」

 絵美子は幸樹の返事を待たずに手を引き、タクシー乗り場へと向かった。

 幸樹と絵美子は兄弟のように見えていたかも知れない。隣に座る女は母と言うには若すぎる容姿であり、逆を言えば連れている男は恋人には見えない幼い顔立ちである。

 タクシーの運転手に元町のシティホテルの名を告げ、絵美子はずっと私の手を握り続けていた自分に気付くとさりげなく解いた。

 「お腹空いたでしょう?何か食べましょう」

 そう言って幸樹を気遣うように耳元で囁いたが、幸樹は絵美子を直視出来ずにぼんやりと外を眺め聞こえていないような振りをした。

 何を返せば良いのか判らなかった。子供の時と同じように「うん」とただ素直に答えれば良いものを、心の中で何かを整理することが出来ずに、幸樹の唇がなかなか開かないことに苛立ちさえ覚えた。

 絵美子の囁く声の背景に湿ったものを感じている自分が恥ずかしいような、これまで押し殺していた気持ちが伸縮を繰り返して、今にも千切れていきそうな感情だけがある。

 そういえば、祖母の告別式のあった次の日にクラスメイトのチエが幸樹に悔やみの電話をくれた時、何を喋って良いのか判らず、受話器を持ったまま震えてしまったのを思い出した。

 女というものに何らかのコンプレックスがあるのか、絵美子の行動も幸樹にとっては未知であり、今後の展開を予兆させる何かが流れているのだと考えた。

 タクシーがホテルの玄関に横付けされ、先に降りた幸樹は吹き降ろす風を受けて身震いをした。夕闇が始まろうとする時刻、周りの景色がただぼんやりと、それでいて痺れている感覚があった。

 運賃の支払いを済ませて車を降りてきた絵美子に

 「あんまり食欲がない・・・です」

 と告げた。

 「顔色が良くないわね」

 絵美子はそう言って幸樹の額に手を当てようとした。

 「やめて・・・・ください」

 幸樹はそう叫んだ後、絵美子を睨んでいた。

 絵美子には「やめて」と言った言葉しか聞こえなかったかも知れない。触られようとして別に苛立ったわけではないし、怒ったつもりもなかった。ただ、恥ずかしかったというだけのことである。しかし、そのせいか頭に血が上ってしまったようで、幸樹の眼に映っている正面の女の顔はみるみるうちに立体感を失くした。

 その輪郭だけが幸樹の意識の中に残って後のことはほとんど憶えていない。

 幸樹はゆっくりと闇の中へ沈み、そのまま倒れたのだった。

 

 シャワーも浴びずに二日が過ぎた。きっと身体中は垢だらけではないか、と幸樹は部屋の天井を見ながら感じていた。さほど広くもない部屋にベッドが並んでいて、真ん中にナイトランプが灯っている。

 ホテルの玄関で倒れてからずっとこの部屋に寝ているという事実。

 あれからすぐに意識は戻ったものの、しばらくは朦朧とした状態が続いた。その後にホテルの専属と思われる医者に診てもらうことが出来たのだが、風邪よる高熱と疲労によるもので、数日くらい安静にしていれば治ると言われた。

 出張に出ていた父が戻ってくるのは次の日であった。その間の食事の世話は、自転車を漕いで十五分くらいのところにある叔母の家で世話になっていた。

 幸樹が「友達の家で寝泊りをしているから、心配しないで」と言うことだけを電話で伝えると簡単に信じてもらえた。

 小さい頃から何かあると暴力を振るっていた父を知っている叔母は、

 「そりゃ、思いっきり遊んできたらええよ」

 と息抜きを奨励するような言い方だった。

 父に嘘をつくのは慣れてはいたかも知れないが、さすがに叔母に対しては気が引けてしまったし、早めに帰ってくるかもしれない父への不安もあった。それでもいざとなれば、これまでのことを正直に打ち明けてしまう覚悟も何処かに出来てはいた。学校へは連絡しなかったが、その後に担任から何かを云われたこともなかった。

 絵美子とはずっと一緒だった。部屋にあるもうひとつのベッドに横になったような形跡はなく、一人掛けのソファーを幸樹の傍らまで運んで、目を閉じ眠っていた。昨夜からずっと雨が降り続いている様子で、空間が不自然なくらいの静けさに包まれていた。

 絵美子の予約したホテルに、自分は身内として宿泊しているのだろうか、と幸樹は考えた。旅先で倒れた弟を看病する姉、何も違和感なく信じてもらえたに違いない。

 幸樹は絵美子が母親ではなく、姉として存在してくれたならば、どんなに嬉しかったことだろうかと考えていた。少なくとも父の盾にはなってくれそうな気はしていた。

 でも、今はもう忘れてしまいたかった。父も、継母であった絵美子も、そして自分さえも・・・。

 そんな心の奥底で息をしていると、自分の気の弱さも相当なものだと思えた。

 幸樹はソファーに眠る絵美子の寝顔を見た。柔らかそうなストレートの髪、憂いのある卵形の顔、叔母とは違う弾力のありそうな白い肌、胸にある象牙のブローチが、着ている黒のセーターを印象深いものにして、それはとても魅力的であった。

 やはり、母親のイメージとは程遠い女・・・。

 この人はこれまでに父も含めてどれだけの男を魅了してきたのだろうか、そこには免罪符のようなものはないのだと感じたが、確かに幸樹自身が絵美子のことを実態のない存在だと位置付けてきたことは事実である。全ての記憶をリセットし、自分のことも忘れることが出来たなら、この女をすぐにでも犯してしまうだろうかという気さえした。

 幸樹は手を伸ばし、絵美子の指に触れた。力の抜けた細い指だった。

 「眠れないの?」

 幸樹がほんの少し触れただけで絵美子が目を覚ましてしまった。

 触らなければもう少し見ていられた、という後悔する自分がいた。

 「いえ、・・・」

 「気分は?」

 「いろいろ」

 「いろいろってなあに?」

 首を少しだけ傾けて微笑んでいる絵美子の顔は、ヘッドボードに備え付けられたランプによって優しく浮かんでいた。

 「コウちゃんの寝顔って可愛いのね、女の子みたい」

 そう云われた幸樹は、そのまま絵美子の手を強く握った。

 「ねえ・・・」

 「なあに?」

 幸樹は自分の寝ているベッドへ絵美子を導いた。

 絵美子は微笑んだまま「あらあら、どこかの坊やみたいでちゅね」と言いながら横に滑り込んだ。

 とても甘い香りがした。

 その時、自分は母親を感じていただろうか。そして、そんなことよりも絵美子は自分との関係を再確認していたのであろうか、と幸樹を少しばかり戸惑わせた。

 それはもしかすると幸樹の想うこととは正反対な複雑に入り混じった全く異質なもので、それでいて、壊してしまいたいようなものだったとすれば、絵美子の気持ちを理解出来る気はしないでもない。

 その後も何一つ整理のつかないまま密着した絵美子の身体を幸樹は欲しがった。それはまるで乳を欲しがる幼児のように・・・・。しかし、反対に絵美子が欲しがっていたのは、子供に対する母性ではなく、男の持つ体ではないのか、という空気を感じた。

 幸樹が口を開くと、絵美子の唇はそれを更に押し開き、唾液を絡みつかせるように舌を動かしてきた。幸樹にとって生まれて初めてのキスは、歌謡曲の歌詞の中にあるようなレモンの味ではなく、鮪の刺身のようだと感じていた。

 尚もお互いの体を擦り合いながら、絵美子は着ているものを自ら脱ぎ捨てると、幸樹の頭の中に羞恥心というものが失われていくのが判った。それはまるで絵美子によって操作されているような動きに変化したようにも感じられて、段々と切なくもなっていく。

 幸樹は頬を寄せて絵美子の乳房を舌でそっと舐めてみた。息が詰まるような声が聞こえた。今度は乳首に歯を立てて咬むと、絵美子のあられもない声が部屋中に響いて、幸樹も何かに向かうように声をあげた。そう、それは会話ではない。

 幸樹が焦っていることを判断した絵美子はいろんなことを促した。それは耳であったり、喉であったり、腋にも愛撫を無言で要求した。幸樹の血は頭に回り、そんな術の意識が飛んでいて、行なったことのほとんどの記憶が途切れている。

 幸樹と絵美子の肉体はお互いから発せられた汗によって滑り、それは心臓の音によって波打つようだった。自分の指を静かに絡ませ、胸元から下腹部へ口唇が動くと、その甘美さで幸樹の力を抜かせているのが分かった。絵美子は続けながら幸樹を抱き上げ、そのまま後ろへ倒れこむと大きくなった幸樹のそれを自分の中へ銜えた。

 ゆっくりと程好いリズムで幸樹を奥へと導いて、それが奥まで到達して間もなく身体を反らせて声を漏らした。

 しかし、そうなってからも幸樹は自分から動く事は出来なかった。

 快楽の最中にいるはずなのに、そうしてはいけないような意識が邪魔をして幸樹を苦しくさせているのだった。

 それは心の中で何度も決意したところで思うようにはならないもどかしさを覚えた。

 無論、童貞の男が初めての体験で熟した女を揺さぶることなど無理な話である。そういった意味では絵美子はまぎれもなく母になっていたのかも知れない。

 幸樹が撫でていたのは、これまでの感情や物足りない淋しさだったのだろうか、この絵美子との異常にも思える関係は全てが残酷だと感じると、幸樹は絵美子から離れていた。

 女はオーガズムさえ迎えることもなく、そして男は射精をすることもなく・・・。

 何を躊躇ったのであろうか、絵美子は血の繋がった人間ではないことは充分に承知していたはずだった。例え何かの間違いがあったとしても成立する関係ではある・・・。

 「恥ずかしいことじゃないのよ。初めて?・・・」

 幸樹は小さく頷いていた。しかし、そんなことは如何でも良かった。

 「ちょっと待って」

 絵美子はそう言った後、幸樹の陰茎に唇を押し当てた。

 「やめて!」

 幸樹は思わずそう叫んでいた。

 とても寂しそうな目をした絵美子が見たものは子供だったのか、それとも男であったのか、過ぎた行ったのは束の間の夢なのだとお互いに思い込まなければならないような空気がそこに残った。

 幸樹は、こんな時に何を言うべきか分からなかった。自分が謝らなければならないのか、それとも子供のように拗ねればいいのか、考えれば考えるほど混乱した。

 たった数年、継母であったというだけで、自分はこの人の何を知っているというのだ、そんなふうに叫びたかった。それを自らに向けて・・・・。

 しかし、それも嘘であるような気がした。自分は何をしたかったのか、絵美子に何を感じていたのか、正直なところ幸樹には全てが判断出来なかった。

 「ごめんね、コウちゃん・・・許して・・・・」

 絵美子は震える声で幸樹の腕を掴んでいた。返す言葉もなくそれからも長い沈黙が続いた。荒げた呼吸が時間と共に整ってきて、幸樹は口を開いてみたが、痰を絡ませた小さな声しか出すことが出来なかった。

 「お母さん・・・だったんやなって思うたら続けられんかった」

 徒労感の中で、幸樹の口からふと出てきた言葉だった。

 「そうよね、本当に御免なさい・・・」

 幸樹は自分が悦楽の中に嵌り、絵美子に溺れてしまう想像をした。絵美子と言う女を愛し、この人のために何もかも捨ててしまえばいい。

 それは意味のない想像だった。幸樹が求めていたのは性ではなく、母なのだと改めて感じていた。理性が働いたというのはそういうことでもある。 

 「そういえば・・・春樹は・・・春樹は元気・・・ですか」

 右側に蹲る絵美子の顔を覗きこむと、幸樹の視線と合わさった。驚いた顔をして顔をあげた。

 「知らなかったの?・・・知っているとばかり思っていた。ああ、・・・でも、やっぱり知らなかったのね」

 絵美子は静かに目を閉じて大きな息を吸い、そしてゆっくりと吐き出すと、一呼吸置く間を作った。

 「ハルはね・・・、ハルは天国へ行ってしまったわ」

 幸樹は起き上がって絵美子を見た。そこには輪郭だけが残った抜け殻があるようにも見えた。激しい渦のような眩暈が押し寄せる前兆を感じて返す言葉を失った形になった。

 「わたしもハルちゃんのところに行こうと思って・・・」

 「え?どういうこと?」

 「死ぬことなんて別に怖いことじゃないの。春樹の苦しんだことに比べたら大したことじゃない。それにもう、捨てるものは何もない・・・だから・・・」

 仄かに灯ったナイト・ランプが滲んでぼんやりとしていると感じた時、幸樹の身体は震えだしていた。シーツが濡れたのは絵美子の目から零れ落ちた涙なのだと思っていたが、それは幸樹自身の涙であった。

