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大きなため息がでた。たった今 Sigh を読み終えたばかりだ。 16日Sigh の最終回が UP されたのを見届けて真っ先に私がしたことは、この小説の全てを持ち帰ることであった。 そして休日の今日、メモパッドにコピーしたそれらをプリントアウトすると、A4サイズの用紙は83枚、(それは私のプリンターがちょいとイカレていることや、改行の設定がなってないことも起因するが)かなりの量である。 私は画面で長編を読むのが苦手だ。目が疲れることやスクロールのタイミングの下手さで、これほど長い物語を一度に読む自信がない。読み物は活字にして読むととても落ち着くし、そうして読みたいと思っていた。 その厚みのある紙束の四辺をトントンと整えて綺麗にすると、まるで読みたかった本を書店でみつけて持ち帰ってきたときの、さぁ読むぞといったわくわくした気持ちにとてもよく似た高鳴りがあった。 しかし、いざ読み始めるととてつもない緊張があることを認めないわけにはいかない。そう、一言一句見逃してはならない、そんな気分。何という大それたことを引き受けてしまったのだろうと思ったのは後の祭り。一年間を通して処女作の連載という大きな仕事をデカシたともさんの前で、その解説なんぞシデカシていいのか?私は少し萎縮した。 ところが、その緊張は一枚の紙の半分も読み進むとすっかりと消えて、いつの間にか私は物語のなかに入りこみ、息をするのも忘れてしまったようなそんな勢いであっというまに読み終えていた。 そして、胸の奥深くから大きな大きなため息がもれたのである。さっきまで呼吸することを忘れていたような・・・そうじゃなくて、私の呼吸法を忘れていたような・・・そのくらいに話の中に入り込んでいたということは、一体どういうことだろう。 このため息とともに今、私の中に見えるシーンは、あまり具体的には書かれていなかった吾郎と朱美の日々である。二人が一緒にいた頃の、何気ない日常のさりげない時間たち、そのひとこまひとこまが、次々と想い出されるようなそんな感じだ。 それは吾郎の記憶を通して、私が想像するものなのだろう。ささやかな記憶のかけらたちが、まるで Night head の彼方から目を覚ましたように関連のない連鎖をして蘇る。そしてそうしたひとこまひとこまが想い出されるうちに、ごくごく自然に涙が流れてしまうのだ。想い出は、恋しさとか懐かしさとかそんな言葉で表すことの出来るものじゃなくて、もっともっと愛しいもの。 初めて画面で読んだときには、勿論終わりはまだ見えていなかったし、今月が最終の回とも知らずに、ただ吾郎をこれまでにする朱美というひとの魅力は一体何であるのかわからないという印象が強かった。初めて愛したひとを想いつづける吾郎は純なのか、純だから思い続けていられるのか。そうしたことに興味があった。 物語が終わりに近づき、吾郎自身も自問する。しかし、そのときにはもう、私の中でそんなことはどうでも良いことになっていて、恨むということもない、許すと言う言葉もいらない、それは本当にそうだと思った。 ――とても愛していた。当時は若かったかも知れないが、今日まで生きてきてあんなふうに誰かを愛することはなかった。いや、愛することが出来なかった。―― 愛するということは多分、刹那と刹那の集まりだ。幸せなときも楽しいときも、辛いときも苦しいときも、それぞれのひとの気持ちは刹那的なものなのだと思う。同じ時は二度としてなく、同じ気持ちも二つとしてなく。そうしたものが、閉じられた部屋の扉を開けたときに吹きこむ風に舞い上がるほこりを、カーテンのすき間から差しこむ光がかざしてきらきらと見せたときのように浮かびあがらせる。色んな断片が一度に色んな記憶を呼びさまし渾然と主張する。想い出したということも鮮やかに教えてくれる。 ――どんなものを撮るにしても、シャッターを押せば光の束は乳剤色に忍び込み、記録として残る。それを鑑賞する者は構図そのものの面白さを要求する。肉眼で見る被写体とレンズを通して見る被写体との違い、日常生活で人間が見落とした現実に対しての違和感が面白い写真を作るのだと考えた。――
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まったくともさんは創作の世界においてプロだな、と思った。お部屋にお邪魔するようになってからそれほどの時間が経っているのではないのに、このようなことを書かせていただくのはとてもおこがましいことなのだけど。 プロとは質のある商品をコンスタントに生産することだ。質が落ちてもいけない、コンスタントでなくてもいけない。特にこうした世界において、それはいっそう厳しいものだと私は思う。それを考える時、『 仕事 』を抜きにしたこの小説にも、日頃のともさんのシセイとかカマエが感じられるのである。凄いことだとつくづく思う。 実際、Sigh の更新にあたり、他のお客さまとの掲示板のやりとりを拝読すると、実にきちんきちんと更新されたことが窺い知れた。しかもとても丁寧に。それは私にプロを感じさせるには充分だ。 一日のうちで、大人が社会人としての生活やひととしての営みの時間を差っぴいたとき、残る時間はほんの僅かなものだ。そんな中、とてもお忙しい中で、このようにして一年の間に完結まで持ってくるには、それなりの配分というものがあっただろうと思う。それは物語の進め具合においての配分だけではなくて、あらゆるものに対してのペースを作ること。そうしたセルフコントロールが、ともさんには沁みついていて、そこにご自身がおっしゃるたたきあげから派生するコンジョーの香りを聞かずにはいられない。それは、っぷんっぷん匂っちゃったりする。 吾郎の女性を見る目の温かさは一体なんだろう。どうしてこの男の回りにはいい女ばかりがいるのだろう。吾郎の関わる女たちは誰一人、人物に嫌味がない。(アキラも含めて)実際に吾郎はそうしたひとばかりに惹かれるのか、それともそうした部分だけを見ているのか、はたまたそうした部分を引き出すのが上手いのか。彼らの間には、憎しみや嫌悪はおろか口喧嘩すら起らない。女が女を見るときの、ほんの爪の先ほどのジェラシーや競争心、いってしまえば意地悪な目を、吾郎からは感じない。 それはそのままともさんに繋がることなのか、はたして一体どうなのだろう。吾郎は分身?対極?それとも隣人?私はそれをこれから頭の片隅において、ともさんのお部屋へ通わせていただこうと思ったりする。 創造の世界は満足に終わりがない。一つことを成し得て、それは自分にとって最大限の力を注ぎ込んだしかも傑作となったものだとしても、出来上がった時点で創作(制作)時間は過去だ。つくり上げる時間が過去となると更なる満足への餓えがくる。ともさんは常に足りないものを見つめている。もっともっとのひとである。 来年は、本業の音楽活動がお忙しくなられるとアナウンスされている。だから小説を書くことはいったんお休みなのだそうである。それはとても残念ではあるが、多分きっとその状態はお休みなんかじゃなくて、(小説は)ずっとアイドリングの状態なのだと私はふんでいる。そしてまた、次の走りへと向かっていかれることだろうと読んでいる。とても楽しみなことである。
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謹んでお礼を申し上げます。 ともさん、 Sigh....の完成おめでとうございます。 心からお祝い申し上げます。 お疲れさまでした。しばしゆっくりなさってください。 そして、このようなものを書かせていただきまして、ありがとうございました。 結局のところ、最初から最後まで楽しませていただきました。本当に。 小説を読む楽しさ、そしてこうして書いている間も楽しくて、まだまだ書いていたいくらいに心地よい緊張感と素敵な時間をいただけたこと、とても嬉しく思います。 書き終えながら、安堵の大きなため息とともに、心から感謝いたします。
2004年/クリスマスキャロルの季節に Prison Hotel momo*
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