 春樹の死と絵美子の失望と幸樹の情緒が入り混じった悲しみ・・・。

 「ねぇ、・・・そんなこと言わんといて・・・死ぬやなんて・・・ねぇ、何処に行くって言うん?」

 幸樹は嗚咽しながらも絵美子を揺さぶり必死で問うていた。

 「嘘よ、嘘、何処にも行かないから。あなたは素直ないい子ねぇ。あれえ?コウちゃんってそんなに泣き虫だったっけ?」

 絵美子は目を腫らしながら笑顔を作って幸樹を見つめた。

 「・・・うん」

 「ねぇ、ふたりでこのままどっか行こうか、遠くまで」

 「遠くって?」

 「誰も私たちを知ってる人がいないところ・・・」

 「でも、父さん・・・父さんに怒られるやろな、きっと・・・」

 再び会話が途切れた。

 「・・・そうね、怒られちゃうね。・・・コウちゃん・・・ありがとう」

 絵美子はそう呟きながら一筋の涙を流したように見えた。それが張りのある肌へ流れて、キラキラと輝いているのを美しいと幸樹は感じた。何処までも続く永遠の光沢の中に包まれている優しさ。

 幸樹は幼い子供のようにその言葉に安堵を覚えた振りをして、絵美子の胸に顔を埋めて目を閉じた。そして、自分の情のない言葉を今も後悔し続けている。

 

 次の日の朝、幸樹と絵美子はホテルのチェックアウトをすることにした。昨夜までの出来事をお互いの胸の中に仕舞い込み、何もなかったように部屋を出た。

 カーペットによって靴の擦れる音だけが耳に残るのを感じながら、七階の廊下をゆっくりと歩いて来て、設置されたふたつのエレベーターの真ん中にある呼び出しボタンを幸樹が押した。その時、扉の透明な部分は鏡のようなものが埋め込まれているのだということに気付いた。

 映っているのは男と女・・・。

 じっと眺めていると確かに姉と弟に見えるのだが、俯いたままの絵美子に幸樹が感じた存在は果たしてどんなものであったのだろうか、そして何か壊してしまったものはなかったのだろうか・・・。

 「絵美子さん・・・」

 エレベーターが到着したチャイムと幸樹がそう呼ぶ声とが重なり、鏡の中で目が合った。そして、しばらくそこから動けずにお互いの顔を見詰め合ってしまったのを今でもはっきりと憶えている。

 再会は何を齎したのか、それを考えると虚しさだけが纏わり付いた。そして、それらに縛られるであろう恐怖心も生まれていた。

 絵美子もきっと幸樹と同じ臆病な自分を知っていたに違いない。それでも幸樹の前では泣き言を言わない、そんな母のような女の強さは天性のものであったのだと思うが、それよりも逃避における最終の手段をこんなにも早く押してしまうとは夢にも思わなかった。絵美子は幸樹を助ける事が出来たとしても、自分の発条を巻くことの辛さに押し潰されてしまったのだと思う。

 愛という想いは細かい錆のようになって男と女の持つ発条の表面に付着した。それは何れ、心の腐食を呼ぶに違いないと感じていた。

 その日から飾られることになった影は、幸樹の心の中にひっそりと棲み始める。

 「どうか間違いであって欲しい。いや、間違いではない・・・。」

 胸騒ぎの底に潜む動揺の中で今しがた起こった事故を頭の中で再生しながらも困惑する自分がいた。

 ホテルを出て、少し冷たいと感じる海からの風に吹かれながら、幸樹と絵美子はゆっくりと歩いて来た。当時はまだ国鉄と呼んでいた神戸線で新神戸駅へ行き、そこから新幹線で横浜へ向かうと絵美子は言った。

 きっぷ売り場で乗車券を買い、まっすぐに改札口の前まで来ると幸樹の方を振り返り、元気で・・・、そう言って背中を向けた。そこに微笑があったのか少しだけ白い歯が見えたような気もした。

 ラッシュアワーを過ぎた人の疎らな構内で階段を上がってゆく絵美子がこちらを振り返ることはなかった。その背中は、とても小さく幸樹の眼に今でも焼き付いている。絵美子が見えなくなっても、幸樹は改札口の傍らでしばらくの間、佇んでいた。

 絵美子に恋をしていたわけではない、と言い切れる自信はない。ただ、そんなものとは全く無関係な幸樹の感情の正体を探す気にもなれない。ありきたりな感情を認めてはいけない、それをある種の運命的な感情と呼ぶのだろうか。しかし、それは目に見えるものでもないし、言葉に出来るものでもないのだとずっと感じている。

 幸樹は大きな息を吐き、駅とは反対側の通路へ、まるで何かに導かれるかのように足を向けようとしたその瞬間、急ブレーキをかける電車の大きな音がホームから繋がる建物の内部へと響き渡るのを聞いた。

 いくつかの悲鳴があった・・・。

 そして数人の男の声も重なり、それはただならぬ出来事が起こったことをそこにいた全ての人間が感じたはずだった。

 幸樹は全身が凍りつくほどの衝撃を覚えていた。

 ------トビコンダ!

 誰かが叫んだその言葉だけが耳から離れることはなかった。

 どうか間違いであって欲しい。いや、間違いではない・・・。

 幸樹はその場から動くことが出来なかった。何が起こったのか確認したいと思っているのだが、何か得体の知れないタブーが幸樹を瞬間的に動かさないでいた。

 きっとホームの向こうに捩れているのは、さっきまで一緒だったあの女に違いないという確信めいたものを感じていたからだ。

 そしてそれは、自分がこの場にいてはいけないという考えに変わっていた。

 幸樹の中に潜む弱さにも似た狡さは、情けないほどに心を痛めつけ、そして周りの人間に対してどれだけ冷酷な接し方をしているのか、そういう嫌悪感が幸樹を次々に打ちのめしていた。

 

 ずっしりと重い疲労感に気がつくと、幸樹は二階にある自分の部屋のベッドの中にいた。ずいぶんと泣き腫らしたのだろうと思えるほど毛布が濡れていた。

 それからすぐのこと、玄関の開く音がして父が帰宅したのだと判った。頭の奥で睡魔にも似た放心状態がずっと続いていたのだ、と思った。どうやって家まで帰ったのか全くと言っていいほど記憶がない。

 小さな嗚咽は続いていたが、震えてはいないことが分かると、下から名前を呼ぶ父の声が聞こえて幸樹は我に返った。

  しかし、返事が出来なかった。

 それは不思議なほど静かな気持ちになれた。

 いつも目覚ましとして使っている窓辺の台に置かれた時計を見た。蛍光塗料が塗られていてその光る針は午後八時を過ぎたところを指していた。幸樹が明かりも点けずに部屋の中にいることを分かっていたかのように、父は階段を上って部屋のドアを開いた。

 「幸樹・・・」

 「うん」

 「いるなら返事せいよ」

 その父の喋り方で、今日は酒を呑んでいるのが判った。

 「ちょっと風邪ひいたみたいやわ」

 そう答えた幸樹の枯れた声は、正に重度の風邪をひいたような声だった。

 「箱寿司買うて来たんやけど食えへんか?」

 「ん・・・今は食べとないわ」

 幸樹のその言葉をそっくり信じたようで、父は黙って階下へ降りていった。幸樹はまた父に嘘をついたのだと思った。

 父はおそらく春樹が死んだことを知っているはずだと思った。知らなくても良いことだからと、話さなかったという言い分さえ浮かんでもいた。そして同様に、絵美子のことも黙秘を続けるのだと感じたが、何かのきっかけで自分のことが明るみに出た時、父は何を思うだろうか、と考えていた。

 何かを言えば誰かが傷ついてしまうことはよくある。何かを言わなかったことによって後悔することもある。自分以外の存在を考えると、答えなどない。愛していれば尚のことその想いは募るばかりだと感情の固執に囚われている。

 許して欲しい・・・。

 幸樹はただ、それだけを願うような気持ちでいっぱいであった。

 いろんなことを思い、感じて、考えて、どれくらいの時間が経ったのかわからなくなった。もしかしたらまだ五分も過ぎていないような気さえしたが、流れ出す涙もようやく沈んでいた。

 時間は午前四時前であった。幸樹の口から再びため息を吐かれ、気怠い身体を持ち上げて徐にカーテンを開いた。

 静寂の闇にあった部屋の中を月の光が照らし出した。幸樹はそんな光を浴びながら月を探した。浮遊する空気を通り抜けて、見つけた月が記憶を甦らせていった。背筋が凍りつき、咄嗟にカーテンを閉じた。

 それが合図だったように隣の家に飼われているジョンという犬が吠えた。そして、それは朝刊を配達に来た人に対するものだということがわかった。

 薄っすらと頭痛らしいものを感じていた幸樹が、その時、突然に思い出したようにベッドから飛び出した。何事かに躊躇しながらも、大きく息を吸い、勢いを気持ちに注ぎこんだ。音を発てないようにゆっくりと階段を降りて、錠のかかった玄関の扉を静かに開けた。サンダルを突っ掛けてポストにある新聞を取りに行くと、幸樹に気付いたジョンがクーンと撫で声をあげた。ジョンは自分に吠えたりはしない。

 受け口から新聞を抜いて、家の前の道端まで飛び出し人の気配がないことを確認すると、来た時と同じように静かにそのまま自分の部屋へ引き返した。

 幸樹は慌てる自分に落ち着け、と呟いていた。机の上のアームスタンドを真ん中に合わせ、明かりを点けて新聞を目の前に置いた。そして、後面から順に開いていくと、地元記事の紙面とぶつかった時、そのニュースを見つけた。

 

 16日午前10時55分ごろ、兵庫県神戸市の日本国有鉄道神戸線元町駅で、神奈川県横浜市に住む主婦篠田絵美子さん(28)がホームから線路に飛び込み、姫路発大阪行きの特急電車にはねられた。女性は全身を強く打ちまもなく死亡した。遺書は見つかっていないが、旅行中の所持品と目撃者などから、生田署は自殺とみている。国鉄によると、列車は現場に1時間30分停車したほか、上下計5本が最大1時間50分遅れ、約800人に影響した。

 

 それは本当に小さな記事であった。

4.

 母は女である。しかし、全ての女は母であろうか。

 亡き母を想う時、幸樹は母という像を都合よく創り上げてきたに過ぎないのだろうが、それを他人に追い求めようとしていたのは間違いであったような気がしていた。

 そんなふうに愛が欲しいと感じることは、母が欲しいのだと理屈付けている様子にも似てみっともない・・・と。

 それに対して異性が求めてくる愛が母であろうはずはない。相手を独占しようとする欲望、それが母性と言うものに属するならば、それ故に、はっきりとした意識は必要ないのだと感じていた。

 そういった「女」と言う不思議な生き物を考察したいという思念が幸樹の若い頃には存在していたかも知れない。

 そう、母から産まれて来るのは男だけではない。芳野幸樹は男に生まれてきたのに、女のような意識を感得してみたいと思っていたのである。

  それまでの異性との交際は、自分自身を細かく確認しながら黙念していたのだろうが、それを成長と呼ぶには甚だしいとも思う。

 それでも母のような女を秘かに模索して、更に不全感を強めていたのだと感じると、単なる情欲であったのではないかと思えてくる。

 あれから、・・・。

 もしも絵美子が生きていたとしたら、横浜に身を置いたのではないかと幸樹は考えた。そこで父に隠れるように暮らしていたかも知れない。

 愛するということに憧れながら、絵美子と自分は恋人同士になれたであろうか。

 もしも絵美子に決まった相手が存在していたとしたら、自分はその男に嫉妬を覚えるだろうか。

 それはやがて大きな妬みになり、今より狂った時間を過ごしてしまうだろうか。

 そして、何もかもが嫌になり幸樹自身も自ら命を絶ったりするだろうか。

 愛を所有しようとする嫉妬、それは魔物のようである。

  いつ覚えたのか、嫉妬という漢字には女扁から組まれていることに気付いた。浮気するのはいつも男の方だと、女はその度に男を妬み続けた遠い昔からの形かも知れない。そして、自身が愛する者に対して自らも嫉妬を感じることで、女の意識へと流されていく錯覚をする。

  しかし、母はひとりなのだ。自分を産んでくれた母は間違いなくひとりだったのだ、と自らに言い聞かせ、想像を掻き消すような結末を繰り返す幼い幸樹が遠い時の中にいた。

 一九七九年の春、幸樹は神田にある私立大学の文学部に入学をすることが出来た。滑り止めとして三つの大学を受験したが、運良くどれも合格し、その中でも名立たるキャンパスを選んだ。

 大学というところでは、かなりの自由な時間が持てた。一年を通して半分近くは休みであったし、それまでの学生生活のように厳しい出欠があるわけでもなかった。自らの意志と責任で専門分野を学び、意欲さえあればアピールをも出来る場である。

 単位を取得していけば数年後の就職は有利にもなり、そこに目標というものを立てた人間であれば、その先の人生も違う作用が働くはずである。反対に漠然と過ごすということも選択できた。社会に出てからでは無理がある、大学に籍を置いている時間を使って自分探しが出来ることは悪いことではない。それは将来を高い授業料で買うようなことになってしまうのかも知れないが、生きていく下準備だという考え方をすれば、生活も一変してしまうような賭けがある気がしないでもない。

 そして、異性との交友に関して言えば、それまでの規律正しい生活とは比べものにならないほどオープンとなっていくのに戸惑いも覚える。確かに幸樹自身のテーマであることのように女にのめり込んでいった時期でもあった。

 幸樹は桜の舞い散る構内に腰を下ろし浪人生活という一年を考えていた。それまでは大学に入るという目標だけに絞って勉学に勤しんで来たわけだが、実は追われるように過ごしていたことが自分を救っていたかも知れないという考えに辿り着いた。

 そして、その先を如何に生きてゆくか・・・。

 正直を言えば、何も判らなかった。そして、その後も時間を詰めて生きていかなければ自虐的な方向へ堕ちてゆくような恐怖心さえ付き纏っていることも認めていた。それは死ぬまで燃え尽きることはないような予感もあった。

 ------あの日、自分は怖い夢を見ただけだ

 そう考えていなければ、自分の感情だけが一人歩きをして、最後には誰かに背中を押されるような妄想に囲まれてしまう恐悸が忍んでいた。そして心無い冷酷な人間のように平静を装った顔をして生きていたのだと言える。

 どれだけの時間が過ぎてしまっても、思考の狭間に嵌ってしまうことを覚悟はしていたが、それが何かは知りたくはない、かと言って求めたくもない。そうやって嘯きながら悔いだけが残る日々を歪んだ状態のまま「発条」を巻き続けていた。

 入学してから暫くは新入生のサークル勧誘を煩わしく感じていた。

 「アルバイトをしているから時間がないんです」

 幸樹はそんな返答をして断り続けていた。浪人中によく聴いていたラジオの深夜放送の中で、そう言えば殆どの部の連中は諦める、という話があったのを覚えていて、同じことを実践してみると面白いように「仕方ない」という一言が返ってくる策を身につけていた。

 その日も二日目のオリエンテーションに出席するまでに時間があり、構内の坂の向こう側を散策しようと春の暖かい風に吹かれながらまっすぐに歩いていた。

 始まる色と薫り、その中に様々な憂いと苛立ちをも含みながら、燃焼しきれない自分にいつもと変わらぬ欠落感を持ちながら・・・。

 「ジャズという音楽に興味はありませんか?」

 あの時、また捕まってしまったと感じて、幸樹はゆっくりと振り返ったのだが、ほんの一瞬、その声を掛けてくれた女に言い知れぬ懐かしさを覚えた。それが何なのかその時にはあまり気にはならなかったが、自分の知っている誰かに似ている、そんなことを瞬間的に思ったかも知れない。

 女の着ていた黒のトレーナーの胸には、コルトレーンが難しい顔でサックスを吹いているものがプリントされていた。そして、それとは逆に女の持つ笑顔に少し戸惑っていた自分がいたのも覚えている。

 重なった視線は優しさにも変化して、目を逸らすことが出来なくなった。いつものように勧誘を断るあの科白を吐こうとしたのだが、出て来た言葉は違っていた。

 「ビル・エバンス、好きですけど・・・」

 「へえ、美し過ぎてあたしにはピンと来ないけれど・・・。勿論、認めていないというのではないわ。ミシェル・ルグランと出逢ってからの彼は自分を確立して行ったしね」

 傍らに用意されたパイプ椅子に座るように促された幸樹は、目の前に並んだジャズのアルバムを見るともなく眺めた。

 正直を言えば幸樹にとって初めて目にするレコードばかり、そのことに少々恥ずかしさを覚えながらも、見栄を張って少しだけ微笑して見せた。

 「彼がマイルス・グループに参加しなかったらどうなっていたかしら?」

 <Kind Blue>と書かれたそのアルバムに触れながら、言葉を待つような目を向けられたが、はあ、という間の抜けた幸樹の返答に見縊られた気持ちになったようで、代わりにため息が聞こえた気がした。

 幸樹はその反応を目の当たりにして、気の強そうな女だという印象を受けた。昔からそうだったのだろうが、何かの言動に対してすぐに返答をされることを嫌がっていたのかも知れない。それはリズムと言うか、タイミングと言うか、威圧される空気が父のそれに似ていたからだと分析すると、そういった人間には頑なに壁を作る癖があることを自覚した。

 女はその後も、理論でも並べるように、また、哲学でも混ぜるように喋り続けていたが、幸樹が何も返さないでいると、疲れた顔をした。

 「まあ、その気があったら五号棟の隣にある建物の二階一番奥の部屋。そこにビレッジ・バンガードって看板あるから尋ねて来てね。待ってる。はい、これ」

 安っぽいブルーのコピー紙に刷られたサークル案内を押し付けるように渡され、その女は椅子から立ち上がり再びの勧誘へと他の部員のいる元へ去っていった。

 幸樹は手に持っていたチラシのコラムを読みながら、自分がジャズをほとんど知らないということだけで気持ちが沈んでしまったが、こういった大学のサークルを通して、ジャズという音楽を幅広く知ることが出来れば愉しいのではないかとも感じた。ただ、ジャズに詳しい連中の中へ入っていくということは自分の中では勇気のいることであったが・・・。

 ふと、日向っぽい風の匂いがした。ハタハタと音をさせてチラシが揺れた。ミユの横顔が幸樹の脳裏を掠めた。

 文章の最後にボールペンで書かれた「吉村香代子」という字が目に付いたのはその時である。それは何処にでもある名前としか思わなかった。しかし、幸樹の中には釈然としない気持ちが先を歩いていた。それは音楽を愉しむのに薀蓄が必要だと云われたような苛立ちである。

 他人と論ずることがあまり得意ではない幸樹に、演奏をする人間の感受性や生き様を彼是と言えるわけがないし、言いたくもなかった。自分にフィットする音楽が聴ければ、理由など要るものか、そう感じたほどである。

 午後、昼食を挟んだ三時間ほどのオリエンテーリングが終わり、あとは何をしようと自由になった。アルバイトをしているからサークルには入れない、という言葉通り、本当にアルバイトをしなければ生活は困難になるだろうと考えてはいたが、いざ始めようと思うと何をしていいのかということにも悩まされた。しかし、自分なりに授業の時間割を組み立てていくと、あまりの空き時間に呆然として、そんな余裕のある時間を有効に使わなければならないと改めて考えさせられた。

 大学に合格してから、桜上水を出て本郷三丁目駅に程近いところで暮らし始めていた。そこは六畳で一軒屋という朽ちかけた小屋のようなところであったが、大家の住む敷地の一部に建てられており、昔の離れと呼ぶものではなかろうか。そんな建物の隣には取って付けたような便所とプラスティックの盥を思わせるような流しがあって、二万五千円の金を月毎に支払うことになっていた。

 そこにあった庭そのものは、大家の所有するものだったが、契約する時に庭付きのような思い込みがあって、後にそれはないと気付いてからそこに住むことを後悔していた。そして、一刻も早くここから逃げ出したい気持ちが日ごとに強くなっていき、早々にアルバイト先を決めて引越し費用を作らなければという焦りも生まれていたのだった。

 そんな忙しい時期、提出を促された書類なども含めて、片付けてしまわなければならないことは山ほどあった。幸樹はそれを充分に分かっていながら、吉村香代子のことを考えていた。

 特に美人というわけでもない。ただ、あの積極性のある行動に憧れて、優柔不断な自分を正しい場所へと導いてくれそうな印象があることに気持ちが揺らいでいた。

 また母を捜しているのか、幸樹はそんな苦笑もしたが、なるだけ違う捉え方をしようと努めてみた。

 購買部でレポートに使う原稿用紙を物色して、それからいくつもある同好会やクラブのある建物へ足を向けた。比較的新しい本館の建物とは対照的に、廃屋を思わせるような、全体が薄汚れた建物がそこにあった。入り口のすぐ側が便所であったが、そこから発するアンモニアの臭いとでも言うべきか、一種独特な異臭が充満していて、天井からはワット数を抑えた薄暗い裸電球がひとつだけぶら下がっていた。そして昼間でもそれがなければ暗窟のようだと思わせた。

 割と長めの廊下の所々にはアルマイト加工されたバケツが等間隔に置かれてあり、そこには水が張られていた。フィルターの先で崩れた煙草の吸殻が黄色くなった液体の上に無数に浮かんでいるのを見て、ひとつだけ咳払いをした。

 途中に踊り場を設けた階段を上がりきり、二階の廊下を意味不明な部会の名前を眺めながら幸樹はゆっくりと歩いた。そして、一番奥まったところにビレッジ・バンガードというジャズの愛好会を見つけた。

 開かれたままのドアには [ roots ] という文字があり、何かのジャケットを思わせるような二値の落書きがあるのが目に付いた。

 衝立の向こう側からは微かに聴こえてくるビートがあり、それを耳にした瞬間に突然の笑い声が起こると幸樹の足が止まった。部室の中をそっと覗き見ると、大きなテーブルの真ん中にジュースや菓子袋が置いてあるのが目に付いた。何となく近寄り難い気がして踵を返そうとしたが、「入部ですか?」そう背後から男に声を掛けられて幸樹はたじろいだ。

 「あ、いえ・・・あの、見学って・・・感じで・・・」

 何のことはない、その後の巧みなセールスに捕まったように、いつのまにか言い負かされる気分であった。もしかしたら自分は、玄関先でいくつもの悪徳セールスから物を買ってしまうタイプの人間かも知れない、と敗北感のようなものを噛みしめながら、入部届けにサインをしてしまったのである。

 そして、次の日の夜には早くも新入部員の歓迎会が決まり、それは不思議なことだと思ったのだが入部なんて節目がないのだから歓迎会と称した酒好きの集まりに過ぎないのだということにもそこで初めて気がついた。ジャズ愛好会の活動たるものは仲良しグループの延長線上なのだと理解すると長いため息が姿を現わし、路地裏に吐き捨ててしまいたい気分にもなった。

 十人ほど集まったその会は神保町の居酒屋で行なわれた。香代子もまたそこに出席していたがテーブルの大きさから言えば、程遠い場所に座っていた。

 まず構えてしまうという幸樹の性格からすれば、見知らぬ人間と打ち解けあうのに時間が必要であるはずなのだが、意外にもそれほどの緊張はなく、落ち着いていられる自分を不思議に思った。

 一年生は三人。幸樹の他には銀縁の眼鏡を掛けた神経質そうな内田という男、そして、どう見てもジャズなんて縁がないだろうと感じさせた宮本里美という女がいた。

 内田は酒に弱いらしく、乾杯の時のほんの一口で顔を紅潮させては殆んど喋らなくなってしまい、それとは反対にお祭り気分の里美に部員の男たちの視線は集まっていた。

 幸樹は上級生の男たちの爛れるような脂の匂いを感じてしまって、それは里美の着ていた白いフリル付きのブラウスを脱がし、春の薄いロングスカートをたくし上げるような眼にも思えた。

 自己紹介をするように促された幸樹も大きな深呼吸をして立ち上がると周りからの視線を受けて、ある程度の緊張を覚えた。

 「学籍番号79C-153、一年、文学部の芳野幸樹です。僕は生まれも育ちも神戸で、趣味は・・・えと、趣味はこれから探そうと思っています。ジャズは初心者ですが、皆さんにいろいろと教えていただきたく入部いたしました。よろしくおねがいします」

 「どんなジャズメンが好きなの?」

 即座に座り込もうとした私に香代子が口火を切った。

 「えー、あの・・・よくわかりません」

 「エバンス好きだって言ってなかった?」

 「え、まあ好きですけど・・・」

 「どういうとこが好きなのか言ってみなさいよ」

 口煩い女の言い方であった。それはどこかの小姑の刺々しい露悪趣味な態度にも思えた。しかし、何かを言えば更に輪を掛けて皮肉めいた事を云われそうな気がして、幸樹は口を噤んだ。

 「まあ、いいじゃないか。せっかくの歓迎会、楽しくやろう」

 そう言って制してくれたのはボスと呼ばれていた三年生の部長であった。香代子のように本気でジャズと言う音楽の歴史を紐解こうとしている人間もいることに、サークルの意味を問うてみるような気にもなったが、その日は黙っていることの方が妥当だと考えて口を閉じ俯いた。

 幸樹は目の前に置かれたビールに少しだけ口を付け、斜め向こう側に座る香代子を見た。睨むような眼でこちらを見ていたが、それはやがて、何かを企むような嫌味な笑顔に変わった。

 未成年でありながらも、自分は酒には強い方だと思っていた。その時も部員の全員がほろ酔い気分になっているにも係わらず、幸樹自身、平然としていた。隣に座る里美の大きな笑い声に圧倒されながらも、少しだけ喋り、時には相槌を打ってみせた。

 幸樹はふと背中を叩かれてゆっくりと振り返った。そこにいたのはほんのりと顔を赤らめた香代子であった。

 「神戸東灘小学校、三年二組、芳野幸樹、現在十九歳」

 最初は何なのだと思った。その経歴の訳もわからず、返事が出来ずにいた。

 「何にも憶えていないって顔ね。でも、私はあなたを許さないわ」

 許さないと言われて、一瞬、絵美子のことを考えたが、全く違うのだと判断すると、心に痞えていたものを捜し始めている自分がいた。

 「吉村先輩、あの、すみません。何のことかわかりません」

 幸樹がそう言うと、香代子は昼間と同じような長いため息をついた。

 「私は、さっきあなたが神戸出身って言った時に気付いたのよ。私は小学生の時、あなたと同じクラスだった。憶えていない?」

 「えっ?」

 少し、考えてみたがはっきりとした記憶はなかった。しかし、確かに逢った時に感じた何かがそれでなかったのかとも思えた。

 「すみません・・・」

 「私はね、あなたにいつも虐められていたんだから。名前が同じヨから始まるから、いつだって隣だった」

 はぁ、という気のない返事をしたとたん、幸樹の目は大きく開かれた。

 「あ、思い出した、・・・ような、・・・名前ははっきり憶えてなかったけど、あ、そうだ、髪の長い、あのこんな風に髪を結っていて、あぁ、・・・あ・・・」

 香代子の違う笑顔がそこに現われてから、何を言っているのよ、と云いたそうな顔で再び睨みつけられた。

 「ひっどぉい・・・。いじめっ子って虐めていた子のことをちっとも憶えていないのね。私の心の傷は相当なものだったのよ」

 「あの、・・・すみません」

 「でも驚いた。神戸の芳野って聞いた途端にちょっと寒気がしたわ。また虐められるって妄想が瞬間的に浮かんだもの」

 「そんなことはしません」

 「なんか、芳野くんって本当にあの芳野幸樹なのかなぁ?全然違う人みたい。私が東京へ転校して行ったのも憶えていないんでしょうけれど、もしかして、そのあとに虐められっ子になったとか?」

 「そんなのはないけど・・・」

 小学校三年の時、自分が香代子と隣り合わせの席であったことは思い出したが、どんな悪戯をしていたのか、本当に憶えていない。筆箱を隠されただの、大事にしていた洋服を汚されたのだの、今にしてみればチョッカイというものに過ぎない気もしたが、香代子が初恋の男だということをその時に初めて知った時には改めて驚かされた。

 幸樹が、初恋を自覚したのはもっと上級生になってからである。月並みかも知れないが、自分の慕った相手は、小学校五年の時のクラスメイトだった。

 その時、何が起こっているのかという異変に理解できないでいたし、告白する勇気などあるはずもなかったが、どうしようもない苦しさと恍惚が溢れても、それは恥ずかしいことであるような気がしていた。後々に、それが「恋」と言うものであることが判った時、幸樹の淡い夢として記憶に残っていったようなものだった。

 例えば、香代子と同じ時期に異性を好きになる感覚が芽生えていたら、自分は如何なっていただろうか、と幸樹はつまらない想像をした。自分は気の強そうなこの女を好きになっただろうか?いや、当時はもっと大人しい性格であったようにも思える。だとしたら、幸樹の行なった虐めによって香代子は形成されたのであろうか・・・。

 遠くを見ながらそんなことを思っていると突然、幸樹の目の前にビールのジョッキが置かれた。

 「呑め!ここではあたしが先輩だぞ。全部呑め!」

 「はい・・・」

 「これは虐め返しよ」

 「お手柔らかに・・・」

 幸樹はジョッキを手にすると一気に飲み乾した。それは香代子の自分へ対するささやかな復讐であったのだと素直に受け止めて、その命令に従った。

 幸樹は腹の底で「可愛い女かも知れない」そう感じてしまった。そう思うと素直に、すみませんでした、という言葉も口から出ていた。

 「やっぱり芳野って違う人みたい。調子でないのよね。ねぇ、何か言い返してくれない?」

 「いえ、・・・」

 「もしかして、あたしマゾヒストの気があるのかも知れない」

 香代子のテンションが高くなっているのは明らかであった。それはストレスから来るものであると勝手な推測をしながら、幸樹は言葉少なに時々笑みを溢した。

 お祭りのような若者のエネルギーは、その若さゆえ生まれてくる。その時には周りの客が怪訝そうな目で我々を見ていたようであったが、その気持ちは幸樹自身も歳を取ってから理解出来ること。何をそんなに騒ぐことがあったのか、歳を重ねて思えば可笑しなことである。

 香代子は近くにいた部員の女友達を呼びとめ、「ねぇねぇ、彼はあたしの初恋の人なのよ」などと、それはまるで恋人でも自慢するように話を盛り上げながらはしゃぎ回った。幸樹はそんなことに呆れながらも少しだけ緩くなった心を覗かせながら昔話にも喜悦するようになっていた。

 宴も酣、という雰囲気は続き、日付が変わった零時になっても、誰一人帰ろうとする者はいなかった。勿論、帰っても良いですか?などとは言える場所ではない。

 部員の連中がどの辺に住んでいるのか知らなかったのだが、自分は歩いて帰っても大した距離ではないので、慌てていた訳ではなかった。店そのものは午前四時までの営業をしているようであったが、もうかなりの量のアルコールが入っているはずで、新入生の内田は早々に部屋の隅っこで横になってもいた。幸樹は時々、腕時計を見ながら隣に座る里美に耳打ちした。

 「電車がなくなるんじゃないですか?」

 「いいの、いいの。私はいいの・・・」

 何がいいのか解からなかったが、そう言う本人の言葉に、「なら、いいけど・・・」と返答しておいた。里美は笑いながら、そうやって大勢で騒ぐのが楽しいらしく、すぐに幸樹を通り越して再びはしゃぎ始めた。

 そんな時、決まって思うことがある。ここは東京------

 何があっても許されることではないことを承知はしていたが、あの頃は全てが許容範囲であるような不明な理屈もあった気がしている。

 そして日付は変わり、午前二時を過ぎてからカラオケに行くことになって、幸樹の中で逃亡する目論みが浮かんだ。割り勘とした金額を一番に支払い、用を足しにいく振りをして、そそくさと店を出た。少し小走りにその場から離れ、小さな路地に身を隠し、少なくなった煙草を一本抜いて少しの間だけ時間をやり過ごそうと火を点けた。

 「みっけ・・・」

 目の前に香代子がいた。驚きのあまり幸樹は言葉を失ったが、間違いなく自分の後を追いかけてきたのだと判った。

 「ヨシノ、あたしは恐怖の酔っ払い女だぞぉ・・・」

 「ほらほら先輩、カラオケ行かないと置いていかれますよ」

 「お前を虐めるのだぁ・・・」

 そう言うと、香代子は身体ごと幸樹の中に崩れた。それをしっかり受け止めて支えてから、しばらく如何すればいいのか迷っていた。

 ふとマリコのことが頭に過ぎった。あの時、散々に愚痴を聞かされては、最後に酔いつぶれてしまっていたが別に悪い気はしなかった。朝方、ごちそうさまでした、という置手紙を残して幸樹はひとり帰っていったが、今は如何しているだろうかと気にもなった。

 「先輩、タクシー拾いますからね、向こうまで頑張って歩いてくださいね」

 幸樹は返事のない香代子を支えた。白山通りへ向かう途中で似たように酔いつぶれたサラリーマンにからかわれながらも、それを無視してタクシーを捕まえた。

 「おうち何処ですか?ほら、先輩、しっかりしてください」

 香代子は、はい、という返事はするのだが、その答えは返ってこなかった。幸樹は痺れを切らす運転手に謝りながら、一緒に乗り込み、本郷三丁目を告げた。

 里美との“なんとなく”の付き合いが始まったのもそれからすぐのことであった。同じ学部だったせいもあり、授業の合間には気心知れた相手になっていた。友達を作るのも得意だとみえて、幸樹以外の学生にも気軽に会話をする姿を何度も目にした。

 里美は垢抜けた感じのする確かに東京的なお洒落な雰囲気を醸し出していた。現役で入学してきたのだろうから、ひとつ年下ということになる。しかし、その明るい子供のような性格に幸樹は少しだけ引き気味にもなっていた。

 里美は、授業の時も学内の食堂に行く時も幸樹に付いて回る毎日が続いた。理由は判らなかったが何だか監視されているような気分で面倒にも思えた。

 「僕はアルバイトをやろうかと思っているのだけど」

 「あ、そうだ、下宿暮らしだって言ってたね。大変だね、でも、それほど講義も入れてないんだから今のうちに稼いだっていいんじゃない?」

 「宮本さんは何かやっているの」

 「あのさぁ、前から言おうと思ってたんだけどさぁ、そのミヤモトサンって呼ばれるの嫌な感じなの」

 「そう・・・か、何だか慣れなくて・・・」

 「里美でいいよ」

 「えと、里美さんは」

 「“さん”もいらないってばぁ」

 「里美は・・・えと、バイトやってるの?」

 そう呼んで、少し恥ずかしい思いがしたが、里美は満足げに微笑んだ。

 「別に何も。アルバイトなんてやるって言ったらお金くれるような親だもん」

 「へぇ、それはそれは・・・」

 「学生課に行けば何処か紹介してくれるかも知れないけれど、あ、そうだ。うちのママがね、青山で美容院やっているのよ。人手が足りないって言ってたから聞いてみてあげようか」

 「ビヨウイン?」

 「助手みたいなもんじゃないかな?掃除したりとかいう雑用だろうけど」

 「うん、悪くないな、でも本当にいいの?」

 「何がいけないのよぉ。あー、それよりもその伸び放題の髪の毛をママのお店でイカシた感じにして変身しようよ」

 次の週の火曜日の午後に、幸樹は里美に連れられて青山にある「ナチュラル・オリーヴ」という美容室に行った。

 それは都会の中にある洗練されたお店だった。神戸にいた頃に叔母が通っていたような個人経営の寂れた美容室を想像していたのだが、そこに着くなり面を喰らった自分であった。それ故に幸樹の緊張は随分と意識が遠のくほどになり、途中で逃げ出したい気分にもなった。

 その日の店は定休日で、中に入ると里美の母が待ち構えていた。里美と並んで椅子に座るとふたりは姉妹にも見えた。秩序が衣装を纏ったような優美さ、清楚な白いシャツに黒いパンツという装いは、小柄でありながらバランスの良い美しい体躯の線を強調していた。

 美容室と言う空間を忘れるような深い色合いの木柱と共に、床にはコルクが貼られていた。それは外から見ればブティックかティールームにも見えてしまうかも知れないが、その調和の取れたデザインは他には類を見ない高級感も漂わせていた。

 何だか気恥ずかしい・・・。

 そう感じるともう一方で小刻みな震えが押し寄せていた。

 里美の母は幸樹を向かい側のソファに座らせると、落ち着いたデザインの名刺を差し出した。

 -----宮本喜和子

 すでに話は済んでいるようで、幸樹の採用は最初から決まっていた。しかし、悪いようにはしないから、という喜和子の一言は幸樹の緊張を増幅させた。

 一通りの説明を受けて椅子から立ち上がると、壁一面の鏡に幸樹の容姿が映った。その男は、確かにみすぼらしく見えた。

 「ユニフォームはとりあえず仮の物で、芳野くんならそのままでもピッタリだとは思うけど、後で合わせたものも作りましょう」

 そう言う喜和子を待ち構えたように里美が口を開いた。

 「ママ、幸樹の頭を何とかしないと・・・」

 「そうね、芳野くん、私がカットしてもいい?」

 妙な気分であった。はい、とは返事をしたものの、正直なところ不信感でいっぱいになっていた。俎板の鯉、そんな気分で困惑した表情をしていると、勝手が分かっている里美がそそくさと用意を始めている。誰もいない店内でひとり椅子に座らされた幸樹は静寂ばかりが気になって仕方がなかった。

 「まず、シャンプーをしましょう」

 幸樹は無言だった。そして、くるりと椅子を回転させられて手際よく背もたれを倒された。その直後、顔にタオルを掛けられると、シャワーのコックから勢いの良いお湯が出る音を耳にした。周囲が見えないことで、神経は研ぎ澄まされ、如何しているのが良いのか判断出来ない自分に再び恥ずかしさを覚えた。

 喜和子の胸が私の肩に当たっていた。 

 「熱くはない?」

 そんなことには気付かないような声を幸樹は掛けられたが、自分の顔が火照るのを感じると、違う意味で「熱い・・・」という言葉を想像した。その瞬間、額から流れ落ちる汗に気付いた。それは自分の意識がわずかに薄らいでいくような気分でもあった。

 次に後頭部へ喜和子の腕が回された。タオルの上にはふたつの柔らかい感触があった。さらに力は加えられ、抱きしめられたような状態になると、気を失うのではないかという気さえした。それはとても長い時間だったように感じられ、最後にすすぎを終えて椅子の背もたれが起こされた。

 「お疲れさまでした」

 心臓を握り締められたような興奮が残っていた。里美は傍に居たのだろうかと、辺りの鏡から盗み見たがその様子はなかった。代わりに喜和子の真っ赤に塗られた口紅が目に入ると、幸樹の血は再び急速に動き出したような感じがした。

 それからのことはあまり憶えていられなかった。カットされながらも様々な話をしていたようにも思えるが、全てが終わった時に、喜和子の、「はい」という言葉で、催眠から醒めさせられたような気分だった。

 幸樹の目の前には女の顔をした自分が鏡に映っていた。再び我に返りながらも言葉を失ったようにしばらくは動けないでいた。

 「あの、もっと短くしてもらってもいいでしょうか?」

 「あら、そう? 似合うけれど、そうね、それもいいかも知れないわね」

 女の子みたいだ、そう言われたくないと感じた幸樹の苦悶の言葉だった。

 

 里美の家が裕福であることはよくわかった。世田谷の成城に自宅があるにも関わらず、ひとりで住むには充分すぎるほどの広さのあるマンションを借りて貰い、そこから大学へと通っていたのだと知った。そして、数日後には当たり前のように幸樹は部屋に誘われた。

 「汚ない部屋だな。せっかく広くて素敵なとこなのに」

 「だって面倒だもの、お掃除とか好きじゃないんだもん」

 「それにしても・・・」

 小さなテーブルには飲みかけの飲料水や食事を終えたままの食器などが放置され、同じように小さな台所も汚れていた。脱ぎっぱなしの服、出されたままのカセットテープ、それは足の踏み場もないほどに散らかっていた。

 「彼氏を部屋に連れてくるのにこれは酷過ぎない?」

 「幸樹ならいいかなと思ってさ・・・」

 幸樹は自ら発した彼氏と言うその言葉に恥ずかしさを感じながらも、里美が何の反応も示さないことに安心感を覚え、何故に自分なら良いのだろうか、という疑問も残した。

 「片付けてもいい?」

 「え、やってくれるの? サトミ、嬉しーい!」

 幸樹は手際よく掃除を始めた。里美はそんな動きをベッドの上から眺めていたが、一緒になって手伝うことはなかった。時々、幸樹が訊いたことに、あれはこれはと指示を出すだけでその場から動くことはなく、何の苦労もなしに育ってきたお嬢様には将来の生活など存在しないのではないかと言う気にさせた。

 里美は如何に暮らしていくかではなく、如何に人生を楽しむかということだけ考えていたように思えたが、自分もそれが出来るなら確かにズボラになっていたのではないかという気はした。しかし、何も言わずに黙って片付けを続けた。

 「何か作ってやろうか?」

 「料理も出来るの? すごーい!幸樹ってホントに頼もしい !!」

 煽てられているとは考えなかったが、幸樹の中で褒められる喜びは確かにあった。仕方ねえなぁ、と言いながらも笑っている自分が滑稽にも思えた。

 冷蔵庫の中は当然の如く何もない。ふたりは近くの店に買い物へ出ることにしたのだが、それは少しばかりの新婚生活を想像させた。幸樹にそういった願望がなかったわけではない。ただ、里美に対しては諦観の上に成り立ったママゴトのような遊び感覚の方が強かった。

 「ねぇ、幸樹・・・いっそのことここで一緒に住まない?」

 それは同棲ということなのだ、と幸樹は考えた。確かに今の住居を出てしまいたかったのだが、「まぁ、気が向いたらね」という返答をした。

 きっと、家事や洗濯、そんなことで使われるのがオチだと思ったが、その後、幸樹は里美の部屋に入り浸りになってしまう。それは下宿を引き払う訳でもなく、一時的にそこに寝泊りしているつもりのことでそれは始まる流れだった。

 幸樹は自分を淡白であったのかも知れないと感じていたが、何を言われても拒否することはしなかった。そして、里美が覚えた快楽のひとつにセックスがあった。正直を言えば、当時の幸樹は里美のことが好きでも嫌いでもなかった。いくら肌を重ねても幸樹の中で恋愛感情が目覚めることはなかった。

 そんな気持ちで付き合いを続けていいものかという思いもあったが、その時もまた「東京」という二文字が幸樹の心をいい加減なものにした。そういった意味では里美も同様であったのかも知れない。

 例えば、幸樹の思う「恋」は東京にはないのだと感じたほどであった。「付き合う」という局面で愉しむことだけが全てであるような・・・。そして、そんな幸樹の考える「恋」は、その後に里美と一緒に生活することの苦しみを生むことにもなった。

 逆に香代子はいつも一歩引いていたような気もしたが、嫉妬があるのは明らかであった。

 「別に芳野が誰と付き合おうと関係ないけどさ」

 それは香代子が幸樹に対して幾度となく繰り返した科白だった。

 一度だけ、濠村も呼んで香代子と三人でジャズの生演奏を聴かせるバーに行ったことがある。濠村は池袋の先にある私立大学に合格していたのだが、医学部ではあまり遊ぶ暇がないようなことをその時に話してくれた。本来は国立一期校を志望していたらしいが、その年から始まった共通一次試験の合格ラインに到達できずに、仕方なく私立に絞ったということだった。

 濠村は香代子のことをとても気に入った様子で、その後にお互い連絡を取り合うことになった話はずいぶんと先で聞いたのだが、幸樹は濠村の顔を見たその時に当然ミユのことが頭に浮かんでいた。

 ただ一度だけ顔を合わせ、ほんの少しの会話があったいうだけなのに、幸樹はずっとミユを想っていた。勿論、濠村との会話の中では話題にも上らず、ミユと言う存在がそのまま幸樹の中を過ぎていったとしても可笑しなことではないはずであった。

 もしかしたら、椿の中には甘い香りのする毒が含まれていたのかも知れない。そんなつまらない想像も浮かばせ、いつのまにか忘れることの出来ない女になっていたのだということを後々に噛みしめたものである。

 恋は時間が流れる分だけ、膨らみ続けていく。

 俗に初恋と言うものは、清いイメージが大半を占めているもので、歳を取ってもそれを壊せないまま記憶に留めているのと同様に、初恋ではなかったが、ミユと言う女のイメージを膨らませていたのだと思う。逆に、もしかしたら自分のことなど憶えていないかも知れないという気もしていて、確かにそれは寂しいことと感じたが、運命は悪戯にもハートを刺激し続けていたと言える。

 八月の最後の日曜日、東京は茹だるような残暑を観測しながらも、幸樹はナチュラル・オリーヴの店内で冷えすぎるほどのエアコンの中を動き回っていた。

 授業の空いている水曜日と土曜日の午後と日曜日が幸樹の正規の勤務時間ではあったが、夏休みと言うことも重なり、ほとんどの時間をアルバイトに費やしていた時期である。

 午後を回って遅い昼食から戻ってくると、経営者である喜和子に呼び止められ、幸樹は事務的な返事をした。

 「コウちゃん、お客様があなたを尋ねていらっしゃたわよ。あの、一番奥の・・・」

 幸樹は指差された方向を凝視した。チーフがストローク・カットを入れている最中であった。

 そして、それがミユであることはすぐに判った。幸樹の心臓は撞木で突かれた梵鐘のように響いた。

 「あ、声をお掛けするのは後にしなさい」

 「はい」

 そんな返事をしながらも幸樹の驚きは徐々に押し寄せてきた。その時、ミユが如何して自分を尋ねて来たのかという疑問もあったのだが、それよりも無くしたものが見つかったような嬉しさも一緒に込みあげていた。後で説明されたことだったが、幸樹がそこでアルバイトをしていることを濠村がミユに溢したような話をされた。幸樹はいつまで経っても落ち着かなかった。

 「私のこと、憶えているかしら?」

 「藤本美優さんですよね」

 「嬉しいな、憶えていてくれて、ね、何時に終わるの?」

 「七時には帰れます」

 「向かいのランバー・ジャックって喫茶店で待ってるから終わったら来てくれる?」

 「わかりました」

 その会話は隠れるように行われた。妙な気分であった。そういった中に「恋」とはときめくものだという改めも生まれた。しかし、自分はずっと自分の気持ちを伝えられないでいたのだ。勿論、自らその扉を開ける勇気も持てないままであったのだが・・・。

 それから残り四時間ほどの勤務時間は、自分を見失うほど気の高揚を抱いていた。急ぐ必要もないのに全てのことに慌てている。早退させてもらうことも考えたが、首を振って時計を気にしながら幸樹は仕事を続けた。

 営業時間の間際にやってきた客にため息を吐きながらも、何とか終業を迎えた幸樹は裏口から店を出て急いでランバー・ジャックへ向かった。

 街は既にたくさんの電飾に彩られて、ログハウス調にデザインされたその店の前に到着すると、小さな窓辺にミユが頬杖を突いている姿が見えた。幸樹は呼ぶように窓を叩いて、微笑んで見せ、そのまま左端のドアから店に入り、まっすぐにミユの座るテーブルへ息を切らしながら近づいた。

 「すみません、遅くなりました」

 「いいのよ、仕事だもの。お疲れさまでした。それにしても幸樹くんはすごく様になってた。・・・本当に見違えたわ」

 「照れます」

 「何か食べる? 勿論、まだでしょう?」

 「えぇ、でも別のところへ行きませんか?」

 幸樹とミユはタクシーで青山から四ツ谷へ出た。車中でもふたりの会話はあまりなく、お互いに会話を乞うような雰囲気もしていたが、幸樹にしてみれば傍らにミユが居ることの充足感の方がとても大きかった。

 東京と言う街の一年は風景が絶えず変化を続けていて、そこに生きる人間でも何かを見落としてしまいがちになる。その時、お互いが一年という月日をどんなふうに送って来たのか訊ね合うことは出来なかった。それは、ミユがわざわざ自分を尋ねてくる理由がどこにもないというところから始まっていたのだが、本当のところはその理由を知りたくて仕方のない自分を考えていた。

 夜の八時を過ぎた頃に少しだけ坂を下ったところにあるイタリアンレストランに落ち着いた。店は比較的空いていて、少し大きめのテーブルに通された。モレッティで乾杯した後、小振りなパスタとピッツァを注文し、幸樹とミユは向かい合って微笑んだ。

 「こういうお店って初めてです。なんか高そう・・・」

 小声で言う幸樹にミユは首を振った。

 「大丈夫よ、学生さんにご馳走してくれなんて言わないから。あ、合格おめでとうございます」

 「あ、ありがとうございます。いえ、今はこれでも結構なくらい稼いでますよ。そう、今夜は僕が奢ります」

 ミユは少しだけ笑ったが、辺りを気にするように他所を向いた。

 「椿、忙しいですか?」

 幸樹はつい、訊いてはいけない言葉を滑らせたような気持ちがして、誤魔化すようにビールを口に運んだ。そして、視線を戻すと少しだけミユの様相が違うように思えた。落としてある照明の明かりのせいではない、幸樹は目を瞬いて少しだけ待ってみた。

 「店はもう閉められたわ。私は去年、結婚したのよ・・・」

 その言葉を聞いた時、幸樹は愕然とした。そして凍り付いてしまったように動けない自分に気付くまでに長い時間があった。

 調理場の方で食器の重なる音が耳に入ってきた。幸樹は空耳ではなかったのかと疑いたくなったのだが、確かにミユの言葉を受け止めていた。

 「あ、そうだったんですか。それは聞いていなかった。濠村さんは何にも・・・、えと・・・おめでとうござい・・・ますって、ミユさんもおめでとうですね」

 幸樹はそんなことを言いながら動揺を隠すことが出来ずにいたのではないかと思った。作り笑いをしながら顔を合わせようとすると遠い目をして外の景色を眺めるミユがいた。幸樹は無視された、そんな気もした。

 しばらくして、注文したワインがテーブルに届くと、その話の続きはない、という感じで、別の会話が始められた。

 「イタリアのワインって、他のどの国の物よりも私は好きなの」

 「僕はワインのことなんてさっぱり・・・」

 「飲んでみて、一昨年のものみたいだけど・・・」

 そんな会話の中で、時々、寂しそうな目をしたミユの態度が変だということは明らかであった。しかし、それが何なのか訊ねることも儘ならない空気も続いていた。

 そして、幸樹にとってもそれは辛いことであった。喋りすぎることで言葉の刃物で傷けてしまうようにも思えたからだ。

 傷・・・。

 傷を背負った人間は特有の空気を持っている。幸樹はその時にそれを感じた。

 そして、自分は既にこの女に溺れているのだということも確信した。

5.

 幸樹が再びミユに逢うことになったのは、晩秋の空気が漂い始めた十月の中旬頃であった。

 次は静かな場所で逢いたい------その言葉に何事かを感じながらも、ミユからの誘いに気持ちが弾む毎日を過ごした。

 当時、京王多摩センター近くに住んでいたミユが、地元の駅前で待ち合わせてもらえないだろうか、と店に電話をしてきたのが九月の末頃である。しかし、大学の前期試験が始まる直前であったことで、その予定は大幅に延びることになってしまった。

 約束の日、新宿で電車を乗り換えた幸樹は、ほぼ時間通りに駅に降り立った。そこは東京のベッドタウンとして開発が始まったばかりの新しい街である。近くに大学もあるという駅の案内板を目にして、如何にもそれらしい若者に混じって、無邪気な笑い声の響きの中を颯爽とした足取りで出口へ向かった。

 秋晴れの昼下がり、ミユは構内から一番遠いところに立って迎えてくれた。しかし、人目を気にしていたのか隠れるような印象もあって軽い緊張感を覚えた。それでも夏に見た時よりも悪く見えなかった顔色が、少しずつ幸樹の安堵感へと変わると自然な笑みもこぼれていた。

 「こんな遠くまで呼び出しちゃってごめんね」

 「遠くもないですよ」

 「ここから少し歩くのだけど、いい?」

 「そんな気分です」

 賑やかな駅の周辺からひとつ道を外れてしまえば嘘のように静まりかえった土地となる。それはまるで舞台裏の様相にも似ていて、閑散とした空き地が多く目に付いた。そんな裏手の道を右に左に折れながら、ミユは多摩という街の歴史や昔の地名の由来などを語ってくれた。幸樹はかつての情景を自分なりにぼんやり想像しながら、時には安っぽい質問も交えてみたが、ふたりの会話は急に途切れたり、かと思うと全く別の話が始まったりということを繰り返した。

 しばらくすると辺りは舗装されていない狭い畦道と雑木林に姿を変えた。開かれた視界は郷愁に満ちた穏やかな風景を見せ、そこに一歩足を踏み入れると都心とは違う層重の日差しが注いだ空気を感じた。重なり合った尾根の稜線は多摩丘陵の自然がそのままの静かな場所、幸樹は名もない田舎町に落とされた気分にもなった。

 「如何?」

 「ちょっと驚きました」

 「将来はこの辺も都市開発が進んで行くのだろうけど・・・」

 「あそこに見えるブルドーザーが虫食いにも見える」

 「面白いこと言うのね」

 前日に降った雨が色付いた木々の葉をしっとりと潤わせ、輪郭が浮かび上がるような紅葉を魅せていた。枝は風に揺れ、枯れ始めた葉がざわざわと音を立てて物悲しささえ醸し出している。それは足早な季節の変化を感じさせると共に、それまで以上にふたりを無口にさせる時間にもなっていった。

 確かに、あの日のミユは何事かに不安を抱くような翳りを段々と濃くしていったようにも感じられた。その上で、とても抗直など出来るはずもないことを幸樹は自分でよく解かっていた。

 勿論、ミユが喋らなくなると幸樹も口を噤んでしまう。それは、ふたりの相性のなさを感じさせ、時々、がっかりさせられるような思いもした。

 尾根道にはあまり人の姿はなかった。十月の半ばと云えども、秋晴れの天気の中では寒いという事もなく、ゆっくりと歩いていても首のあたりから汗が滲んで来た。幸樹は徐に手の甲でそれを拭いながら、何故ここへ呼ばれたのであろうか、というそんな疑念を感じていた。時々ミユの顔を盗み見たりもして、そこには何処か胸の隅まで滾らせていくような表情が含まれているようにも思えた。そして、幸樹にとっては嬉しさと切なさが交わった妙な気分でもあった。

 どっちつかずの熱を放出したいと感じたのか、幸樹は木々の重なった奥へと路を外れたくなり、自然に足がそちら側へ向いていくようだった。

 深い林の中に入ると、時として木枝から大粒の水滴がふたりに降り注いだ。それはとても冷たくて心の中まで凛とさせるほどであったが、気付かぬうちに神隠しにでもあってしまいそうな奇妙な空気が強く漂っていた。

 重なった光と影、現われたり消えたりを繰り返して、足許に積もった腐葉土の柔らかい弾力の感触が遠い記憶を呼び戻そうとしている。

 幸樹は幼い頃に土足で畳の上を歩いて父に強く怒られたことをひとつだけ拾いだし、首を振った。揺らした脳は一層と記憶の寂寥を忍ばせながら、再び奥へ導こうとする。それは森の中に棲む眩人が仕掛けた不気味な罠のようにも思えた。

 「もうすっかり秋、すぐに冬が来るのね」

 「そんな感じ・・・です」

 「アルバイトは夏休みが終わってからもずっとしていたの?」

 「えぇ・・・。でも、今月に入ってから前期の試験が始まって、その間は店に出なかったから、試験も終わって今が休みってところです」

 「そう・・・」

 試験の後には大学の学園祭が控えていた。ビレッジ・バンガードとしても何かを催すとは聞いていたが、連絡網はどこかで途絶えているようで、幸樹のところへは確かな情報が入ってくることはなかった。

 その頃、香代子とは随分と疎遠になっていたことを幸樹は頭の隅で考えた。学年が違うのだから当たり前のことかも知れないが、たまに部室を覗いても姿を見ることはなく、キャンパスでばったり会うということさえなかった。

 確かに香代子が自分の恋人であったのかと訊ねられれば疑問にも思えた。はっきりした理由を聞いたわけではないが、以前の香代子は時間さえあれば部屋に呼びつけ、意味のないセックスを強要した。幸樹としては男の意識を解放していったのかも知れないが、ずっと蔑むような気持ちがして辛かったという本音があった。

 これは想像だが、香代子のしていたことは自分を必死に繋ぎとめようとした行為ではなかったのかと思う。それは香代子の淫乱事という言葉だけで簡単に片付けることは出来ないと感じていた。

 幸樹は、いつのまにか香代子の部屋へ行くことを避けるようになっていった。しかし、自責だけは感じていた。どっちつかずの付き合いは優しさではない。求められればそれに応じた自分が悪いのは明白であると悟った。

 香代子は幸樹が他の女と付き合っていることを気にしながらも、責めるようなことはなかった。しかし、そこに嫉妬心があるのは幸樹が一番感じていたことだった。そのつもりなら、と香代子は濠村と付き合うことを考えたのであろうか。

 しかし、それは全くの思い上がりでもあったのだと改めた。つまり、芳野幸樹は誰からも愛されていなかったのだと、今にして結論を出している。

 与えるもの、与えられるもの、愛とは何であるのか、その疑問にはっきりとした解答を見つけることは出来ないが、それを考慮せずに異性との付き合いを続けていたのかも知れない。何れにせよ、それからは自分を卑怯な男だと感じるようにもなったものである。

 それは里美に関しても同様であった。自分ではない誰かと交際を始めたのは、多分その頃からではないだろうか。

 幸樹は夏休みの終わりに本郷の下宿を出て、里美のところに居候する形に納まっていた。勿論、母親である喜和子には内緒であったが、試験前になっても里美が部屋に戻ることが少なくなっていた。ナチュラル・オリーヴがヘア・メイクの雑誌に取り上げられても店を手伝いに来ることはなかったし、決して幸樹が取ることの出来ない部屋の電話が鳴り出すこともなかった。

 里美が何処へ行ってしまったのかわからない、心配はしていたが、幸樹の方がそんな素行を彼是言える立場ではない。しかし、部屋でひとり生活することは贅沢であるような気がして、あまり居心地の良い場所ではなくなっていった。あくまで他人の住処、そう感じながら、部屋全体を常に綺麗にしておくことだけを心がけた。

 それでも自身の生活は、時間通りの講義も、相変わらず忙しい店のアルバイトも特に乱れることはなく流れていったと言えるかも知れない。

 「結婚したのはあなたが初めて椿に来た年の夏だったの」

 考え事をしていて、一瞬、誰の声が聞こえたのかと少しばかり慌ててしまったが、あなた、そう呼ばれて、不意打ちを食らった幸樹は、自分のことを少しだけ恥ずかしく思った。

 「あの時に一緒にいた藍田、あれが・・・夫」

 「そう・・・ですか・・・」

 幸樹はその名前を聞いても別に驚きはしなかった。正直を言えば、「椿」で最初に見たふたりに、そういった空気を感じていたからだと思う。藍田は自分から見れば、完成された大人であり、魅力のある男であり、生活力も充分にあると感じていた。それを羨むということでなく、当初から負けを認めているような気持ちが幸樹の心の何処かに存在していた。

 「でもね・・・」

 幸樹がちらりとミユの様子を窺うと、言葉を詰まらせた唇がへの字になっているのが分かった。

 何かを告げようとしている、幸樹がそう感じてすぐ、その場にしゃがみ込んだミユがいた。それは刹那に散った椿の花のような一瞬の出来事であった。

 ミユの背中は静かに震え始めた。

 「死にたいくらい・・・辛い・・・」

 その言葉が幸樹の耳に届いてから痺れるような感覚が伝わった。それは絵美子の悲しい背中と同じ場面に重なっていた。そして、ミユがこの先どうなってしまうのだろうかという不安に駆られ、急に怖気づいた自分を認めた。

 記憶は何かの拍子で甦ってしまう。それが言葉であったり、流れてきた音楽であったり、匂いと言うものもそうかも知れない。その瞬間、心が捩れるような苦しさに襲われ、記憶に支配される。

 幸樹の中のもうひとりの自分は、そんな渦巻く発条を容赦なく締め上げていった。ミユからはまだ何の事情も聞いていないはずなのに、何れこの人も生きる道を失ってしまうのではないかと言う妄想が後から後からと突き上がる。

 次の瞬間、幸樹の眼から涙が溢れてきた。

 「ごめんなさい・・・」

 幸樹はただポツリとそう呟いていた。

 ミユは幸樹の発した奇妙な声に振り返り、何故そんな言葉を吐いたのか、そして、目にした突然の失態に困惑した様子であった。

 長い沈黙があったような気がする。そして、幸樹の脳に落雷が起こる前のような閃光が走った。

 全身から吹き出るような熱が起こり、胸の鼓動は激しくなり、呼吸さえ困難になっていくような苦しさ、そのまま気を失い、立っている感覚さえも遠のいて来ると、足許の辺りから一面に血の海が拡がっている幻覚さえ見えた。

 再び悪夢の中へ引き摺り込まれて行く、そう感じると計り知れない恐怖が押し寄せる。

 「死んじゃ駄目だ!」

 幸樹は頭を抱え思わず叫んでいた。喉の奥から出た情念は掠れたような響きとなり谺した。

 もう、それから後のことは憶えていない・・・。

 気が付いた時、幸樹はミユに抱かれていた。周りの雑木林に風だけが纏わり付くような音がしていた。それは鋭利な刃物が振り下ろされるような短い音が無数に拡がるようなノイズであった。

 幸樹は湿った枯葉の上で魂のないピノキオのように動けないでいた。いや、息苦しく震えていたに違いない。そんな男をミユはただ、力を込めて抱きしめてくれていた。

 「大丈夫よ、大丈夫・・・」

 そんな言葉が幸樹の耳元で聞こえていた。記憶と交錯していた音は優しい声だけを受け止められるようになってきた。冷たくなってしまった木々に太陽の光が当り始めたような温もりを感じながら、しかし、それでも幸樹は震えていた。

 「もう、帰りましょう」

 そう言われて意識が戻るのを感じた。響く音、掛けられた言葉、鼓膜の奥でくぐもった周波が思考を緩やかに戻して、何故か目の前のミユだけが鮮明に映った。

 不思議な色をした大きな瞳が涙で潤み幸樹を見据えていた。全てを、芳野幸樹という人間の何もかもを理解しているような母の目であると感じられた。その時、自分はあどけない子供のような顔をしていたのであろうか・・・と考えた。

 弾けた水滴が幸樹の頬を濡らした。それを拭うようにミユは唇にそっとくちづけてきた。

 

 その場を離れて、横木で作られた階段を下がり、畦道をてくてくと戻っていった。ミユはあれからずっと幸樹の手を握り続けてくれていた。

 「ごめん、さっきは・・・。美優さんは・・・何か話がしたかったんでしょ?」

 ミユはその言葉を無視していた。ただ、力をこめて手を握り返してきたのが答えであるような気もした。

 何処へ向かって歩いていたのだろうか、道標がなければ何も判らないような土地のせいだろうが、全く違う場所へ迷いこんでしまったようにも思えた。しかし、それならそれでもいいような恍惚感さえ私の中になまめかしく侵入し始めていた。そして、ミユの存在が今まで以上に大きくなり始めているのだと感じた。その時は一方的なものであったのかも知れないが、幸樹の胸の奥に確かな愛があった。

 しばらく歩を進めていると両側に据えられた木柵があるのが目についた。どちらからともなくそこに並んで腰を下ろし、ミユは黙ったまま持参してきたポットのコーヒーを汲み入れてくれた。

 とても静かだった。風の音、鳥の鳴き声、耳を澄ますと虫の鳴く声も聞こえてきたが、都心のノイズは届いては来なかった。晴れ渡った青い空を時折に眺めながら、それからまもなくしてミユが大きく息を吐き藍田のことを語り始めた。

 「結婚してから藍田の家に入ったの。私は良い妻になろうと思っていた。そう、彼は普段、とても優しいのよ」

 幸樹は何も応えず、空を見ていた。

 「ある日、ちょっとした口喧嘩をしたことがあって手を上げられたのが最初。確かに私も感情的になっていたから、その時はそれで折れたんだけど、次も同じようなことがあって、その時から藍田の性格が露わになったと感じたの。口答えをすれば、暴力を振るわれるようになって、そのうち私は喋るのさえ怖くなった」

 「ボウリョク?」

 ミユは着ていたアウト・シャツの袖を捲り痣になった腕を見せた。

 「身体のあらゆるところにこういう痣がある。恥ずかしい・・・」

 幸樹は言葉を失った。何を如何言えばいいのか判らなかった。藍田を批難すればいいのか、それとも普通に聞き流していれば良いのか、いくつかの感情が規程の中で絡まりあった。

 「今、藍田はレースの予選会に行ってる。でも週末までは戻っては来ない。だから・・・」

 皮肉なことにそんな時期だけがミユにとって安堵の時間となっていたのか、と思った。

 それは日に日にエスカレートしていき、脅迫めいた形相で包丁を持ち出したり、首を絞められたり・・・。ミユ自身、訳もなく暴力を受け、悪いのは自分だと謝ることによってそれを免れていたという話を聞いて幸樹は悲しみの底へ連れていかれた。

 これは今で言う<ドメスティック・バイオレンス>というものとなるが、当時はあまり表沙汰になるような問題にはなっていなかったせいもあり、単に気の短いチンピラというイメージを幸樹は思い浮かばせた。

 自分と相手の考えが違えば感情的なものが先に立ち、殴る蹴るということで相手を黙らせようとする。それは抑制が効かず人間に対する愛情の欠片も失う。そんな毎日が続くのなら逃げ出したくなっても当然のこと、逆にそんな家で我慢を重ねているミユを理解出来ない妙な思いが駆り立てた。

 「藍田の母も一緒に生活しているの。いつも殴られているところを見ているくせに庇ってもらえたことはなかった。それどころか、私を部屋から出さないように、もう、本当に・・・」

 そこまで言ったミユは一呼吸置き、目から出た涙を拭いた。それを見た幸樹は再び血が上ってくるのを感じて胸が熱くなった。きっとそんな話を誰にも出来ないでいたに違いない、と。

 「どうして、どうして我慢しているんですか」

 「逃げても追いかけられる・・・。何度も逃げようとした」

 嘘のような本当の話であった。藍田が家にいる時はミユを外に出さなかったらしい。精神的苦痛を受ければ暴力よりも心が壊れることの方が多いことを興味本位で買ったカウンセリング本で読んだことがある。例えば姑が日常で言う嫌みや否定される態度も長く続けば深い傷になるとも記されていた。

 本の中のいろんなケースは、幸樹自身が父から受けた暴力が愛情にも思えるほどに小さく感じられたほどである。

 閉じ込められるという話を聞いた時に、自分の幼い頃のことを思い出している幸樹がいた。それは粗相があった時に行なわれる罰、ひとり外小屋に放り込まれた記憶である。

 壁から漏れた小さな穴から一筋の光が埃を映し、それは静かに舞っていた。涙も涸れ、自分はその場にあった紐で首を括ろうかと考えたこともあった。

 それが寒い風が吹く冬の中では意識がなくなりかけた。こんなところに閉じ込められるくらいなら、ちゃんと親の言うことを聞かなければならないと、確かに思ったほどだ。

 それが、昔に行われていた体罰による躾であったことは言うまでもないが、この先、自分に子供が生まれれば同じことをするのであろうか・・・。

 決してそんなことはしたくない・・・。間違った家庭環境、幸樹は単純にそういう結論に達していた。

 これは昔の人間が考えた心理的な方法で、子供はその責任を自分で理解する知恵を養っていたのだと考えた。しかし、幸樹は未だに父が好きになれない。そんな父親から離れたくて私は神戸をひとり出ていくことを企てたのだ。今も何らかの恐怖は付き纏い、肉体が解放されても精神が癒されることはずっとなかった事実もある。

 もしかすると先に亡くなったと言う藍田の父はそれらと同じだったのではなかろうか。体罰を行えば、子供は優等に育つものだと信じて・・・。

 しかし、実父の虐待という呪縛から解放されなければ、それは深い傷跡として残るはずである。暴力を受け、それに反抗する強さがない者は奴隷のような関係を続けなければならない。自分が一家の主になれば、その顔は洗礼を受けた悪魔に変貌し、さもそれが正しいことであるように拳が上げられてしまうのだと感じた。

 自分は天使でも悪魔でもないと幸樹は思いたかった。覚えたことは狡さと情けなさだけだったのだと考えていた。そして、その場からの脱出、それが最善の対処であるのではないかと、幸樹はひとつの決断をした。

 「行こう」

 幸樹はミユの手を取った。

 「行こうって・・・何処へ?」

 「僕が・・・僕が守ります」

 「駄目よ、あなたに迷惑かけるつもりはない・・・」

 ミユはそう言いきって幸樹を真正面から見ていた。それは子供を宥めるような母の言葉にも思えた。ただ、ミユとそのまま別れて悪魔の棲む家へ帰してしまうことは如何しても出来ない、自分は確かに興奮していると感じながら。

 「死にたいくらい辛いって!さっき・・・美優さん!そんな哀しいこと言わんでください!」

 暴言を吐くような口調で幸樹は叫んでいた。わなわなと自分の手が震えていた。その後の沈黙の中、上空で風を吸い上げるようなジェット機の音が遠くに流れていった。

 「ごめん・・・大きな声出してすみません」

 ミユは自分を守るように蹲っていた。幸樹はその時に幼い頃の自分の姿を見た気がした。そして、父の感情的な形相の記憶が重なると、絵美子が家を出た理由も凡そ同じなのではないだろうか、と思い始めた。

 幸樹は絵美子が父に暴力を振るわれていた現場を目撃したことなどなかったが、何故だかそんなふうに感じた。そして、絵美子の恋人だった男が、絵美子を守ったのだ、そんな思いがしてならなくなった。その時の幸樹は過去の陰影に囚われながら、はっきりと見えてこなかった理由を強引に愛という答えに当て嵌めようとしていただけかも知れない。

 「僕は殴ったりしない。ちゃんと美優さん守るから・・・だから・・・」

 安っぽい科白にも感じた。しかし、それはミユに対する幸樹の真実の想いであった。怯えている自らの心をゆっくりと包み込むように、愛すべきは何もないと感じていた自分の間違いを正すように、そして、悲しみと嘆き、酷く痛めつけられたミユの姿を切なく感じるように・・・。

 

 ミユをマンションへ連れていくつもりでいた。しかし、そんな時に限って里美が帰って来ているような予感が働いて、近くの公衆電話から部屋へ掛けてみた。

 四回目のコールの途中で受話器が上がった。少しがっかりした自分がいた。

 「はい」

 「あ、僕・・・」

 「あ・・・」

 少し慌てた様子が窺えた時に、男がいるのだと察した。

 「里美はいつ帰って来たの?」

 「うん、さっき」

 そう言った後に少しだけの沈黙があった。電話の向こうでは流行のディスコ・ミュージックが流れていた。

 「あのさぁ、・・・そこ、出て行くよ。今、近くにいるんだけど、必要な荷物だけちょっと取りに行きたいんだけど」

 「・・・今?」

 「あ、気にしないで、ちょっと急ぐんだ」

 「わかった・・・」

 幸樹はミユを駅前の坂の途中にある喫茶店に残して、マンションまで歩いていった。街路樹の隙間から空を見上げると夕焼けがあり、吸い込む息が幾分冷たくなったと感じた。少しだけ肩を窄ませて立ち止まると、滑らかな坂道が目の前に、そして遠くに見渡せた。

 幸樹は頭の中で、ここを里美と一緒に何度歩いたことだろう、そんなことを按じていた。何も考えずにただ通り過ぎただけの距離を振り返れば、取り戻せるものなど何もなかったのではないかと苦笑させられた自分を確認していた。

 マンションに着いてから合鍵を使わずにチャイムを押した。しばらくすると、内側から重たいドアが開かれ、少女のような装いの里美が顔を出した。

 「ちょっと人が来てて・・・」

 「いいんだ、こっちこそ悪いな」

 幸樹は足早に部屋に入り、片づけてあった大き目のアーミー・バッグに最小限のものだけ詰め込み始めた。ややあって、男が頭を掻きながら洗面所の奥から出てきた。そして、「コンチハ」と呟くように言った。幸樹は落ち着いた振りをして「はじめまして・・・妹がいつも世話になってますね」と言うと男は笑顔になった。

 童顔の頼りなさそうな男だったが、そんなことは如何でもよかった。幸樹は荷造りをしながら、「ちょっと旅に出るもんで、ごゆっくり・・・」とまで言うと、男は一言、「どうも・・・」と返事をしただけで居場所を失くしたように里美の側に近づいていった。

 慌しい準備が済んでバッグをひとつ抱え、幸樹はマンションの玄関を後にした。ちょっとした恋愛ドラマに似ていると感じた。短い廊下を歩き過ぎると、サンダルを突っ掛けて里美が追いかけて来る。もしも脚本と言うものがあれば、その場で「行かないで、私を置いて行かないで・・・」という台詞が続くのかも知れないと想像しながら、そのあとすぐに自分は何と愚かな想いを持っているのだろうと感じた。

 「どこ行くの?」

 「ちょっとね、他の荷物は少しの間だけ預かっておいて。また連絡するから」

 「ねぇ・・・ううん、何でもない。兄貴でありがと」

 「いや・・・」

 「また」

 「おう・・・」

 あまりのさっぱりした会話で東京という文字が再び横切っていった。しかし、里美は全てを理解しているようにも思えた。幸樹は建物の前でもう一度だけ振り返ってみたが、そこに里美の姿はあるはずもなかった。

 そして、もう一方でミユが気になっていた。ちゃんと待っていてくれるだろうか、という不実感もあり、重い荷物を肩に息を切らしながらミユの居る喫茶店まで走り通した。

 薄暮の日没、坂道の途中で穏やかな灯りが燈された店が目に入ると、ほっとする自分がいた。

 何かを失くしてしまったような顔をして頬杖を突くのはミユの癖なのかも知れない。そこには、窓辺から淡く入って来る街の電飾で綺麗なシルエットになった女が座っていた。

 その魅惑的な空気を幸樹は好きだと思った。そして、昼間に交わした抱擁と接吻の情景を反芻し、それが性的でなかったことに少しの安息感があった。

 大事にしたい------幸樹はミユのことをそう思っていた。しかし、そう思えば思うほどミユを欲しくなっている自分がいることも分かっていた。

 「ごめん、待たせて・・・」

 相手のことを上目遣いで見るミユのその目も好きだと幸樹は思った。

 「待つことは嫌いではないの。待っている時間は私にとって貴重なのよ」

 注文を取りに来た物静かなマスターに、幸樹はアイスティを注文した。コップに注がれ目の前に置かれた冷たい水を飲み干してミユを見つめると微笑んでくれた。それは、やはり母に見えた。店の中で流れていたクラシックピアノがビル・エバンスの音色のように聴こえ、幸樹の心をゆっくりと癒し始めると、ミユは歌舞伎町の知っているお店に行くから、と言った。だが、幸樹はそれを制した。

 「別の場所がいいと思う、それと・・・これからはボクと一緒にいてください」

 口にした言葉が宙を浮いていたような気もした。幸樹はつまらないことを言ったのではないかと少しだけ怖くなり、目を伏せた。お遊びはここまで、全て嘘よ、と云われるのか、あなたに何が出来るの?と笑われるのか、あるいは、自分のしたことはミユにとって迷惑そのものであったかも知れない、と感じ始め、ゆっくりと顔をあげた。

 「ありがとう・・・」

 ミユの目に溜まった涙が、上を向いた拍子に頬を伝わっていった。幸樹はテーブルの上で握りしめられていたミユの手を取り、「必ず」と囁いた。

 街は濃い闇に包まれていた。通勤帰りの人々や学生が往き来する歩道、並んだ店からはそれぞれに違う音楽や話し声が聞こえている。そんな喧騒を避けるように裏側の路地へと足を向け、なるだけ人通りの少ない道を探しながら幸樹はミユを連れて歩いた。

 周辺の道には詳しい、そのせいか幸樹の歩みが速くなっていた。ミユは置いていかれまいと幸樹の腕を掴んで来る。その手を取り、再び重ねると抱き合うような形になって少しばかり照れている自分がいた。しかし、不思議なことに寄り添うのが自然なような気もした。

 「とにかく、今晩の宿を探さないと」

 「そうね」

 「近くにガーデンプラザいうホテルがあります。今夜はそこに・・・兎に角、休んで、明日迎えに来ます」

 ミユは困惑したような顔つきになった。無理もない、何かを決心し、不安を抱えたままの言わば逃避行。それまでの消費したエネルギーは、ずっと大きなはずであった。たぶん、ひとりになるのが怖いのかも知れない。だからと言って一緒の部屋で過ごすことは憚られるような気がして、幸樹がそれを提案したまでだった。

 幸樹とミユは、近くのレストランで軽く夕食を済ませ、そのシティホテルへ向かった。夜風は体を収縮させるくらいに冷たくなっていた。そんな中を言葉少なに歩いた。

 「おいで」

 ミユは幸樹の手を取り、何かに引き寄せられるかのごとく歩み出した。昼間に見たあのミユの強さ、そして弱さ、その二つが混在しながら、幸樹の心だけが不安定な揺れをする感覚が残っていて、それは、そのまま態度に表れていたのではないかと思われた。

 ガーデンプラザを通り過ぎ、次の小さな路地へ入っていくと、場違いな電飾が現われた。段々とそこが近くなるにしたがって、幸樹は胸が高鳴っていくのを覚えた。そして、いつしか頬を紅潮させていたに違いなかった。

 「ここにしましょう」

 「いえ、僕は友達のところへ行きますから・・・」

 「こういうところはね、ひとりじゃ入れないのよ」

 「でも、よく分からないというか、何というか・・・」

 「あっちより安いわ、それに一緒にいたいの」

 「でも」

 ミユは瞬きを繰り返す幸樹を見て笑っていた。そして、映画館にでも入るように手を引いた。正直なところ幸樹はラブホテルという場所を知らなかったのである。しかし、ミユはフロントへ向かうなり、慣れたように耳元でいろいろと教えてくれた。と言っても、ガラスの向こうへお金を払い、ただ鍵を受け取るだけであったのだが、やはりいつの時も初めてのことは尻込みをする自分なのだと感じて悔しく思った。

 部屋の中で星が哀しいくらいに儚く輝いていた。薄っすらとした光の中で、目に前にいる女がとても綺麗に見えた。ミユは真っ先に煩わしい音楽を切り、灯りを落とし、そして静かな空間を作り出すと深い息を吐いた。

 換気扇のノイズだけが部屋に残り、沈黙が続くとミユの呼吸が耳に届いた。逆に、そこにある感情を押し殺すかのように幸樹は息を堪えた。

 「不思議ね」

 幸樹はその言葉に何も応えられないでいた。

 「前から言おうと思っていたのよ・・・」

 「何を?」

 幸樹の声は力なく響いた。

 「ずっとあなたが好きだった・・・」

 静寂の中でミユの声が響いただけで、幸樹は呆然としていた。昨日までの自分には想像も付かなかった言葉でもある。

 「最初に逢った時からずっと・・・。如何してなのかはわからない、でもいつもあなたのことばかりを考えていた。きっと人生にはこんなこともあるのだと信じたわ」

 幸樹はミユに導かれ、小さなソファに座らされた。

 「もう一度、言うわ・・・・ありがとう」

 ミユは幸樹の頬を挟みこみ、乾いた唇を潤してくれた。そして、余計な力が入ったまま動けずに、じっとしていた。ミユのその蕩けるような甘いくちづけに「幸樹」というミユの声が心に響いてきて言い知れぬ興奮に襲われた。

 いつのまにか、幸樹の手とミユの手が重なり、こうしていれば全ての悪夢から逃れられるとでも言うように柔らかい力が指に込められた。それは深い宇宙の中、急激な速さで流れた塊が火を放ったような瞬間となった。

 あの時、ミユの首筋に烈しくくちづけながら、全身で何を感じていたのだろうか、と幸樹は考えていた。温もりが流れこんでくる素肌の感触を、思い出すだけで泣きたくなる。

 お互いに痛いほど抱きしめあって、それは前世で無理やり離されてしまった男と女の愛おしさを感じさせていた。いつまでも、いつまでも、いつまでも・・・。

 出逢ったことも、愛しあえたことも、いつか来る別離も、それに対する理由なんて必要なかった。

 「愛している」という言葉が溢れ出した。何度も、何度も、何度も・・・。

 幸樹はミユを見てやわらかく笑ってみせた。そして、またミユに触れた。

 何故、あんなにも懐かしさを感じられたのであろうか。穏やかな瞳が幸樹を落ち着かせていた。それは柔らかで温かい、ふわふわと包まれた母のそれではないかと想像した。

 幸樹はゆっくりとミユの肩を引き寄せ、そのまま背中に手をかけた。それは甘美な動きであった。肩にかかった髪が、自分の体に流れて、ミユの熱い吐息が胸に落ちた。

 そして、ミユは崩れるように「気持ちいい」と呟いた。

 その肌は色彩を増しながら輝いていた。快楽の渦の中へ吸い込まれそうな気分に陥ると、これが本当の愛なのだと自覚しながら運命的な感動だけを拡げていく幸せだけがあった。

 時間が止まればいいと思った。

 何も怖くはなかった。

 このまま死んでもいいとさえ感じていた。

 そして、幸樹は全てを受け入れることに決めていた。

 「これからはずっと一緒にいよう」

 ミユは幸樹の囁いた言葉に顔を赤らめるとこっくり頷いた。その時、幸樹の頭の中で遠い日の記憶が鮮やかになったりぼやけたりしながらゆっくりと薄らいでいくのを見た気がした。

 若さだけの後先のない夢だと言われても、それが愛だと確信するように・・・。

 「ねぇ、見て、すごい、あれ」

 ミユが指さす部屋の天井に仕掛けられた光のオブジェがゆっくりと動いている。

 霞んだ雲の中から上弦の月が浮かびあがり、少しずつ変化を繰り返している。満月を迎えると濡れた月光を浴びた気分になり、そんなエネルギーを蓄えるように幸樹は大きく息を吸いこんだ。そして、再び順番に欠けて行く月を眺めながら、幸樹の心に深い沈みを与えていくと、暗闇の中で密かに笑う男の顔を見た気がした。

 

(6へつづく)

 
 
 
閉じる

Copyright © 2003-2026 T-MOON MUSIC Productions Inc. All rights reserved